交易町ルクスと、静かなる出立
熊の死体を街道脇の茂みに押し込んでから、さらに一時間ほど歩いた頃。
木々の隙間から、石造りの防壁と、頑丈な木組みの門が見えてきた。
コルー村から徒歩で約二時間。
両親が獲物の肉や薬草を売りに通っている町――『交易町ルクス』だ。
(着いた……。ここに来るのも、ずいぶん久しぶりだな)
門番に通行料の銅貨を三枚差し出すと、槍を持った髭面の男が、俺の頭のてっぺんから爪先までをじろりと眺めた。
「……坊主。森で転がりでもしたのか?」
「あ、あはは……ちょっと、道で派手に転んで」
汗と土でどろどろになった服を見下ろしながら、俺は愛想笑いでごまかした。
門番は怪訝そうに眉をひそめつつも、銅貨を受け取って顎で中を示す。
町に足を踏み入れた途端、音と匂いの洪水が押し寄せてきた。
荷車の車輪が石畳を叩く音。露店の呼び込み。焼けた肉の脂と、香辛料と、馬の匂い。
行き交うのは、大きな荷を背負った行商人や、剣や槍を担いだ旅人たちだ。
コルー村ののんびりした空気とはまるで違う、雑多で騒がしい熱気が、妙に心地よかった。
まずは腹ごしらえでも――と大通りを進んでいると、ひときわ大きな建物の前に、物々しい人だかりができていた。
入口に掲げられた剣と盾の紋章。どうやら、冒険者ギルドの支部らしい。
「おい、マジかよ! 街道に『ファングベア』が出たって!?」
「ああ、ついさっき、行商の荷車が命からがら逃げ込んできたんだとよ! Cランクの魔物が、なんでこんな町の近くに出るんだ!」
「ギルドが急いで討伐隊を組んでるらしい! Cランク以上のパーティをかき集めてるってよ!」
(ファングベア……Cランクの魔物か。物騒だな)
人垣の隙間から漏れ聞こえる会話に、ふと、さっき街道で出くわした『ただのデカい熊』の姿が頭をよぎった。
立ち上がれば、大人の倍はあろうかという巨体。
太く鋭い牙を剥き出しにした、真っ赤な目の猛獣。
(……いや、待てよ? まさか、さっきの熊……じゃないよな?)
胸の奥に、小さな棘が引っかかる。
だが、町じゅうが大騒ぎするような大物が、あんなにあっさり倒れるはずがない。
(……まさかな)
俺は首を振って人だかりを離れ、近くの安食堂へと向かった。
温かいシチューと固いパンで腹を満たし、干し肉や水、この先の街道が載った簡単な地図を買い揃える。
そうして小一時間ほど町を見て回っていた、そのときだった。
町の入口のほうから、わっと大きなどよめきが上がった。
「おい! 討伐隊が戻ってきたぞ!」
「もう!? ファングベアを倒したのか!?」
野次馬の輪に混ざってみると、武装した冒険者たちが、困惑とも驚きともつかない妙な顔で引き揚げてくるところだった。
「ファングベアはいたんですか!?」
町の人の問いかけに、討伐隊のリーダーらしき大柄な男が、首をひねりながら答えた。
「……いや、倒したというか……すでに死んでいたんだ」
「えっ、死んでた!?」
「ああ。街道から茂みのほうへ、でっかい引きずり跡が残っててな。辿っていったら、奥に押し込まれてた。ご丁寧に、上から枝葉までかぶせてあったよ」
(……跡、残ってたのか……)
あれだけ汗だくになって、隠したのに。
「外傷は一切ない。なのに、頭の中と腹の中が、内側から一瞬で焼き潰されていた」
男は一度言葉を切り、ぞっとしたように顔をしかめる。
「俺たちの知らない凄腕の魔法使いか、高ランクの冒険者が、通りすがりに仕留めていったとしか思えん。第三階位クラスの火力を、寸分違わず体内へ叩き込める化け物だ。……しかも、死体まできっちり片付けていく几帳面さときた」
その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たい汗が噴き出した。
(……あ、やっぱりあの熊だ……!)
引きずった跡。茂み。枝葉。そこまで完全に一致している。
名前も知らないデカい熊だと思って、口に泡を放り込んで片付けてしまったが――あれが、町じゅうを騒がせるCランクの魔物、ファングベアだったらしい。
しかも、目立たないように隠したつもりが、かえって『几帳面な凄腕』なんて噂に箔をつけてしまった。
(……また、やってしまった)
五年前の夕食で、スープを吹き出しかけた記憶がよみがえる。
次からはちゃんと隠そう。そう誓ったはずなのに。
「名乗りもせずに去るなんて、粋な奴もいたもんだな!」
「しかしもったいねぇ。ファングベアの毛皮と牙なら、大銀貨の数枚にはなるってのに」
周りの冒険者たちが、好き勝手に盛り上がっている。
(……大銀貨、数枚……)
一ヶ月分の生活費が、数ヶ月分。
茂みに置いてきた熊の顔が、一瞬、金貨の山に見えた気がした。
いや、ダメだ。のこのこ名乗り出たら、それこそ終わりだ。
Cランクの魔物を一撃で仕留めるには、一人前の魔法使いが放つ、第三階位クラスの火力が要る。
俺が極小の泡で放った水蒸気爆発は、そのラインを、あっさりと越えていたのだ。
しかも――泡をもう少し大きくすれば、威力はさらに上がる。
(やばい……! これは絶対にバレちゃダメなやつだ……!)
『十五歳の駆け出しが、Cランクの魔物を一撃で仕留めた』。
そんな噂が立ったら、どんな目で見られるかわかったものじゃない。
怪しまれるか、面倒な連中に目をつけられるか。どちらにしても、ろくなことにならないのは確実だった。
俺は額の汗を拭いながら、人混みの後ろへ、そろりそろりと後ずさった。
幸い、体内で爆ぜた痕跡だけでは、まさか十五歳の少年の仕業だなんて、誰も思わないだろう。
……たぶん。
(……さて。余計な騒ぎに巻き込まれる前に、さっさと出よう)
買い揃えた荷物を鞄に詰め直し、俺はルクスの北門へと向かった。
門をくぐると、まっすぐに伸びる街道の先に、どこまでも広がる青空と、遠い地平線が見えた。
目指すのは、この国の中心――アトリアス王国の王都。
冒険者ギルドの本部があり、数えきれないほどの猛者と危険がひしめく場所だ。
「……行くか、王都」
誰にも縛られない、最高の自由。
S級冒険者という頂を目指して、俺は北へと続く街道を歩き出した。




