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ただいま


夕焼けの庭に、その声だけが落ちた。


俺は何か言おうとして、口を開けた。でも、何も出てこなかった。王都を出てから九日間ずっと考えていたはずの最初の一言が、どこかへ行ってしまった。


「足音が二つ」


父さんは、まだ森のほうを向いたままだった。


「一つはお前だ。もう一つは、ずいぶん軽いな。村の道に入ったあたりから、ずっと聞こえてた」


ネルの耳が、びくっと跳ねた。俺の袖をつかむ手に、ぎゅっと力がこもる。


村の道に入ったのは、もうずいぶん前だった。畑の向こうの、そのまた向こう。そこからの足音を、父さんは薪を割りながら聞いていた。


斧が薪割り台にどんと突き立てられた。


そして、父さんが振り返った。


日に焼けた、いかつい顔だった。出ていったときより、目尻のしわが少しだけ深くなった気がした。その顔が俺を見て、くしゃっと崩れた。


「わははははっ!」


笑い声が、庭じゅうに響いた。森の縁の木から、鳥が何羽かあわてて飛び立った。


父さんは大股で歩いてくると、大きな手で俺の頭をわしづかみにした。そのまま、ぐしゃぐしゃにかき回す。


「ちょ、父さん、やめ」


「なんだお前、ちっとも変わってねえな!」


「変わったよ!」


「どこがだ。髪の跳ね方まで、出ていった朝のまんまじゃねえか」


父さんは、また腹の底から笑った。


「春に帰るって書いてあったからな。春ってのは、もうちょっと早えもんだと思ってたぞ」


俺の頭から手を離さないまま、父さんはそう言った。



◇


ふと、家の戸口に目が向いた。


母さんが、立っていた。


黒い髪を、昔と同じように緩く結んでいた。前掛けの端で、ゆっくりと手を拭いている。薬草を刻んでいた途中だったのか、青い匂いがここまで届いた。


母さんは、駆け寄ってこなかった。


戸口から、ただ俺を見ていた。顔を見て、肩を見て、腰のナイフのところで一度だけ目を止めて、それから足もとを見た。俺が庭を一歩ずつ歩いていくのを、黙って見ていた。


俺は、母さんの前に立った。


母さんは、俺の右手を取った。手のひらを上に向けて、親指でゆっくりとなぞる。剣だこのところで、指が止まった。王都で毎日剣を振って、硬くなったところだった。


「……おかえり、リト」


それだけだった。


それだけで、喉の奥が詰まった。


「……ただいま」


声が、少しかすれた。


母さんは俺の手を握ったまま、小さく笑った。目のふちが赤いのは、夕焼けのせいだけではなかった。


「で」


父さんの声が、後ろから降ってきた。


「そっちの、軽い足音の嬢ちゃんは?」



◇


振り返ると、ネルが庭の入口で棒のように突っ立っていた。


耳はぴんと立ちっぱなしで、尻尾は一本の棒みたいにまっすぐ下を向いている。顔は、夕焼けより赤かった。


ネルは、ぎくしゃくと一歩前に出た。


「ネ、ネルです。王都で、リトとパーティを組んでて。し、仕立て屋のばあちゃんに、育てられて」


そこで、言葉が途切れた。何を言うつもりだったのか、自分でもわからなくなったらしい。


ネルは、がばっと頭を下げた。


「お、お世話になりますっ!」


父さんが、目を丸くした。それから、ぽんと手を打った。


「おお、あんたが! 繕い物がすごく上手で、値切るのはもっと上手な、狐の嬢ちゃんか!」


ネルの頭が、下げたままの姿勢で固まった。


ゆっくりと、顔だけが上がる。琥珀色のつり目が、まっすぐ俺をにらんだ。あとで覚えてなさいよ、と顔に書いてあった。


俺は、そっと目をそらした。


母さんが、ネルの前まで歩いていった。ネルの肩が、また棒のようにこわばる。


「遠いところを、ありがとう。リトの母の、サラです」


「は、はいっ」


母さんの目が、ネルの尻尾に落ちた。


「きれいな毛並みね。いつも、ちゃんとお手入れしてるの?」


「さっき、村の手前で、あわてて……」


言ってから、ネルは自分の口を両手でふさいだ。


母さんが、くすっと笑った。


ネルの尻尾が、ぶわっと倍にふくらんだ。


「わははっ! 狐ってのは、尻尾で返事すんのか!」


父さんの笑い声が、また庭じゅうに響いた。ネルは真っ赤な顔のまま、ふくらんだ尻尾を両手で押さえこもうとしていた。押さえるそばから、指のあいだで毛がふわふわとはみ出していた。



◇


家の中は、薬草と煙の匂いがした。


太い梁に、干した薬草の束がいくつも吊るしてある。暖炉の前の木の机も、壁に掛けた父さんの弓も、俺が小さいころに机の脚につけた傷も、出ていったときのままだった。


荷物を下ろして、俺は背負い袋の口を開けた。


「これ、父さんに」


火酒の小瓶を渡すと、父さんの目が輝いた。


「おお! わかってるじゃねえか、お前!」


父さんは、さっそく栓に指をかけた。


母さんは、何も言わなかった。ただ、父さんのほうを静かに見ていた。


父さんの指が、栓の上で止まった。


「……晩飯のときに、一杯だけな」


「そうね」


母さんは、にっこり笑った。


俺は、母さんが怒ると静かになることを思い出していた。今のは怒っていたわけではない。でも、効き目は同じだった。


母さんには、蜂蜜の壺を渡した。王都の南の養蜂場のもので、ネルが三軒まわって選んだやつだ。母さんは蓋を少し開けて、目を細めた。


「いい香り。花の蜜ね」


そのとき、ネルが俺の背中をつついた。


振り返ると、ネルは両手で小さな包みを握りしめていた。指先が、少し震えていた。


「あ、あの」


ネルは、包みを母さんに差し出した。


「つまらないものですけど。あたしが、縫ったので」


母さんが、包みをほどいた。


中から出てきたのは、真っ白な木綿の手ぬぐいだった。隅に、緑の糸で一枚の葉の刺繍がしてある。ぎざぎざの縁と、葉脈の一本一本まで。


母さんの手が、止まった。


「……血止め草ね」


ネルの耳が、ぴくりと動いた。


「わかるんですか」


「毎日、見てるもの。裏の畑で、いちばんたくさん植えてるの」


「リトに聞いたんです。お母さんが、いちばんたくさん育ててるのはどれかって」


母さんは、手ぬぐいを窓の明かりにかざした。刺繍の裏を返して、縫い目を親指でなぞる。剣だこを確かめたときと、同じ手つきだった。


「縫い目がまっすぐね。表からじゃ、どこで糸を継いだのかもわからない」


「ばあちゃんに、仕込まれたので」


「いいおばあさまだったのね」


ネルは、しばらく何も言わなかった。


それから、小さくうなずいた。


「……はい」


ネルの尻尾が、ゆっくりと揺れはじめた。棒のようだった尻尾が、この家に来てはじめて、いつもの揺れ方に戻っていた。


「明日から、畑で使わせてもらうわね」


母さんは、手ぬぐいを丁寧にたたんで、前掛けのポケットにしまった。



◇


晩飯は、猪の肉と根菜の煮込みだった。


母さんの煮込みは、王都のどの店とも違う味がした。干した香草と、ほんの少しの蜂蜜。父さんが森で獲った鹿の肉も、暖炉の火で炙られて並んでいた。


父さんは、約束どおり火酒を一杯だけ注いだ。それを、ものすごく大事そうに少しずつ飲んでいた。


「ルクスで、串焼きを食べたんだ」


俺が言うと、父さんは顔を上げた。


「おう、通りの角のとこか」


「うん。肉が、父さんの獲ったやつだって」


「あそこの親父、口が軽いからな」


父さんは、鹿の肉にかぶりついた。


ネルが、煮込みの匙を置いた。それから、すました顔で言った。


「この冬、森の奥の魔物の角を売ったんですってね。落ちてたって」


父さんが、むせた。


げほげほと咳きこんで、胸を叩いて、火酒の杯をあおろうとして、それが空なのに気づいた。母さんが、黙って水を注いだ。


「おう、落ちてた落ちてた!」


父さんは、水を一気に飲み干して笑った。


「森にはな、何でも落ちてるもんだ。角でも、牙でも、たまには金貨でもな! わははははっ!」


ネルは、じとっとした目で父さんを見ていた。


母さんは何も言わずに、父さんの皿にパンを一つ足した。


昔と、同じだった。俺がバイソンボアを倒した日の夕飯でも、母さんは黙ってパンを足していた。


「そうそう、ネルちゃん」


母さんが、思い出したように言った。


「この人ね、リトから手紙が来るたびに、何度も何度も読み返してたのよ」


「サラ」


「夜中に起きてきて、暖炉の前でまた読んでたこともあったわね」


「おい、サラ」


「春に帰るって手紙が来てからは、毎朝、薪を割るふりをして道のほうばっかり見てたし」


父さんは、大きな咳払いをした。それから、もう何も入っていない杯を、また口に運んだ。


ネルが、俺のほうを見た。


俺は、煮込みの皿に目を落とした。


遅かったな、と父さんは言った。あれは、毎朝あの庭から道を見ていた人の言葉だった。


「そういやお前、薪割りを教えてほしいんだってな」


父さんが、杯を置いた。


「明日の朝、叩き起こすぞ」


「……うん」


父さんは、また笑った。今度は、少しだけ静かな笑い声だった。



◇


俺の部屋は、出ていったときのままだった。


寝台の毛布は日に干したばかりの匂いがして、窓枠には埃ひとつなかった。机の上に、俺が子どものころに森で拾った黒い木の実が、まだ並んでいた。


ネルは、母さんの繕い物部屋に寝床を作ってもらった。壁の向こうで、しばらくごそごそと寝返りを打つ音がしていた。それも、いつのまにか静かになった。


俺は寝台に腰かけて、腰のナイフを外した。


柄には、布を巻いたままだった。宿場町でベルンさんに言われてから、一度もほどいていない。


聞こうと思っていた。


どうして、このナイフを俺に持たせたのか。この紋を知っている人がいることを、父さんは知っていたのか。


でも、晩飯のあいだ、聞けなかった。父さんが大笑いして、母さんがパンを足して、ネルの尻尾が揺れていた。一年ぶりの食卓を、俺の言葉で止めたくなかった。


明日、聞こう。


そう決めて、毛布にもぐりこんだときだった。


下の居間から、声が聞こえた。


暖炉の火が、ぱちぱちとはぜる音。その向こうで、二人が話していた。床板の隙間から、低い声だけが上がってくる。


「……布、巻いてたわね」


母さんの声だった。


「ああ」


父さんの声だった。庭で笑っていた人と同じとは思えないほど、低い声だった。


それから、長い沈黙が続いた。


薪が一本、ぱちんと大きくはぜた。


俺は、毛布の中で息を止めていた。


二人とも、何も言わなかった。言わないまま、ずっとそこに座っていた。


ちっとも変わってねえな、と父さんは笑った。


でも、本当は全部見ていた。母さんが戸口から見ていたのも、俺の足もとだけではなかった。


俺は、布の上から、ナイフの柄をそっと握った。


窓の外で、黒樹の森が、夜風にざわざわと鳴っていた。



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