薪割りと繕い物
「起きろ」
毛布が、いきなりはがされた。
窓の外は、まだ青かった。鳥もようやく鳴きはじめたばかりの時間だ。寝台の横に、斧を二本ぶら下げた父さんが立っていた。
「叩き起こすって言ったろ」
「……ほんとに叩き起こすとは思わなかった」
「わははっ、俺は嘘は言わねえ」
父さんは笑いながら、さっさと階段を下りていった。
庭には、薄い朝霧がかかっていた。森の黒い木々が、霧の向こうに影みたいに並んでいる。土の匂いと、湿った木の匂いがした。王都の朝には、なかった匂いだった。
薪割り台の横には、丸太を短く切ったものが山になっていた。父さんは、斧を一本、俺に放ってよこした。
「やってみろ」
俺は、丸太を一つ台に載せた。斧を振り上げて、振り下ろす。
がつん、と鈍い音がした。刃は丸太の半ばで止まって、抜けなくなった。
父さんが、腹を抱えて笑った。
「なんだそりゃ。王都で、薪の割り方も忘れたか」
「……ちょっと、力が入りすぎただけだ」
「それだ」
父さんは、俺の手から斧を取って、刃を丸太から引き抜いた。それから、丸太をくるりと回して、上の面を指でなぞった。
「力で割るな。木の目を読め。どの薪にもな、割れたがってる筋がある。そこに刃を置いてやるだけだ」
父さんが、軽く斧を落とした。
ほとんど力を入れていないように見えた。それなのに丸太は、乾いた音を立てて、まっすぐ二つに割れた。
割れたがってる筋。
ネルが聞いたら、たぶん、ものすごく嫌そうな顔をする。それ、あたしが毎日見てるやつじゃない、と。
俺は、次の丸太を台に載せた。上の面をよく見る。年輪の中に、細いひびが一本、走っていた。そこに刃を合わせて、振り下ろす。
ぱかん、と軽い音がした。
丸太が、左右にきれいに飛んでいった。
「……ふん」
父さんが、鼻を鳴らした。
「腕は、落ちてねえな」
それから、俺たちは並んで薪を割った。父さんの斧の音と、俺の斧の音が、霧の庭に交互に響いた。
昔も、こうだった。十歳の冬に、初めて父さんに薪割りを教わった。あのときは丸太一つ割るのに、腕がぱんぱんになった。
◇
割った薪を軒下に積みながら、俺は口を開いた。
「宿場町で、片腕の人に会ったんだ」
父さんの手は、止まらなかった。薪を一本ずつ、きっちりと隙間なく積んでいく。
「馬の目利きをしてる人。ベルンさんっていう。昔、冒険者だったって」
薪を積む音が、一つ、止まった。
「伝言を、頼まれた」
俺は、ベルンさんの言葉をそのまま言った。
「あの夜の片腕は、まだ生きてる、って」
父さんは、薪を一本持ったまま、動かなくなった。
森のほうから、鳥の声がした。霧が少しずつ晴れて、黒い木々の輪郭が、くっきりと浮かびあがってくる。父さんは、その森を見ていた。
長い間だった。
「……そうか」
父さんは、それだけ言った。
それから、いつもの声に戻った。
「狩人やってりゃな、森で迷った奴の一人や二人は拾うもんだ。いちいち覚えちゃいねえよ」
父さんは、手に持っていた薪を積んだ。
その一本だけ、ほかの薪よりもずっとていねいに置いた気がした。笑い声は出なかった。でも口のはしが、ほんの少しだけ上がっていた。
俺は、腰のナイフに手をやった。
布を巻いたままの柄を、父さんに見えるように持ち上げる。
「ベルンさんに、言われた。この紋を知ってるのは、助けられた人か、探してる人だけだって。探してる人には、見せるなって」
父さんの目が、布の上で止まった。
「見せるなって言うなら。どうして父さんは、これを俺に持たせたの」
父さんは、すぐには答えなかった。
薪割り台に、どかっと腰を下ろした。膝の上に肘をついて、両手を組む。その手を、しばらくじっと見ていた。
「お前は、一人で村を出ていくって言った」
低い声だった。
「一人ってのはな、ほんとに一人だ。森で足をくじいても、街で騙されても、誰も来ねえ。誰も、お前のことを知らねえ」
父さんは、顔を上げた。
「だから、賭けた。どっかで、そいつを見て、お前に気づいてくれる奴がいるほうにな」
俺は、ナイフの柄を握った。
ガンツさんの「本人に聞け」。シェイラさんの「知ってる」。ベルンさんの、命を拾われた夜の話。
みんな、このナイフを見て、俺に気づいた人たちだった。
「……じゃあ、探してる人っていうのは」
「それ以上は、まだだ」
父さんは、立ち上がった。
「まだって」
「まだは、まだだ」
父さんは、斧を拾った。そして、何事もなかったみたいに、次の丸太を台に載せた。
ぱかん、と軽い音が庭に響いた。
それで、話は終わりだった。
◇
朝飯のあと、俺は背負い袋から、ガンツさんの包みを出した。
手のひらほどの大きさで、油紙で固く包んである。持つと、見た目よりずっと重い。
「王都の鍛冶屋の、ガンツさんって親方から。父さんに渡せって。それと、よろしくって」
父さんが、包みを受け取った。
その手が、ほんの一瞬、止まった。
父さんは、俺に背を向けた。窓のほうを向いて、油紙の端を少しだけめくる。中をのぞいたのは、ほんのひと呼吸くらいの間だった。
父さんは、すぐに包みを閉じた。
「……あの頑固者が」
小さく、そう言った。
それから、包みを上着の内側にしまった。何が入っていたのかは、背中に隠れて見えなかった。
「父さん、ガンツさんに会ったことあるの」
「ねえよ」
父さんは、くるりと振り返って、大きく笑った。
「鍛冶屋ってのはな、だいたいみんな頑固者なんだ。わははははっ!」
母さんが、台所で皿を洗いながら、小さくため息をついた気がした。
◇
昼からは、父さんの罠の見回りについていった。
森の浅いところに仕掛けた罠を、一つずつ見てまわる。兎が二羽と、空っぽの罠がいくつか。父さんは、獣の通った跡を指さしながら、ほとんど何もしゃべらずに歩いた。
ネルは、家に残った。
母さんが「繕い物、手伝ってくれる?」と声をかけると、ネルの耳がぴんと立った。尻尾が、ゆっくり大きく揺れていた。
夕方、家に戻ると、ネルは軒先の長椅子に一人で座っていた。
膝の上に、父さんの古い上着が載っていた。袖口にも肘にも、何度も何度も継ぎ当てがしてある。
「どうだった」
俺が隣に座ると、ネルはふふんと鼻を鳴らした。
「お母さん、繕い物は、まあまあね」
「まあまあって」
「目がちょっと粗いの。継ぎ当ても、ほら。角がよれてる」
ネルは、上着の袖口を持ち上げてみせた。そこだけ、縫い目が新しかった。細かくて、まっすぐで、どこで糸を継いだのかもわからない。
「だから、あたしがやり直したの」
「勝手に?」
「頼まれたのよ。お母さん、すごく喜んでた」
ネルの尻尾が、得意げに揺れた。
「傷をふさぐのは得意なんだけど、布はどうしても苦手なのよ、って。笑ってた」
傷をふさぐのは、得意。
俺が稽古で膝をすりむいて帰ると、母さんは何も言わずに手当てをした。どんなに血が出ていても、母さんの手は少しも乱れなかった。そして次の朝には、傷はいつも、思っていたよりずっと小さくなっていた。
子どものころは、母さんの薬がよく効くのだと思っていた。
俺は、何も言わなかった。
「それとね」
ネルが、声を落とした。
「紅糸、部屋の壁に立てかけてたの。日が傾いて、部屋がちょっと暗くなったら、刃の縁が光るでしょ。あの青白いの」
「うん」
「お母さんの針が、止まった」
ネルは、俺の顔を見た。
「ほんとに一瞬よ。でも、繕ってた糸が、ぴんって張ったの。手が止まると、糸ってそうなるから」
ネルは、繕い物をしている人の手を、誰よりもよく見ている。だから、わかったのだと思った。
「それで、聞かれた。その剣、どこで、って」
「なんて答えた」
「ばあちゃんの裁ち鋏を、王都の鍛冶屋の親方に打ち直してもらったって」
ネルは、膝の上の上着に目を落とした。
「そしたら、お母さん。……そう、おばあさまの、って。それだけ」
それから、また縫いはじめたのだという。何もなかったみたいに、静かに。
ネルの尻尾が、長椅子の上で、ゆっくりと揺れていた。考えごとをしているときの揺れ方だった。
「ねえ、リト」
「うん」
「あんたの家、隠し事だらけね」
「……知ってる」
ネルは、ふっと笑った。それから、上着をきれいにたたんだ。
◇
晩飯の席で、俺は切りだした。
「森の奥に、行きたいんだ」
父さんの杯が、机の上で止まった。
「ガンツさんに、聞いた。黒樹の森のずっと奥に、星鉄が眠ってるって。ネルの剣の、二本目を打つのに要るんだ」
母さんの匙も、止まった。
ネルが、膝の上で手を握りしめたのが、横目に見えた。
「村の近くまで、奥の魔物が出てきたって聞いた。だから、危ないのはわかってる。それでも、行きたい」
父さんは、杯を置いた。
いつもの笑い声は、出なかった。黙って、俺の顔を見ていた。昔、稽古のときに一瞬だけ見せた目に、少し似ていた。
「……明日、剣を見せろ」
父さんは、言った。
「泡も、小細工もなしだ。それ次第だ」
「わかった」
俺がうなずくと、父さんは杯の火酒をひと口だけ飲んだ。
母さんは、何も言わなかった。
ただ、父さんのほうを、静かに見ていた。
父さんは、その目を見なかった。窓の外の、暗くなった森のほうを向いたまま、杯を口に運んでいた。
母さんは、怒ると静かになる。
今の母さんは、昨日よりもずっと静かだった。




