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星の落ちた窪地


ネルが、ふちから一歩踏みだそうとした。


その腕を、シェイラが軽くつかんだ。【静寂】の中だから声はない。シェイラは首を一度だけ横に振って、来た道のほうを指さした。


戻れ、ということらしい。


ふちから木々の中へ、しばらく下がった。シェイラが小さく息を吐くと、耳に音が戻ってきた。葉を揺らす風の音と、遠くで鳴く知らない鳥の声。


「降りない」


シェイラが言った。


「夜は、あれの時間」


俺は、思わずシェイラの顔を見た。


日のあるうちしか歩くな。暗くなったら火を焚いて、動くな。森の入口で聞いた父さんの声が、そのまま重なった。


「……なに」


「いえ。同じことを言われたので」


「誰に」


「父さんに」


シェイラは少しだけ黙って、それから「そう」とだけ言った。



◇


野営の場所は、シェイラが選んだ。


窪地から吹きあがってくる風を、正面から受ける斜面の陰だった。こっちが風下にいれば、においで気づかれることはない。シェイラはそれだけ言うと、太い根の上に腰を下ろした。


ネルが苔を払って座る場所を作っていると、指先に硬いものが当たった。


「石?」


苔をめくると、拳くらいの石がいくつも輪になって並んでいた。真ん中の土は黒くて、炭のかけらがまじっている。


炉の跡だった。


「誰か、ここで野営したんだ」


「ずっと前ね。苔の厚さ、印の木の傷のまわりと同じくらいだもの」


ネルは石を一つ持ち上げて、裏の苔を指でなぞった。それから、ふと顔を上げて、炉のすぐそばの木を見た。


ネルの手が止まった。


黒い木の幹の、ちょうど俺の目の高さに、何かが刻まれていた。樹皮が盛りあがって、半分ふさがりかけた古い傷。それでも、形はわかった。


まっすぐな線が、二本。


俺の手が、勝手に上着の内側へ動いた。父さんのナイフ。柄に巻いた布の下にある、同じ紋。ベルンさんが二十年前に見たという、木の幹の刻印。


ネルが、俺の袖をつかんだ。


「……印の木と、同じくらい古い」


小声だった。ネルの目は紋ではなく、俺の顔を見ていた。


シェイラが立ちあがって、木の前に立った。指先で、二本の線をなぞる。上から下へ、一本ずつ。


何も言わなかった。


紫の目が何を見ているのか、俺にはわからなかった。ただ、その指はほんの少しのあいだ、二本目の線の終わりで止まっていた。


それから、シェイラは何もなかったように振り返った。


「火。小さく」


俺は黙ってうなずいて、古い炉の真ん中にプチフレイムの種火を落とした。誰かが昔、ここで火を焚いた。その同じ場所で、俺の小さな火がゆらゆらと揺れた。



◇


日が沈みきる前に、三人でもう一度ふちまで這っていった。


【静寂】の中で、窪地を見下ろす。


思っていたより、ずっと深かった。斜面は黒い土がむきだしで、ところどころ焼けた陶器みたいにつやつやと光っている。木は一本も生えていない。そのかわり、底のあちこちに転がる黒い石くれの隙間から、青白い光がぽつぽつと漏れていた。


紅糸と同じ光。星鉄だった。


そして、その光の真ん中に、それが寝ていた。


熊、だと思った。でも、俺の知っている熊ではなかった。


丸めた背中だけで、村の家の屋根くらいあった。黒い毛はところどころ岩のように固まっていて、寝息に合わせてゆっくりと上下している。投げだした前足は丸太みたいに太くて、その先に鈍く光る爪が三本。指を広げたより、ずっと幅が広い。


頭には、角があった。


ねじれた太い角が、右に一本。左は、根もとから折れていた。折れた跡はまだ白っぽくて、古い傷には見えなかった。


ネルが、俺の腕をぎゅっとつかんだ。顔を見ると、口が動いた。声は出ないけれど、何を言ったのかはわかった。


おちてた。


俺も、同じことを考えていた。


ルクスの串焼き屋のおっちゃんが、両腕いっぱいに広げてみせた馬鹿でかい角。この冬、村の近くまで出てきた奥の魔物を、父さんが一人で追い返した。


追い返されたそいつは、死ななかったのだ。片方の角をなくして森の奥へ戻り、ここに棲みついた。


印の木の、父さんの手も届かない高さの爪痕を思いだした。あれは、自分の角を折った男のにおいが残る木につけていった傷なのかもしれない。


背中に、冷たい汗が流れた。



◇


炉のそばに戻ると、ネルは膝を抱えて座りこんだ。


「あんたの父さん、あれと一人でやりあったの?」


「追い返しただけって、おっちゃんは言ってた」


「だけ、ね」


ネルは、膝に顎をのせた。尻尾が、足にぴったりと巻きついていた。


「それで、笑って『落ちてた』って言って、お酒買って帰ったんでしょ」


「……うん」


「あんたの父さんの『落ちてた』、もう二度と信じない」


俺は、笑えなかった。ネルも、たぶん笑わせるつもりで言ったわけじゃなかった。


根の上で、シェイラが口を開いた。


「片っぽの角がないから、頭が重いほうに寄る。歩くと、少しずつ右に曲がる」


「見てたんですか」


「この冬、何回か」


それだけ言って、シェイラはまた黙った。



◇


日が沈むと、窪地の底で何かが動いた。


音は聞こえなかった。シェイラが、もう【静寂】を広げていたからだ。でも、尻の下の地面が、ずしんと一度沈んだのがわかった。


俺は、種火の上に平たい石をそっとかぶせた。火は消さない。光だけを隠す。


ずしん。ずしん。


窪地のふちを、黒い影が登ってきた。


近い。俺たちのいる斜面の、すぐ上を通っていく。星明かりに、ねじれた角が一本だけ浮かんだ。生臭い息のにおいが、風に乗って流れてきた。


影が、足を止めた。


大きな頭が、ゆっくりとこっちを向いた。鼻先が、何かを探すように持ちあがる。


(……一)


ネルの指が、俺の手首に食いこんだ。


(……二)


俺は、腰の剣に指をかけたまま、息をするのも忘れていた。


(……三)


鼻先が、下りた。


影は、また歩きだした。少しずつ右へ曲がりながら、黒い森の奥へ消えていった。


しばらくして、シェイラが【静寂】をゆるめた。最初に聞こえたのは、ネルの長い長い息だった。


「夜は、狩り」


シェイラが言った。


「夜明け前に戻ってきて、また寝る」


戻ってきて、横になった直後。腹が満ちて、いちばん重くなっているとき。俺の頭の中で、それだけがはっきりと形になった。


「シェイラさん。さっきの【静寂】の中なら、音は外に出ないんですよね」


「出ない。私の届くところなら、どんなに大きくても」


それなら、撃てる。


狼を呼ぶのが怖くて撃てなかった。爪の主を起こすのが怖くて撃てなかった。この二日、ずっと喉に引っかかっていたものが、すっと外れた気がした。


「手伝ってもらえますか」


シェイラは、首をかしげた。


「静かにするだけ。倒すのは、君」


少し間があった。


「決めるのは、君」


俺は、うなずいた。


ネルが、俺の脇腹を肘でつついた。耳もとに顔を寄せて、ほとんど息だけの声で言った。


「あたしの目も、ちゃんと勘定に入れなさいよ」



◇


夜の半ば、ネルは俺の外套にくるまって眠っていた。


見張りは俺の番だった。石の下の種火が、わずかに赤い。シェイラは根の上に座ったまま、目を開けていた。


「眠らないんですか」


「少しは、寝た」


それきり、しばらく何も言わなかった。森の奥から、ときどき何かの鳴き声が聞こえる。けれど、昨日の夜よりずっと遠かった。


「泡」


ふいに、シェイラが言った。


「え」


「前に言った。晴れた日に、見せてって」


王都の、まだ寒かったころの話だ。覚えていたのか、と思った。


「晴れてないけど。明日、見せて」


「……見せるつもりは、なかったんですけど」


「うん」


「でも、たぶん、見せることになります」


シェイラは、口のはしを少しだけ上げた。


俺は、焚き火の跡の向こうの黒い幹を見た。暗くて、もう二本線は見えない。


「あの紋のこと、知ってるんですか」


シェイラは、俺と同じほうを見た。


「君の父さんに、聞いて」


「父さんは、まだだって」


「じゃあ、まだ」


それで、終わりだった。ずるい、と思った。でも、父さんと同じ答え方をされると、なぜかそれ以上は押せなかった。


シェイラの目が、俺の横で丸くなっているネルに移った。


「あの子、ずっと君の前を見てる」


「前?」


「足もと。君が次に踏むところ。今日、ずっと」


印の木の先で、何度も目を細めては立ち止まっていたネル。目をぎゅっとつぶって、指で押さえていたネル。


俺は、ネルにかかった外套の端を、そっと引きあげた。


「……はい」


シェイラは、もう何も言わなかった。



◇


夜明け前、地面がまた沈んだ。


目を開けると、空の端がわずかに白んでいた。斜面の上を、黒い影がゆっくりと下りていく。片方だけの角。右に寄る足どり。重たい腹。


影は窪地の底へ戻り、星鉄の光の真ん中に、どさりと横になった。


しばらくして、寝息がはじまった。


ネルの肩をゆすると、ネルはすぐに目を開けた。眠っていなかったのかもしれない。ネルの手は、氷みたいに冷たかった。


息が白い。


足もとの苔の先が、うっすらと白く凍っていた。夜のあいだに、ひどく冷えこんだのだ。


俺は、手のひらの上に小さな泡を一つ浮かべた。


冷えきった空気の中で、薄い膜がいつもより張りつめて見えた。指でつつけば、そのまま割れずに凍りついてしまいそうだった。


泡がいちばんよく凍る朝だった。


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