黒い森
森の浅いところは、昔とあまり変わっていなかった。
黒い幹の木々のあいだを細い沢が流れている。苔むした岩、根元の腐った倒木、春になると白い花をつける低い茂み。十歳から五年間、父さんと母さんの目を盗んで泡の練習をしていた森だ。
「ここ、昔よく来た」
沢の脇の平たい岩を指さすと、ネルが首をかしげた。
「一人で?」
「一人で入るなって言われてた。三日で破ったけど」
「あんた、昔からそうなのね」
ネルはあきれたように言って、でも少しだけ笑った。尻尾がゆっくりと左右に揺れていた。
沢の水は冷たくて、雪解けの匂いがした。俺たちは父さんの描いた線を思いだしながら、水の流れに沿って南へ歩いた。
歩きながら、何かが足りない気がしていた。しばらくして、それが何かわかった。音だ。
春の森は、もっとにぎやかなはずだった。藪の中で何かががさがさ動いて、頭の上で小鳥が鳴きかわして、ときどき兎が足もとから跳びだす。子どものころは、それがうるさいくらいだった。
今は、沢の音しか聞こえなかった。
「……静かね」
ネルも同じことを思っていたらしい。耳がせわしなく前と横を行き来していた。
「獣の通り道が変わったって、父さんが言ってた」
「浅いところの獣が、いなくなったってこと?」
「いなくなったのか、どこかに隠れてるのか」
どちらにしても、いい話ではなかった。
◇
昼前、沢が大きく曲がるところでネルが足を止めた。
「リト、ちょっと」
ネルは道の脇の茂みを見下ろしていた。膝の高さまである下草が、ところどころ倒れている。でも、ただ踏まれたのとは少し違った。
ネルは目を細めた。三つ数えて、二つ数える。それだけの間、じっと動かなかった。
「……線が、切れてる」
小さな声だった。
「草の茎も、枝も、ぜんぶ同じ向きにぶつっと切れてる。踏まれたんじゃなくて、何か大きいのが無理やり押し通ったみたい」
ネルは指で奥のほうを示して、それから手前に引いた。
「奥から、こっちに来てる。一回じゃない。何回も」
俺は茂みの奥を見た。言われてみれば、木々のあいだに獣道とも呼べない細い隙間が続いていた。低い枝が、俺の頭より高いところで折れている。
「目、痛くないか」
「草くらいなら平気。木はちょっと、じんとするけど」
ネルは目をこすった。それから、近くの黒い幹にちらりと目をやった。
「ねえ。この森の木、変よ」
「変?」
「線が、ぎゅっと詰まってるの。王都の木なら割れやすい筋がちゃんと見えるのに、ここの木は糸を何重にも巻いた玉みたい。どこから見ればいいのか、わからない」
俺は黒い幹に手を当てた。ひんやりとして、硬かった。子どものころから知っている木なのに、そんなふうに思ったことは一度もなかった。
南の果ての空に、星が一つ落ちた。落ちた場所は森になって、森の木は燃えたように黒くなった。王都で聞いた、黒樹の森の言い伝えを思いだした。
「父さんの薪割りの話、覚えてるか。どの薪にも割れたがってる筋があるって」
「ここの木は、割れたがってないってこと?」
「かもな」
ネルはもう一度だけ黒い幹を見上げて、肩をすくめた。
「どっちにしても、あんたの父さんの薪にはしないほうがいいわね」
◇
それが出てきたのは、昼をだいぶ過ぎたころだった。
沢の向こうの茂みが大きく揺れた。枝の折れる音がして、黒い塊が水しぶきを上げて飛びだしてきた。
太い首に短い脚、鼻先から突きだした二本の牙。背中の毛が針みたいに逆立っている。
バイソンボアだった。
十歳のころ、この森の浅いところで、俺はこいつに殺されかけた。あのときは生まれて初めて泡を武器にして、どうにか生き残っただけだった。
「リト!」
「大丈夫。下がってて」
ネルがすっと後ろの岩陰へ下がった。動きに迷いがなかった。
バイソンボアは、こちらを見ていなかった。目が血走って、口の端から泡を吹いている。それでも進む先に俺たちがいると気づくと、頭を低くして突っこんできた。
水蒸気爆発を使えば一瞬で終わる。でも、ここはもう奥に近い。大きな音を立てれば、森じゅうに「ここにいる」と知らせるのと同じだった。
俺は剣を抜いた。
(……一)
バイソンボアの右の前脚が、沢の石を踏む。その石の上に、小さな泡を一つだけ敷いた。
滑り泡。
前脚が、ずるりと流れた。
巨体が横に傾いて、肩から沢の中へ倒れこむ。水しぶきが上がった。
起き上がろうとして、首がこちらを向いた。
その首の付け根へ、剣を突き入れた。
手応えがあった。バイソンボアは一度だけ大きく暴れて、それから動かなくなった。沢の水が赤く濁って流れていった。
俺は剣を引き抜いて、息を吐いた。心臓は速かったけれど、手は震えていなかった。
「……昔は、これ一頭で死にかけたのに」
「今は?」
岩陰から出てきたネルが、俺の顔をのぞきこんだ。
「今は、剣一本だった」
「そ。よかったじゃない」
ネルはそっけなく言った。でも、尻尾の先がほんの少しだけ跳ねていた。
それからネルは、倒れたバイソンボアの脇腹に目をやって眉をひそめた。
「リト。これ」
脇腹に、深い傷が三本走っていた。爪の跡だった。それも、俺が指を広げたよりずっと幅の広い爪だ。傷は新しくて、まだ血がにじんでいた。
俺は、バイソンボアが飛びだしてきた茂みの奥を見た。
こいつは、俺たちを襲いに来たんじゃない。何かから逃げてきたのだ。
「剥ぎ取る?」
ネルが小声で聞いた。いつもなら、真っ先に言いだすのはネルのほうだった。
「いや。今は荷物を増やしたくない」
「……そうね。帰りに、まだ残ってたら」
ネルは少し名残惜しそうに牙を見て、それから首を振った。
◇
日が傾きはじめたころ、木々のあいだが急に開けた。
大きな樫の木が、一本だけ立っていた。黒い木ばかりの森の中で、その木だけが当たり前の色をしていた。幹は大人が三人で手をつないでも届かないくらい太くて、枝が空を覆うように広がっている。
幹の、ちょうど俺の目の高さに、横に三本の傷があった。
刃物でつけた、まっすぐな傷だった。ずいぶん古くて、まわりの樹皮が盛りあがって傷の縁を半分ふさいでいた。
「印の木……」
ネルがつぶやいた。
俺は、その傷に指を当てた。何年前のものなのかはわからない。でも、父さんがここに立ってナイフを振るったことだけはわかった。
「リト」
ネルの声が、少しかたかった。
ネルは上を見ていた。俺も顔を上げた。
三本の傷の、ずっと上。父さんが腕を伸ばしても、とても届かない高さに、別の傷があった。
刃物ではなかった。幹をえぐり取るような、太くて深い爪の跡だった。樹皮がささくれて、白い木肌がむきだしになっている。
まだ、新しかった。
「さっきのバイソンボアの傷と、同じくらいの幅」
ネルが言った。
「でも、高さが全然違う」
俺は何も言えなかった。あの爪の持ち主が後ろ脚で立ったら、どのくらいの大きさになるのか。考えようとして、やめた。
西の空が赤くなりはじめていた。
「ここで、火を焚こう」
「先に進まないの?」
「父さんの条件だ。暗くなったら、火を焚いて動かない」
ネルはもう一度だけ爪痕を見上げて、それからうなずいた。
◇
樫の根元の、少しくぼんだところに火を起こした。
【プチフレイム】の種火を枯れ枝に移すと、小さな炎がぱちぱちと音を立てた。火は大きくしすぎない。暗い森の中で、見えすぎない程度に。
夕飯は、母さんが持たせてくれた堅焼きのパンと干し肉だった。干し肉は、ネルが一枚多く俺の手に押しつけてきた。
「なんで」
「バイソンボアの分」
「それ、俺が倒したやつだろ」
「だから、あんたの分」
よくわからない理屈だったけど、ありがたくもらった。
食べ終わると、ネルは荷物の中から母さんの包みを取りだした。白い手ぬぐいの隅で、緑の葉の刺繍が火に照らされていた。ネルは包みをほどかずに、膝の上でそっとなでた。
「使わずに、返しに来て、って」
「うん」
「返すわよ。ぜったい。一枚も使わないで」
ネルの声は小さいけれど、はっきりしていた。俺は自分の腰の包みに手をやった。母さんの古い手ぬぐいの、少しざらついた手ざわりがした。
しばらく、火の音だけが続いた。
「ねえ、リト」
「ん」
「あんたの父さん、なんでここから先に行けないと思う?」
俺は印の木の幹を見上げた。三本の傷は、火の明かりの外で、もう暗がりに沈んでいた。
「わからない。怖いから、って感じじゃなかった」
「そうね。あの人、怖いものなんかなさそうだもの」
ネルは薪を一本、火にくべた。
「怖いんじゃなくて……約束、とか?」
「約束?」
「誰かと。ここから先には行かないって」
俺は答えられなかった。父さんの枝が、印の木の先へ進みかけて戻った跡を思いだしていた。
「考えても、わからないな」
「そうね。わからないことばっかり」
ネルはふっと息を吐いて、膝を抱えた。
「あんたの家に来てから、わからないことが増えるばっかりよ」
「ごめん」
「謝らないでよ。……嫌じゃないんだから」
最後のほうは、ほとんど聞こえないくらいの声だった。
◇
ネルが眠ったあと、俺は火の番をした。
森の夜は、昼とはまるで別のものだった。
昼間あれほど静かだった森が、暗くなると音を立てはじめた。遠くで枝の折れる音。低いうなり声のようなもの。ときどき、何かが地面をこするような音。どれも、火の明かりの届かない暗がりの向こうから聞こえてきた。
奥の森の夜は、浅いとことはまるで別もんだ。父さんの言ったとおりだった。
俺は剣を膝の上に置いたまま、暗がりを見ていた。
頭の中で、自分の間合いを確かめた。剣が届くのは、ここまで。スリップバブルを確実に置けるのは、あの根っこのあたりまで。ブラストバブルなら、もう少し遠くまで届く。でも、暗闇の中で相手の形も見えないまま撃てば、外すかもしれない。外したら、その音で何が寄ってくるかわからない。
今夜は動かない。それが、父さんの条件だ。
夜の半ばごろ、ふいに、森じゅうの音が止んだ。
うなり声も、枝の音も、虫の声さえも。何もかもが、いっせいに息をひそめたみたいだった。
俺は剣の柄を握りしめた。
何も見えなかった。何も聞こえなかった。
ただ、火の明かりの外の暗がりが、さっきより少しだけ濃くなった気がした。
どのくらいそうしていたのか、わからない。
やがて、遠くで小さな虫が一匹鳴いた。それにつられるように、少しずつ森の音が戻ってきた。
俺は、詰めていた息をそっと吐いた。
隣でネルが寝返りを打った。尻尾が、俺の足の上にぱたりと乗った。
◇◆◇
夜が明けるころ、ネルに揺り起こされた。
いつの間にか、座ったままうとうとしていたらしい。火は白い灰の中で小さくくすぶっていた。
「リト。見て」
ネルの声が低かった。
俺は立ち上がって、ネルの指さすほうを見た。
焚き火のまわりの、湿った土の上。そこに、足跡があった。
一つや二つではなかった。大きいもの、小さいもの、爪のあるもの、蹄のあるもの。いろんな獣の足跡が、焚き火をぐるりと囲むように、地面いっぱいに残っていた。
夜のあいだに、これだけのものが俺たちのまわりを歩いていたのだ。背中に、冷たいものが走った。
「でも、変なのよ」
ネルがしゃがみこんで、地面を指でなぞった。
「どれも、ここで止まってる」
言われて、よく見た。
足跡はどれも、焚き火から同じくらい離れたところでぴたりと止まっていた。そこから内側へは、一つも入ってきていない。そして、どれも同じ向きに引き返していた。
まるで、見えない線が引いてあったみたいに。
「火が怖かったんじゃないのか」
「火だけなら、こんなにきれいに揃わない」
ネルは首を振った。
「何かが、追い払ったのよ。夜中に、あたしたちのまわりで」
俺はあたりを見回した。足跡の外側を、ぐるりと一周して歩いてみた。
獣の足跡は、いくらでもあった。でも、それを追い払ったはずの何かの跡は、どこにもなかった。人の足跡も、獣の足跡も、一つも。
夜の半ば、森じゅうの音が止んだときのことを思いだした。
「……誰か、いるのか」
暗がりの残る木々のあいだに向かって、小さく言ってみた。
返事はなかった。朝の森に、鳥の声が一つ、遠く響いただけだった。
ネルが、俺の袖を引いた。
「行く? それとも、帰る?」
俺は印の木を見上げた。父さんの三本の傷と、そのずっと上の、新しい爪痕。
何かおかしいと思ったら、星鉄なんか放って帰ってこい。父さんは、そう言っていた。
おかしいことは、もういくつもあった。
でも、まだ引き返せる。自分の間合いは、まだ見えている。
「行く。昼になっても何も見つからなかったら、引き返す」
「……わかった」
ネルは紅糸の柄に手を置いて、うなずいた。
俺たちは焚き火の跡を土で消した。それから、印の木の横を通りすぎた。
父さんが行かないと言った、その先へ。
一歩踏みだすと、足もとの苔が、少しだけ深くなった気がした。




