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森の奥へ行く条件


朝の庭に、木剣が二本、薪割り台に立てかけてあった。


どちらも、俺が子どものころに稽古で使っていたものだった。握りのところが黒ずんで、手の形にすり減っている。十歳の冬から五年間、毎朝これを振っていた。


「懐かしいだろ」


父さんは、一本を俺に放ってよこした。


受け取ると、思っていたより軽かった。王都で毎日振っている剣にくらべれば、おもちゃみたいなものだ。それなのに、握った瞬間に手のひらが昔の形を思いだした。


軒先の長椅子には、ネルが座っていた。膝の上で両手を握りしめて、耳をぴんと立てている。戸口には、母さんが立っていた。昨日の夜から、母さんはほとんど何もしゃべっていなかった。


「もう一度言っとくぞ」


父さんが、木剣を肩に担いだ。


「泡も、小細工もなしだ。剣だけで来い」


「わかってる」


「なら、いい」


父さんは、庭の真ん中まで歩いていって、こちらを向いた。木剣は、肩に担いだままだった。構えもしなかった。


「来い」



◇


俺は、地面を蹴った。


まっすぐ踏みこんで、胴を狙う。王都で何百回と振ってきた、いちばん速い一撃だった。


父さんの木剣が、肩からふっと下りてきた。


かん、と軽い音がした。俺の木剣は、父さんの木剣の腹に流されて、何もない空を切っていた。父さんは、一歩も動いていなかった。


「次」


俺は、すぐに切り返した。下から、肩へ。父さんは半歩だけ下がって、それをかわした。もう一度、踏みこむ。今度は突きだ。


父さんの木剣が、俺の木剣を上から押さえた。そのまま、すっと滑ってくる。気づいたときには、父さんの木剣の先が、俺の喉の前で止まっていた。


「一つ」


父さんは、それだけ言って木剣を引いた。


俺は、息を吐いた。背中に、冷たい汗が浮いていた。


王都で、俺の剣はそこそこ通用していた。ゴブリンも狼も、剣だけで倒してきた。Dランクの試験でも、ヴァルトさんの前で剣を振った。でも今は、まるで届かなかった。父さんは片手しか使っていなかった。


「もう一回」


「おう」


それから、何度も打ちこんだ。


右から、左から。フェイントを入れて、足を払って。父さんは、そのたびにかわして、流して、ときどき俺を地面に転がした。土の匂いが、口の中に入った。


ネルの尻尾が、長椅子の上でぎゅっと縮こまっているのが、目の端に見えた。


最後の一撃は、自分でもよく振れたと思った。父さんの左の脇腹へ、まっすぐ。


父さんは、初めて両手で木剣を握った。


がつん、と重い音がした。腕がしびれて、木剣が俺の手から跳ね飛んだ。くるくると回って、薪の山の上に落ちた。


父さんの木剣は、俺の左の肩口で止まっていた。


庭が、しんと静かになった。


母さんの前掛けの裾が、風に揺れていた。



◇


父さんは、木剣を下ろした。


「リト」


「……うん」


「今、何回死んだ」


俺は、肩で息をしながら、父さんの顔を見た。笑っていなかった。昔、稽古のときに一瞬だけ見せた目だった。


見栄を張るのは、簡単だった。喉の前の一回と、最後の一回で、二回。そう言えば、それで済む。


でも、地面に転がされたときのことを、俺は覚えていた。足を払われて倒れたとき、父さんの木剣は、俺の頭の横の土に刺さっていた。あれが本物の剣で、あと少しずれていたら。


「……四回」


俺は、言った。


「喉と、最後の肩と。転んだときに、頭の横に一回。それと、右から打ちこんだとき。父さんの剣が、俺の手首の上を通っていった」


父さんは、しばらく黙っていた。


それから、ゆっくりと口のはしを上げた。


「合ってる」


父さんは、木剣を薪割り台に立てかけた。


「一回でも少なく言ってたら、行かせなかった」


俺は、息を止めた。


「強いかどうかなんざ、どうでもいい。森の奥にはな、俺より強えのがいくらでもいる。そこで生きて帰ってこられるのは、自分が何回死んだか、ちゃんと数えられる奴だけだ」


父さんは、俺の頭に手を置いた。昨日みたいに、ぐしゃぐしゃにはしなかった。


「自分の間合いと限界を、常に見極めろ。出ていく朝に、言ったろ」


「……覚えてる」


「なら、合格だ」


そう言って、父さんはやっと笑った。いつもの、家の壁が震えるくらいの笑い声だった。



◇


父さんは、軒先のほうを向いた。


「嬢ちゃん」


ネルの肩が、びくっと跳ねた。


「は、はいっ」


「逃げ足は、速いか」


ネルは、ぱちぱちとまばたきをした。それから、少し考えて、まっすぐに顔を上げた。


「値切りの次に、速いです」


父さんは、一瞬ぽかんとした。


それから、腹を抱えて笑いだした。庭じゅうに、鳥が飛び立つくらいの大笑いだった。


「わははははっ! そりゃあいい!」


父さんは、笑いながらネルの前まで歩いていった。それから、少しかがんで、ネルと目の高さを合わせた。


「こいつはな、引かなきゃならねえときに、引けねえことがある。俺に似て、頑固だからな」


ネルの耳が、ゆっくりと前を向いた。


「そのとき、こいつの首根っこをつかんで、引っぱって帰れるのは嬢ちゃんだけだ。頼めるか」


ネルは、俺のほうをちらりと見た。


それから、父さんに向き直って、こくりとうなずいた。


「……引っぱります。耳を、ちぎれるくらい」


「わははっ、そうしてくれ!」


俺は、薪の山から木剣を拾いながら、そっと自分の耳をさわった。



◇


昼すぎ、父さんは庭の土の上に、枝で線を描いた。


「村がここだ。家の裏から森に入って、沢沿いに南へ行く」


枝の先が、土の上をすべっていく。沢の線、岩場の印、大きな倒木の印。父さんは、森の中の道を、まるで目の前に見えているみたいに描いていった。


「一日目の夕方に、でかい樫の木に出る。幹に、刃物で三本、横に傷がつけてある。俺が昔つけた目印だ」


枝の先が、ぴたりと止まった。


「そこが、印の木だ」


ネルが、俺の隣で地面をのぞきこんでいた。父さんの描いた線を、指でなぞるように目で追っている。


「条件は、三つだ」


父さんは、指を一本立てた。


「一つ。日のあるうちしか歩くな。暗くなったら、どこにいても火を焚いて動くな。奥の森の夜は、浅いとことはまるで別もんだ」


二本目の指。


「二つ。三日で戻れ。三日目の日が沈んでも戻らなかったら、俺は迎えに行く。行くが」


父さんは、そこで言葉を切った。


三本目の指が、立った。


「三つ。印の木から先には、俺は行かん」


俺は、父さんの顔を見た。


「だから、印の木から先で何があっても、俺は助けに行けん。それを、わかったうえで行け」


「……どうして」


聞いてから、答えはもらえないだろうと思った。


やっぱり、父さんは答えなかった。枝を地面に放って、森のほうを見ただけだった。


「それとな。この冬から、奥がどうもざわついてる。獣の通り道が変わった。浅いとこまで、出てこなくていいもんが出てくる」


ルクスの串焼き屋のおっちゃんが言っていた、馬鹿でかい角のことを思いだした。


「何かおかしいと思ったら、星鉄なんか放って帰ってこい。嬢ちゃんも、いいな」


「はい」


ネルが、はっきりと返事をした。


父さんは、うなずいて立ち上がった。それから、もう一度だけ、土の上の印の木を見下ろした。


その目が何を見ていたのか、俺にはわからなかった。


父さんが罠の見回りに出ていくと、ネルが土の上の線をじっと見下ろしたまま言った。


「ねえ。あんたの父さん、この道、何回歩いたのかしら」


「村の狩人だから。何回も、じゃないか」


「印の木から先も?」


俺は、答えられなかった。


父さんが描いた線は、印の木のところで止まっていた。でも枝の先は、そこで止まる前に、ほんの少しだけ、その先へ進みかけていた。迷うように土をかすって、それから戻った跡が、うっすらと残っていた。


「行かないんじゃなくて」


ネルが、小さな声で言った。


「行けないのかもね」


春の風が吹いて、土の上の線の端を、さらさらと崩していった。



◇


その夜、晩飯のあとに、母さんが俺とネルを呼んだ。


暖炉の前の机の上に、小さな包みが二つ置いてあった。


「持っていきなさい」


母さんは、それだけ言った。


ネルが、包みの一つを手に取った。それから、小さく息をのんだ。


包んでいたのは、ネルが縫った、あの白い手ぬぐいだった。隅の緑の葉の刺繍が、暖炉の火に照らされていた。


中には、乾かした血止め草と、小さな薬の壺が入っていた。もう一つの包みも、同じだった。母さんの古い手ぬぐいで、同じものを包んである。


「お母さん、これ」


「畑で使うって言ったでしょう。いちばん大事な畑仕事に、使わせてもらったの」


母さんは、ネルの手の上の包みを、両手でそっと包みこんだ。


「使わずに、返しに来て」


ネルは、何も言えなかった。


ただ、包みを胸に抱えて、何度もうなずいた。尻尾が、床の上でゆっくりと揺れていた。


母さんは、俺のほうを向いた。


止めるのだと思っていた。昨日の夜から、ずっと静かだったから。父さんに怒っているのだと思っていた。


でも、母さんは何も言わなかった。


俺の右手を取って、昨日と同じように、剣だこを親指でなぞった。それから、手のひらに、もう一つの包みを載せた。


「……行ってらっしゃい、リト」


声は、静かだった。


でも、怒っている静かさではなかった。



◇◆◇




翌朝、まだ日が昇りきらないうちに、家の裏へ回った。


畑の向こうに、黒樹の森が広がっていた。黒い幹の木々が、朝の薄い光の中に、壁のように並んでいる。浅いところまでは、子どものころに何度も入った森だった。


俺とネルは、森の入口で立ち止まった。


振り返ると、庭で斧の音がしていた。


父さんが、薪を割っていた。こちらを振り返りもせずに、いつもと同じ調子で、斧を振り上げて、振り下ろしている。ぱかん、ぱかん、と乾いた音が、朝の空気に響いた。


戸口には、母さんが立っていた。前掛けの前で、両手を重ねていた。


俺は、二人に向かって小さく手を上げた。


父さんの斧が、一度だけ、振り上げたまま止まった。それから、また振り下ろされた。


ぱかん。


「行こう、リト」


ネルが、俺の袖を引いた。腰の紅糸の柄に、もう片方の手を置いていた。


俺は、うなずいた。


森へ、一歩踏みこんだ。


それだけで、空気が変わった。ひんやりとして、湿っていて、土と苔の匂いがした。鳥の声が、少しだけ遠くなった。


背中で、薪を割る音が、まだ聞こえていた。



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