白い花の咲く朝
ふちに這いつくばったまま、俺はネルに小声で言った。
「下に下りたら、声は出ない。合図は、それで」
ネルの腰の紅糸を指さす。明け方の薄闇の中で、刃の縁が青白く光っていた。
「線が見えたら、その刃先で指してくれ。俺はそこだけ見てる」
「わかった」
ネルは紅糸を鞘から少しだけ抜いて、自分の手の中の光を見た。
「指さしにはちょうどいいわね。ばあちゃんの鋏、こんな使い方されるなんて思ってなかったでしょうけど」
「怒るかな」
「怒らないわよ。ちゃんと役に立つなら、それでいいって人だったもの」
すぐ横で、シェイラが膝を抱えて座っていた。紫の目が、窪地の底の黒い影をじっと見下ろしている。
「私は、ここ」
「下りないんですか」
「静かにするだけって、言った」
シェイラは、俺のほうを見ずに言った。
「左から。あれは、右に回るほうが速い」
俺はうなずいた。
ネルと目を合わせる。ネルが小さく顎を引いた。俺たちは、角の折れたほうの斜面へ、這うように下りはじめた。
背中のうしろで、世界の音がすっと抜けていった。
◇
窪地の底は、思っていたよりずっと冷たかった。
黒い土の上に、夜のあいだに降りた霜が薄く張っている。焼けた陶器みたいにつやつやした地面が、霜をまとってぼんやりと白い。踏むたびに足の裏でかすかに何かが割れる感触がした。でも、音は一つもしなかった。
あちこちの石くれの隙間から、青白い光が漏れている。ネルの腰の紅糸と、同じ光。
その光の真ん中に、主が寝ていた。
近くで見ると、ふちから見下ろしたときよりさらに大きかった。丸めた背中が、黒い小山みたいに上下している。寝息に合わせて、白い息が角の根もとから立ちのぼっては消えた。
俺は歩きながら、手のひらの上に泡を一つ浮かべた。
中に水を閉じこめて、膜を閉じる。その泡を、もう一回り大きな泡でそっと包む。春の川の上で覚えたやり方だ。外の泡が揺れを吸って、内側の水には指一本ぶんの震えも届かない。
そこへ、プチフロストの冷たさを静かに流しこんだ。
いつもなら、ここで長く待つ。水が凍るのをこらえて、こらえて、凍らないまま冷えきるまで。
でも、今朝は違った。
まわりの空気が、もう冷えきっていた。苔の先が凍るほどの朝だ。冷たさを流しこむそばから、泡の中の水はすっと静まって、あっという間に「凍る手前」でぴたりと止まった。
(……早い)
今までで、いちばん早かった。
泡は、手のひらの上でじっとしていた。見た目はただの水の玉だ。でも、指一本でつつけば、その瞬間に真っ白な花になる。
ネルが、俺の袖を引いた。
主まで、あと二十歩もなかった。
◇
ネルの足もとで、霜が割れた。
音はしなかった。でも、割れた霜の下から、黒い土がのぞいた。そこに、ネルのにおいが落ちた。
主の鼻先が、ぴくりと動いた。
寝息が、止まった。
(……一)
小山みたいな背中が、ゆっくりと持ちあがった。
(……二)
太い前足が、地面を押す。黒い毛の下の肩が盛りあがって、巨体が起きあがった。
立ちあがると、窪地そのものが狭くなったように見えた。右に一本だけ残ったねじれた角が、白みはじめた空に突き刺さっていた。
赤黒い目が、俺たちを見た。
主が、吠えた。
口が大きく開いて、喉の奥が震えるのが見えた。でも、声はなかった。ただ、吐きだされた息の熱さと生臭さだけが、正面から叩きつけてきた。
次の瞬間、巨大な前足が横から薙いできた。
俺はネルの体を抱えて、前へ転がった。頭の上を、丸太みたいな腕が通りすぎていく。風が髪をむしるように引っぱった。三本の爪が、さっきまで俺たちが立っていた地面をえぐって、黒い土を噴きあげた。
立ちあがる。主が、こっちへ向き直ろうとする。
その動きが、一拍遅れた。
頭が、右へ流れる。片方だけの角の重さに引っぱられて、体が勝手に右へ回ろうとする。それを無理に左へ戻すぶん、ほんの少しだけ遅い。
シェイラの言ったとおりだった。
俺はネルの手を引いて、主の左へ、左へと回りこんだ。主が苛立ったように前足を振りまわす。そのたびに地面がえぐれて、星鉄の青白い光が土の中から飛び散った。
ネルが、目を細めていた。
主の体を、何度も見ている。肩、首、胸、また肩。目の奥が痛むのか、ときどきぎゅっとつぶって、それでもまた開く。
でも、ネルの紅糸は動かなかった。
動いている相手の線は、なかなか見えない。こんなに大きくて、こんなに強い相手なら、なおさらだ。湖の主のとき、ネルの線は髪の毛より細くて、一瞬で消えたと言っていた。
止めないと。
ほんの少しでいい。ネルが見るあいだだけ。
◇
主が、後ろ足で立ちあがった。
両方の前足を振りあげて、こっちへ倒れこんでくる。真上から、押しつぶすつもりだ。
俺は、手のひらの泡を放った。
狙ったのは主の体じゃない。主の前足が下りてくる、その真下の地面。霜に覆われた、黒い土。
泡が、霜の上に落ちた。
弾けた。
白い花が、咲いた。
音もなく、光もなく、熱もない。ただ、泡の弾けたところから、真っ白な氷がいっせいに地面を這って広がった。霜を呑みこみ、土を呑みこみ、そこへ下りてきた巨大な前足を、指の一本一本まで包みこんで。
主の前足が、地面ごと凍りついた。
主の体が、ぐらりと揺れた。前足を引き抜こうとして、凍った地面にびしりとひびが走る。長くはもたない。息をいくつかするあいだだけだ。
でも、それで十分だった。
ネルが、目を見開いていた。
琥珀色の瞳が、主の体の上を走る。胸から首へ、首から顔へ。目の縁に、涙がにじんでいた。それでもネルは、まばたき一つしなかった。
瞳が、一か所で止まった。
ネルの紅糸が、持ちあがった。
青白く光る切っ先が、まっすぐに指していた。
主の頭の左。根もとから折れた、角の跡。
まだ白っぽい、折れたばかりの断面。そのまわりの皮が、ふさがりきらずに、ひきつれたように盛りあがっていた。
父さんが、この冬につけた傷だった。
◇
角が、折れた。
その傷が、ふさがっていなかった。この巨体のすべての線が、あそこへ集まっている。
(……一)
俺は、両手のあいだに新しい泡をふくらませた。
指先ほどの泡じゃ、足りない。この巨体の芯まで届かせるには、もっと大きく。
両手を広げるぶんだけ、泡がふくらんでいく。頭がまるごと入るくらいの、大きな泡。膜は厚く、固く。内側から何が暴れても、弾ける瞬間までは決して破れないように。
その中へ、プチアクアを流しこんだ。
俺の水は少ない。普通の人のプチアクアなら桶の底を濡らすくらいは出るのに、俺のは指先を湿らせる程度にしかならない。そのかわり、その一滴に込めた魔力は、ぎゅっと詰まって重い。母さんが言っていた、俺の種火と同じだ。小さいのに、熱を凝縮したように熱い。
一滴、また一滴。重たい水の粒が、泡の底に溜まっていく。
(……二)
主の前足を包んだ氷に、ひびが広がっていく。
最後に、プチフレイムの種火を一つ。それを髪の毛ほどの薄い膜で包んで、さらにもう一枚。膜の厚みで、弾けるまでの間を決める。傷の奥へもぐりこんでから、弾けるように。
腕が、震えた。
こんな大きさのブラストバブルを作るのは、アラクネの女王のとき以来だった。膜の内側で、凝縮した水と火が今にも触れあおうとしている。泡全体が、じりじりと俺の手を押し返してくる。
(……三)
片方の前足が、地面から引き抜かれた。
泡を、放った。
大きな泡が、宙をまっすぐに進んでいく。主が、抜けた前足を振りあげる。その腕の下をくぐって、泡は折れた角の跡にぶつかった。ふさがりきっていない傷の中へ、ずぶりと沈みこんでいく。
一拍。
水蒸気爆発。
主の頭の左側が、内側から膨れあがった。
白い光が、窪地の底を真昼みたいに塗りつぶした。
足の下の地面が、どんと跳ねた。俺の体が浮いて、ネルと一緒に後ろへ吹き飛ばされる。熱い風が顔を殴りつけて、目を開けていられない。前足を縫いとめていた白い花が、一瞬で粉々に砕けて、きらきらと宙に舞いあがった。
窪地の斜面から、黒い土がざあっと崩れ落ちた。星鉄の石くれが、あちこちで跳ねあがった。
それなのに、音は一つもしなかった。
これだけの爆発が、夢の中みたいに何の音も立てずに窪地を揺らしていた。シェイラの【静寂】が、全部を呑みこんでいた。
転がった体を起こすと、主はまだ立っていた。
振りあげた前足が、宙で止まっていた。頭の左側から、白い湯気が噴きだしている。赤黒い目から、ゆっくりと光が抜けていった。
それから、巨体が横に倒れた。
地面が、もう一度揺れた。舞いあがっていた氷のかけらと星鉄の光が、雨みたいに降ってきた。
立ちあがろうとして、膝が笑った。魔力を、ごっそり持っていかれていた。
◇
ふっと、耳に音が戻ってきた。
最初に聞こえたのは、自分の荒い息だった。それから、ネルの息。それから、遠くの森で鳴きはじめた、朝の鳥の声。
窪地のふちに、シェイラが立っていた。
朝日が、ちょうど黒い森の向こうから顔を出したところだった。逆光で、表情は見えない。でも、銀の髪が風に揺れているのはわかった。
「……見た」
それだけ言って、シェイラは斜面を下りてきた。
俺は、ふらつく足で倒れた主の頭の横に立った。
折れた角の根もとが、黒く焼けていた。父さんの傷と、俺の泡のあとが、一つになっていた。
父さんが、この冬に一人で追い返した相手だ。殺しきれずに、角だけ折って。
(……閉じたよ、父さん)
声には、出さなかった。
ネルが、俺の横に来た。目が真っ赤だった。手の甲で、ごしごしとこすっている。
「目、平気か」
「平気じゃない。でも、平気」
ネルは鼻をすすって、それから俺の背中をばしんと叩いた。
「一回で当てたわね」
「ネルが、指してくれたから」
「当たり前でしょ」
ネルは、ぷいと顔をそむけた。尻尾が、ばさばさと大きく揺れていた。
◇
星鉄は、主が寝ていたところのすぐ下に、いくつも埋まっていた。
ネルが土を掘ると、拳くらいの黒い石くれが出てきた。手に取ると、朝日の中なのに、ひやりと冷たい。日にかざしても、握りしめても、冷たいままだった。
そして、影に入れると、縁が青白く光った。
「これね」
ネルは、石くれを両手で包むように持った。
ガンツさんが言っていた、掘ったままの星鉄。ただの黒い石くれで、でも暗いところで縁が光る。日に当てても、握っても、冷たいまま。
拳くらいの塊を一つと、小さなかけらをいくつか。ネルが布で一つずつ包んで、荷物の底にしまった。
「角は?」
ネルが、倒れた主のほうを見た。
右に一本残った、ねじれた太い角。あれだけでも、とんでもない値がつくはずだった。爪も、毛皮も。
「置いていく」
「……もったいない」
「持って帰ったら、どこで獲ったって聞かれる」
ネルは、主の角をじっと見ていた。耳が、名残惜しそうに垂れている。
それから、ふっと息を吐いた。
「まあ、いいわ。角はもう一本、あんたの父さんが売ってるしね」
俺は、思わず吹きだした。
シェイラは、少し離れたところで俺たちを見ていた。それから、窪地のふちの、あの二本線の木のほうを、一度だけ振り返った。
「帰る」
シェイラが言った。
「日が沈むまでに、村。でしょ」
◇
帰りも、俺たちはシェイラの後ろを歩いた。
来るときより、ずっと速かった。シェイラの【静寂】の中では、獣に気づかれない。ネルはもう爪の主の通り道をよける必要がなかった。森は、来たときと同じように黒くて暗い。でも、どこか張りつめていたものが、少しだけゆるんでいた。
休まずに歩いた。昼を過ぎて、印の木を越えた。父さんの三本の傷と、その上の、もう新しくはなくなった爪痕。
やがて、沢の音が聞こえてきた。
森が、少しずつ明るくなっていく。黒い幹のあいだに、当たり前の色をした木がまじりはじめた。頭の上で、鳥が鳴いていた。
シェイラが、足を止めた。
「ここまで」
振り返ったシェイラの顔に、木漏れ日が落ちていた。
「村まで、来ないんですか」
「行かない」
それだけだった。理由は言わなかった。
「これで、浅いところに獣が戻る」
シェイラは、俺たちが来た森の奥を見て、ぽつりと言った。
それが誰のための言葉なのか、俺にはわからなかった。でも、なんとなく、森の外の村のことを言っている気がした。
ネルが、荷物の口を開けた。
堅焼きのパンを一つ、取りだす。母さんが蜂蜜を塗っておいてくれた、二つのうちの残りの一つだった。
「……これ」
ネルは、それをシェイラに突きだした。顔は、そっぽを向いていた。
「助けてもらったから。二回目のぶん」
シェイラは、パンを受け取った。
紫の目が、ほんの少しだけ丸くなった。それから、やわらかくなった。
「ありがと」
シェイラは、パンを大事そうに懐へしまった。食べなかった。
「王都で、また」
そう言って、シェイラは背を向けた。
銀の髪が、木々のあいだに溶けていく。一歩、二歩。足音は、最後まで聞こえなかった。
気がつくと、もうどこにもいなかった。
森の中に、俺とネルだけが残った。苔を踏む音がした。枝をよける衣ずれの音がした。
足音が、二つに戻っていた。
「……行くか」
「うん」
木々の向こうの空が、うっすらと赤く染まりはじめていた。
俺たちは、走りだした。




