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足音のない人


印の木の先は、同じ森とは思えなかった。


黒い幹がさっきよりずっと密に並んで、枝と枝が頭の上で重なりあっている。朝のはずなのに、夕暮れみたいに薄暗かった。足もとの苔は靴が半分沈むほど深くて、踏むたびにじわりと湿った音がした。


沢の音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。


「こっち」


ネルが小声で言って、俺の袖を引いた。


さっきから、ネルは何度も目を細めては立ち止まっていた。下草の切れ方、枝の折れ方、苔のへこみ。あの大きな爪の主が通った跡を読んで、それをよけるように道を選んでいる。


「目、平気か」


「平気。草と苔しか見てないから」


ネルはそう言ったけれど、ときどき目をぎゅっとつぶって、指の腹で押さえていた。俺は何も言わずに、水筒をネルの手に押しつけた。


ネルは黙って一口飲んで、それから俺の顔を見ずに返してきた。



◇


最初に気づいたのは、ネルだった。


「……リト」


ネルが足を止めて、自分の腰を見下ろしていた。


紅糸の刃の縁が、うっすらと青白く光っていた。


いつも宿っている光だ。でも、この薄暗い森の中だと、王都で見るよりずっとはっきりしていた。暗いところで見ろ。縁が、青白く光る。ガンツさんの言葉を思いだした。


「見て。こっち向くと」


ネルは紅糸を鞘ごと少し持ち上げて、ゆっくりと体の向きを変えた。


東を向くと、光が弱くなった。西を向いても、弱い。南を向いたとき、光がほんの少しだけ強くなった。


「……南のほうが、明るい」


「気のせいじゃないか」


「気のせいなら、何回やっても同じにならないでしょ」


ネルは、もう一度ゆっくりと回ってみせた。何度やっても、南を向いたときだけ光が強くなった。


紅糸の刃は、星鉄だ。ばあちゃんの裁ち鋏とナイフを打ち直した、空から落ちてきた鉄。


「仲間を、見つけたのかもね」


ネルは紅糸の柄をそっとなでた。冗談のつもりだったのか、本気だったのか、わからない言い方だった。


南。爪の主の通り道をよけながら、紅糸の光が強くなるほうへ。俺たちは、また歩きはじめた。



◇


昼が近くなったころ、ネルの耳がぴんと立った。


「止まって」


俺も止まった。


何も聞こえなかった。でも、何かがおかしかった。さっきまで頭の上でかすかに鳴いていた虫の声が、いつの間にか消えている。


ネルが、ゆっくりと首を回した。耳が前と横と後ろを、順番に向いた。


「……囲まれてる」


黒い幹のあいだで、何かが動いた。


最初は、木の影が揺れたのかと思った。でも、影には目がない。


狼だった。


毛並みが黒い幹と同じ色をしていて、動かずにいると木の根もとに溶けこんでしまう。大きさは、俺の知っている森の狼のひとまわり上。それが、右にも、左にも、後ろにもいた。


数えようとして、やめた。数えきれる数ではなかった。


浅いところの魔物とは、違った。うなり声を上げない。吠えもしない。ただ、低い姿勢のまま、少しずつ輪を縮めてくる。


俺はネルと背中を合わせた。ネルの背中が、こわばっているのがわかった。


「リト」


「わかってる」


剣を抜いた。


ブラストバブルを使えば、勝てるかもしれない。輪のいちばん厚いところへ撃てば、一度に何頭かは吹き飛ばせる。


でも、その音は森じゅうに響く。


印の木の、ずっと上の爪痕。バイソンボアの脇腹の、新しい三本の傷。あれの主が、この近くのどこかにいる。


(……一)


一頭が、前足を踏みだした。


(……二)


ネルの手の中で、紅糸が青白く光った。


(……三)


撃つか。撃たないか。


決めきれないまま、狼たちが、いっせいに身を沈めた。



そのとき、音が消えた。



狼の爪が苔を掻く音も、ネルの息づかいも、俺自身の心臓の音さえも。何もかもが、ふっと遠くなった。耳をふさがれたのとは違う。世界から、音というものだけが抜き取られたみたいだった。


狼たちの動きが止まった。


いちばん前にいた一頭が、ゆっくりと横に倒れた。


その後ろの一頭も。左の一頭も。何が起きたのか、見えなかった。倒れる音すらしなかった。


黒い幹のあいだを、銀色のものが一筋、流れた。


残った狼たちが、いっせいに身をひるがえした。尻尾を巻いて、来たときと同じように音もなく、森の奥へ散っていった。


それから、音が戻ってきた。


自分の荒い息が、急にうるさく聞こえた。ネルの喉が、ひゅっと鳴った。


頭の上で、枝がほんの少しだけ揺れた。


見上げると、太い枝の上に、誰かが腰かけていた。


褐色の肌。腰まで届く銀の髪。黒い軽装に、細身の曲刀が一本。切れ長の紫の目が、俺たちを見下ろしていた。


シェイラは、枝の上で足をぶらぶらさせながら言った。


「甘いもの、持ってる?」



◇


「なんで、ここにいるんですか」


俺が聞くと、シェイラは枝からすとんと降りてきた。足が苔に着いたはずなのに、やっぱり音はしなかった。


「先に、甘いもの」


「……持ってないです」


「嘘。顔に書いてある」


俺は口を閉じた。


ネルが、ものすごく嫌そうな顔で荷物の口を開けた。母さんが持たせてくれた堅焼きのパンが、まだいくつか残っている。そのうちの二つにだけ、母さんがこっそり蜂蜜を塗っておいてくれた。ネルが王都の南の養蜂場を三軒まわって選んだ、あの蜂蜜だ。


ネルは、二つのうち一つを、しぶしぶシェイラに差しだした。


「……助けてもらったから。一個だけよ」


シェイラはパンを受け取って、ひとくちかじった。


それから、しばらく黙っていた。


「……うん。美味しい」


紫の目が、ほんの少しだけやわらかくなった。


「この蜂蜜、いい蜂蜜ね」


ネルの耳が、ぴくりと動いた。


「あたしが、選んだの」


「そう」


シェイラはもうひとくちかじって、ネルを見た。


「いい目、してるね」


ネルの尻尾が一度だけ大きく揺れて、それから本人の手でぎゅっと押さえこまれた。


「べ、別に。蜂蜜くらい、誰だって選べるわよ」


シェイラは何も言わずに、最後のひとかけまで大事そうに食べた。



◇


「それで、なんでここにいるんですか」


もう一度聞くと、シェイラは指についた蜂蜜をなめながら答えた。


「自分の用」


それだけだった。


北へ向かったはずの人が、どうして南の果ての森の奥にいるのか。聞きたいことはいくらでもあった。でも、この人が「自分の用」と言ったら、それ以上は出てこない。それは、もう知っていた。


「昨日の夜、焚き火のまわりの足跡」


ネルが、腕を組んで言った。


「あれ、あんたでしょ」


「うるさかったから」


シェイラは、あっさりうなずいた。


「寝てる子のまわりで、ずっとうろうろしてた。だから、静かにしてもらった」


夜の半ば、森じゅうの音がいっせいに止んだときのことを思いだした。あれは、この人だったのだ。


「……ありがとうございます」


「別に。私も、静かなほうが好き」


シェイラはそう言って、ふと、俺たちが来たほうを振り返った。


黒い木々の向こう、もう見えないはずの方角を、紫の目がじっと見ていた。


「印の木から、来た?」


俺は、息を止めた。


印の木。父さんがそう呼んでいただけの、ただの樫の木だ。村の誰も、その名前を知らないはずだった。


「……知ってるんですか」


シェイラは、すぐには答えなかった。


少しだけ間があって、それから、短く言った。


「……昔、見た」


それ以上は、何も言わなかった。


俺も、それ以上は聞けなかった。上着の内側で、父さんのナイフの鞘が、少しだけ重く感じた。


ネルが、俺の袖をそっと引いた。何か言いたそうな顔だった。でも、ネルも結局、何も言わなかった。


シェイラの目が、ネルの腰の紅糸に止まった。


「それ、光ってる」


「……南を向くと、ちょっと強くなるの」


ネルが言うと、シェイラは小さくうなずいた。


「知ってる。星鉄は、星鉄を呼ぶから」


「知ってるって、何を」


「行き先」


シェイラは、南を指さした。紅糸の光が強くなる方角と、同じだった。


「君たちが探してるもの、この先にある。でも、もう一つ、いる」


「もう一つ?」


「印の木の傷。見たでしょ」


あの、父さんの手の届かない高さの爪痕。


「あれの持ち主。この冬から、森の奥に棲みついた。浅いところの獣が、みんな押しだされてる」


弱い魔物が棲み処を捨てるのは、もっと強い何かが近くに棲みついた兆し。いつかシェイラが言っていたことだった。


「帰れ、とは言わないんですか」


俺が聞くと、シェイラは首をかしげた。


「言ったら、帰る?」


「……」


「顔に書いてある」


シェイラは、くるりと背を向けた。


「ついてくるなら、私の後ろ」



◇


それから、俺たちはシェイラの後ろを歩いた。


不思議な歩き方だった。


シェイラのすぐ後ろにいると、自分の足音が聞こえない。苔を踏む音も、枝をよける衣ずれも、背負い袋の金具が鳴る音も。すべてが、シェイラのまわりで吸いこまれるように消えていく。


【静寂】の中を、歩いているのだ。


これなら、あの爪の主がどこにいても気づかれない。父さんが「日のあるうちしか歩くな」と言った森を、俺たちは音もなく進んでいた。


ネルが、俺の横で口をぱくぱくさせていた。


何か文句を言っているらしい。顔が真っ赤で、眉がつり上がっている。たぶん「なんであんたが仕切ってんのよ」とか、そういうことだと思う。でも、声は一つも出てこなかった。


シェイラが、ちらりと振り返った。


ネルの口の動きを見て、ほんの少しだけ、口のはしを上げた。


ネルは、ますます真っ赤になって、シェイラの背中に向かって拳を振りあげた。それも、もちろん音はしなかった。


俺は、笑いをこらえるのに苦労した。こらえなくても、どうせ聞こえないのに。


日が傾きはじめたころ、シェイラが足を止めた。


前を見て、俺も足を止めた。


黒い木々が、そこで途切れていた。


地面が、大きく落ちくぼんでいた。森のまんなかに、巨人が拳を叩きつけたような、すり鉢の形の窪地。ふちから見下ろすと、底は夕暮れの影に沈んで、よく見えない。


ネルの腰で、紅糸が強く光った。今までで、いちばん強い光だった。


窪地の底のほうでも、何かが光っていた。


紅糸と、同じ色。青白い、小さな光が、いくつも。


そして、その光のそばで、何か大きなものがゆっくりと上下していた。


寝息のようだった。


シェイラの【静寂】の中にいるのに、俺には、それが聞こえた気がした。


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