行ってこい
森の浅いところまで戻ると、鳥の声がうるさいくらいに聞こえた。
行きに通ったときは、しんと静まりかえっていた道だ。今は枝のあちこちで小鳥がさえずって、足もとの茂みを何かの小さな獣が走り抜けていく。
「戻ってきてる」
ネルが、走りながら言った。息が上がっているのに、声は少しだけ明るかった。
「シェイラさんの言ったとおりだ」
「あの人、ほんとに何者なのよ」
「わからない」
「あんたの『わからない』、今回の旅で何回聞いたかしら」
俺は答えずに、足を速めた。
木々のあいだから見える空が、どんどん赤くなっていく。黒い幹の影が長く伸びて、足もとの苔を覆っていく。日が沈みきるまでに、森を出る。父さんとの約束だった。
やがて、木々の向こうがぱっと開けた。
畑だった。見慣れた畝と、その向こうの小さな家。煙突から、細い煙がのぼっている。
森の入口に、父さんが立っていた。
斧を下ろして、柄の先を地面についていた。足もとには、割りかけの薪が転がっている。出発の朝、俺たちが森へ踏みこんだときと同じ場所だった。
俺とネルは、森の境目で足を止めた。
最後の日の光が、畑の向こうの丘に沈んでいくところだった。
◇
父さんは、何も言わなかった。
いつもなら「遅かったな」とか「腹減ったろ」とか、何か言うはずだった。でも、父さんは黙ったまま、俺の顔を見て、それからネルの顔を見た。
俺たちの足もとを、見た。
それから、俺たちの後ろの森へ、目をやった。
黒い木々が、夕闇の中に沈みかけていた。父さんは、その奥をしばらくじっと見ていた。何かを探すみたいに。何かに、耳をすますみたいに。
「……二つ、か」
ぽつりと、そう言った。
俺には、意味がわからなかった。ネルも、俺の横で首をかしげていた。
父さんは、それ以上何も言わなかった。斧を肩にかついで、俺の頭に大きな手を一度だけ載せた。ごつごつした手のひらが、いつもより少しだけ長く、そこにあった。
「入れ。母さんが待ってる」
◇
戸口に、母さんが立っていた。
前掛けの前で、両手を重ねていた。出発の朝と、同じ立ち方だった。
ネルが、俺より先に駆けだした。
母さんの前で止まって、荷物の口を開けた。中から、二つの包みを取りだす。ネルが縫った白い手ぬぐいと、母さんの古い手ぬぐい。どちらも、結び目は出発の日のままだった。
ネルは、それを両手で母さんに差しだした。
「一枚も、使いませんでした」
声が、少しだけ震えていた。
母さんは、包みを受け取らなかった。
そのかわりに、ネルの体ごと、両腕で抱きしめた。
ネルの耳が、ぴんと立った。それから、ゆっくりと伏せていった。包みを持った手が、行き場をなくして宙に浮いていた。尻尾が、ばさばさと揺れはじめた。いつまでたっても、止まらなかった。
「おかえりなさい、ネルちゃん」
母さんの声は、静かだった。
でも、怒っている静かさではなかった。
母さんの肩越しに、ネルが俺のほうを見た。目が、また赤くなっていた。窪地で泣いたばかりなのに。
俺は、見なかったふりをした。
「リトも、おかえり」
母さんが、ネルを抱いたまま俺に言った。
「ただいま」
それしか、言えなかった。
◇
その夜の晩飯は、やけに豪華だった。
鍋いっぱいの肉と根菜の煮込み。焼きたての平たいパン。父さんが冬のあいだに燻しておいた猪の腿肉が、厚く切って皿に並んでいた。母さんは、三日前からずっと、何かを煮たり焼いたりしていたらしい。
腹がふくれて、少し落ちついてから、俺は話した。
印の木の先の、黒い森のこと。足跡が止まった焚き火のこと。窪地のこと。
シェイラのことだけは、言わなかった。ネルも、何も言わなかった。窪地からの帰り道で、二人で決めたわけじゃない。でも、なんとなく、言わないほうがいい気がしていた。あの人は「村までは行かない」と言ったのだ。
「窪地の底にいたのは、角の生えた大きな熊みたいなやつだった」
父さんの手が、杯の上で止まった。
「左の角が、根もとから折れてた」
ネルが、横からじろりと父さんを見た。
「ルクスの串焼き屋のおじさんが言ってたわよ。お父さんが、この冬、馬鹿でかい角を売ったって」
父さんは、杯をゆっくりと置いた。
「落ちてた、って言ったんですよね」
「ああ」
「落ちてたんですか」
父さんは、真面目な顔でうなずいた。
「落ちてたんだよ。あいつの頭から」
ネルが、口に入れていた煮込みを吹きだしそうになった。慌てて手で口を押さえて、肩を震わせている。母さんが黙って、ネルの前に水の入った杯を置いた。
「……で、どうした」
父さんが、俺を見た。
「倒した」
父さんは、何も言わなかった。
ただ、俺の顔をじっと見ていた。驚いているようには見えなかった。怒っているようにも、見えなかった。窪地の底で見た、あの折れた角の跡を思いだしているような目だった。
「ネルが、見つけてくれた。父さんの折った角の跡に、全部の線が集まってた」
「……そうか」
父さんは、ネルのほうを向いた。
「嬢ちゃん。ありがとうな」
ネルは、杯を持ったまま固まった。それから、真っ赤になって、首をぶんぶん横に振った。
俺は、荷物の底から布の包みを取りだした。机の上で開く。拳くらいの黒い石くれと、小さなかけらがいくつか。
暖炉の火の届かない、机の影のほうへ寄せる。石くれの縁が、青白く光った。
母さんが、小さく息をのんだ。
父さんは、星鉄を見ていた。でも、手は伸ばさなかった。
「ガンツに渡せ」
それだけだった。
俺は、星鉄を包みなおした。それから、ずっと言おうか迷っていたことを、口にした。
「窪地のふちに、古い炉の跡があった。石を輪に並べたやつ」
父さんは、何も言わなかった。
「そのそばの木に、あの紋があった」
暖炉の薪が、ぱちりとはぜた。
父さんの手が、机の上で止まっていた。杯にかけた指が、動かなかった。
長いあいだ、誰も何も言わなかった。
「……まだ、残ってたか」
父さんが、ぽつりと言った。
窪地のふちの、あの古い炉の跡を見ているような声だった。俺の知らない、ずっと昔の夜を見ているような。
「父さん。あれは」
「まだだ」
父さんは、杯を持ち上げて、ひと口飲んだ。
「まだ、だ。リト」
それで、終わりだった。
母さんが、黙って立ちあがった。父さんの杯に、湯気の立つお茶を注ぎたした。それから、俺の杯にも。ネルの杯にも。
母さんの手が、父さんの肩に一度だけ触れて、離れた。
俺は、それ以上聞かなかった。
聞いても、父さんはきっと笑ってはぐらかす。そう思っていた。でも、父さんは今、笑っていなかった。笑えないくらい大事なことなんだと、それだけはわかった。
◇◆◇
翌朝、俺たちは王都へ発つことにした。
もう少しいてもいいのよ、と母さんは言った。でも、星鉄を早くガンツさんに届けたかった。それに、ここにいると、父さんにもう一度聞いてしまいそうだった。
まだだ、と言われたのだ。
なら、待つしかない。
家の前の小道まで出ると、父さんがいた。
今朝は、薪を割っていなかった。斧は、薪割り台に刺さったままだった。父さんは、門のかわりの古い杭の横に立って、腕を組んでいた。
俺とネルが前に立つと、父さんは腕をほどいた。
「リト」
「うん」
「この一年で、背が伸びたな」
それは、帰ってきた日に言われると思っていた言葉だった。
父さんは、俺の頭に手を載せかけて、やめた。そのかわりに、俺の肩を一度、拳で軽く押した。押されたぶん、俺の足が半歩下がった。
「行ってこい」
いつもの大きな声じゃなかった。
でも、どんな大声より、まっすぐに届いた。
「……行ってきます」
父さんは、うなずいた。それから、ネルのほうを向いた。
「嬢ちゃんも。また来い。今度は薪割りの続きだ」
「……はい!」
ネルの返事は、裏山まで響きそうなくらい大きかった。
母さんが、戸口から歩いてきた。ネルの前に立って、ネルの外套の襟を、両手でそっと整えた。ネルが道中の夜に縫った、あの手ぬぐいと同じ白い糸で、襟の端がかがってあった。母さんが、いつのまにか直してくれたらしかった。
「次は、薬のいらない用事で帰ってきてね」
「はい。……また、来ます」
ネルは、少しだけ迷ってから、言い直した。
「また、帰ってきます」
母さんは、ネルの頬を両手で包んだ。
「待ってるわ」
俺たちは、歩きだした。
しばらく歩いて振り返ると、父さんと母さんは、まだ小道の先に並んで立っていた。父さんが、片手を大きく上げた。母さんは、両手を前掛けの前で重ねていた。
もう一度歩いて、振り返ると、二人の姿は丘の陰に隠れていた。
かわりに、ぱかん、と薪を割る音が聞こえてきた。
「……あんたの父さん、照れてるわね」
「たぶんな」
ネルは、くすっと笑った。尻尾が、ゆっくりと揺れていた。
◇
ルクスからの帰りは、北へ向かう商隊に護衛として雇ってもらった。
来た道を、逆にたどる。宿場町を過ぎ、川を渡り、雪の消えた畑のあいだを抜けていく。行きには裸だった木々が、帰り道ではすっかり若葉をつけていた。
ネルは、夜の焚き火のそばで、ときどき荷物の底の星鉄の包みに手を当てていた。
「紅糸の、相棒のぶん」
「ガンツさん、なんて言うかな」
「決まってるでしょ」
ネルは、焚き火を見ながら、ガンツさんのしかめ面をまねした。
「……足りん」
俺は、思わず吹きだした。
◇
王都の白い城壁が見えたのは、出発から十日あまりたった昼過ぎだった。
南門をくぐると、街は春の匂いでいっぱいだった。花売りの声、焼き菓子の匂い、運河の水面に映る若葉の色。ひと月ちょっと離れていただけなのに、何もかもが少し違って見えた。
ギルドのホールに入ると、受付の向こうで、ミリアさんがぱっと顔を上げた。
「リトさん、ネルさん!」
ミリアさんは、受付台から身を乗りだした。それから、俺たちの顔を順番に見て、腕を見て、足を見た。
「お二人とも、ちゃんと足がありますね」
「なによ、それ」
ネルが笑った。
「冬至の願い事、今年もちゃんと叶ってるか、確かめないといけないので」
ミリアさんは、にこにこしながら帰着の届けに判を押した。それから、ふと手を止めて、受付台の下の引き出しを開けた。
「そうでした。お留守のあいだに、リトさん宛てのお手紙が届いてるんです」
差しだされたのは、厚手の白い封筒だった。
差出人の名前は、どこにも書いてなかった。宛名の「リト様」という文字だけが、細くて丁寧な字で書かれている。
封筒を裏返して、俺の手が止まった。
封をしている蠟に、紋が押されていた。
翼を広げた鳥と、その下に一本の剣。
上着の内側の、父さんのナイフの鞘の隣。そこにしまってある、銀の割り符と同じ紋だった。
「届けに来たのは、紺色の服を着た、無口な女の人でしたよ」
ミリアさんは、いつもと同じ笑顔のまま、ほんの少しだけ声を落とした。
「左手だけで、手紙を置いていかれました」
ネルが、俺の袖をぎゅっとつかんだ。
俺は、封筒を見下ろした。
春のホールのにぎやかな声が、少しだけ遠くなった気がした。




