15歳、出立の日
『黒樹の森』で初めて実戦の手応えを掴んでから、五年の月日が流れた。
五歳の夜、ランプの下で母さんに告げた、『S級冒険者になる』という夢。
十歳のとき、俺はそれを改めて、二人の前で口にした。
十五歳になったら村を出て、冒険者になりたい、と。
両親は引き止めるどころか、笑って背中を押してくれた。
「リトの人生なんだから、好きに生きなさい」
ハズレ扱いの【泡生成】と、威力の出ない初歩魔法。
周りからは器用貧乏と笑われていたが、二人は俺の選択を一度も否定しなかった。それどころか、この五年間、外の世界で生き抜くための戦いのいろはを、温かく、そして徹底的に叩き込んでくれた。
十五歳。
この国では成人とみなされ、自分の足で立って職に就くことが許される年齢だ。
「よし……これで全部だな」
革の鞄に最低限の着替えと小銭入れ、水筒を詰め込み、俺は自室の姿見と向き合った。
鏡に映っているのは、母さん譲りの黒髪と、丸みのある目元をした少年。
……五年も鍛えたのだから、少しは精悍な顔つきになったと思いたいところだが、どう見ても人畜無害そうな顔だった。
まあ、目立たないという意味では好都合だ。
『一人で森に入らない。絶対』
十歳の夕食で交わしたあの約束は、三日で破った。
この五年間、俺は両親の目を盗んでは森の奥へ通い詰め、あの日掴んだ確信を、確かな技術へと磨き上げてきた。
【泡生成】と、初歩魔法の組み合わせ。
ただ密閉して爆ぜさせるだけじゃない。膜の厚みや弾力を操り、弾けるまでの時間差や、衝撃の向きまで制御する技術。
ただの思いつきだった現象は、五年分の試行錯誤を経て、誰にも知られていない、俺だけの『牙』に仕上がっていた。
それでも、俺の立ち位置は変わらない。
表向きは、『そこそこ筋の良い剣士で、初歩魔法しか使えない器用貧乏な少年』。
誰にも縛られない地位――S級冒険者の称号を手にするまでは、この力をひけらかすつもりは微塵もなかった。
「リト、準備はできたか?」
一階から、父さんの太い声が響いた。
「うん、今行くよ!」
鞄を肩に掛け、見慣れた自室をぐるりと見回してから、俺は階段を駆け下りた。
戸口の前では、父さんと母さんが並んで待っていた。
父さんは、壁に立てかけてあった古びた鞘を手に取ると、それを俺に向かって差し出してくる。
「受け取れ、リト」
「……これ、父さんの?」
「ああ。俺が現役の頃に使ってたナイフだ。お前がずっと使ってた練習用のちっこいナイフより、よっぽど手に馴染むはずだ」
(現役……? 狩人の、だよな?)
受け取ると、ずしりと心地よい重みが手のひらに沈んだ。
黒ずんだ革鞘に収まったままだというのに、使い込まれた柄は吸い付くように手に馴染み、抜かずとも、ただの刃物ではない気配が伝わってくる。
「大切に使わせてもらうよ」
「おう、粗末に扱ったら承知しねぇぞ。……いいか、リト。外の世界には、この辺の魔物なんか比べものにならねぇ化け物がゴロゴロいる。だがな、一番怖いのは魔物じゃない。人間の欲と、自分の油断だ。自分の間合いと限界を、常に見極めろ。死線で熱くなった奴から死んでいく」
いくつもの修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、重みのある言葉だった。
普段の呑気な父親とは違う、鋭い光がその瞳に宿っている。
「わかってる。無茶はしないよ」
「……まあ、お前なら大丈夫か。お前の手抜きに付き合ってやるのも、最近は骨が折れたしな」
「え……?」
父さんは不敵にニヤリと笑うと、俺の肩をばしんと叩いた。
組手のとき、俺が『そこそこ強い少年』を演じるために、動きを必死に計算して、善戦に見せかけていたこと。
その奥にある『何か』を、この人は直感で嗅ぎ取っていたのかもしれない。
具体的な中身までは見抜かれていない――はずだ。
それでも、その笑顔は、息子の成長を誇らしく思う父親そのものだった。
「リト、ご飯はちゃんと食べるのよ。辛くなったら、いつでも帰ってきていいんだからね」
母さんが、堪えきれないといった様子で俺を抱きしめた。
しばらくしてようやく腕を解くと、母さんは俺の手を握ったまま、ふと小首をかしげる。
「そういえばね、ずっと気になっていたんだけど……あなたの【プチフレイム】って、指先ほどの大きさしかないのに、普通のプチフレイムよりずいぶん熱いのよね。なんだか、熱をぎゅっと一点に凝縮しているみたいな……」
「え……あ、そう、かな?」
心臓が、どきりと跳ねた。
「ええ。魔法は大きさだけじゃないわ。あなたのその繊細さは、きっと外の世界でも助けになるはずよ」
「……うん。ありがとう、母さん」
父さんも、母さんも。
どこまで気づいていて、どこから気づいていないのか。まったく読めない。
二人に見送られ、俺は住み慣れた家の扉を開けた。
朝の澄んだ空気が、胸いっぱいに流れ込んでくる。
まず目指すのは、両親が普段から獲物や薬草を売りに行っている、一番近い町――徒歩で二時間ほどの距離にある『交易町ルクス』だ。
「よし……行くか」
一度だけ振り返り、両親に大きく手を振る。
それから背を向けて、俺は街道を歩き出した。
両側に木々が立ち並ぶ、見慣れた道。
十歳の頃とは違う。五年間の修練を経た今なら、この辺りの魔物に怯える理由はない。
自分の力が、外の世界でどこまで通用するのか。胸の奥の高鳴りを、どうにも抑えきれなかった。
◇
一時間ほど歩き、人気のない林の只中に差し掛かったときだった。
――ガササッ! ドシンッ!!
街道脇の木々を押し割って、巨大な影が躍り出た。
立ち上がれば、大人の倍はあろうかという熊の魔物。
見たことのない奴だが、この辺りにも出るらしい。
「グオォォォンッ!!」
泡の中に、水滴をひとつ。
種火をひとつ。
(膜の厚みは――すれ違ってから、一拍)
一歩、踏み込む。
大きく開かれた顎の奥へ、指先の泡を、ぽん、と弾く。
巨体が、俺の脇をすり抜けていく。
一。
――ボォンッ!!
くぐもった炸裂音。
口と耳から白い蒸気を噴き上げて、熊は地面へどうっと突っ伏し――それきり、二度と動かなかった。
「……よし」
指先に残った湿り気を、軽く振って払う。
誰にも見られていない。
肺の奥から、ゆっくりと息を吐き出す。
五年間の修練は、伊達じゃない。発動の速さも、弾ける瞬間も、完全に手の内に収まっている。
――と、そこまでは、我ながら完璧だった。
(……で、これ、どうする?)
足元に転がる、小山のような巨体を見下ろす。
街道の、ど真ん中だ。
こんなものが転がっていたら、後から来る行商人が腰を抜かすだろう。
かといって、ここで解体して血の匂いをまとったまま町に入るのも御免だった。
つまり、動かすしかない。
「……よし。やるか」
俺は熊の後ろ脚を両手で掴み、腰を落として、全体重をかけて引いた。
「ぐぬぬぬ……っ」
動かない。
「ぐ、ぬぬぬぬぬ……っ!」
ほんの少しだけ、ずり、と動いた。
「重っ……! なにこれ、重っ……!」
十五歳の身体には、どう考えても荷が重すぎる。
泡の制御なら五年鍛えたが、熊を引きずる鍛錬なんて、一度もしたことがない。
額から汗が噴き出し、腕がぷるぷると震え、足元の土がずるずると削れていく。
さっきまでの、あの落ち着き払った俺はどこへ行った。
ようやく街道脇の茂みまで押し込んだ頃には、息は上がり、服は汗と土でどろどろになっていた。
仕上げに、上から枝葉をかぶせて、ひとまず見えなくする。
「……はぁ、はぁ……よし。何事も、なかった」
手をぱんぱんと払い、何食わぬ顔で街道に戻る。
膝が、少し笑っていた。
交易町ルクスまでは、あと一時間ほど。
指先に浮かべた小さな泡の感触を確かめながら、俺はふらつく足取りで、ルクスへと続く街道を進んでいった。




