思いがけない実戦
初めての魔物退治です!!
水蒸気爆発に気づいてから、数ヶ月が過ぎた頃のことだ。
「リト、今日も父さんと街まで買い出しに行ってくるわね。お昼までには戻るから、お留守番お願いね」
荷車を引いて出かけていく母さんと父さんを見送ると、俺はすぐさま庭へと飛び出した。
俺の家は、コルー村の一番外れ――森に最も近い場所に、ぽつんと建っている。
村人に呼び止められる心配もなく、両親の目を盗んで村の南に広がる『黒樹の森』へ入るには、これ以上ない立地だった。
(よし……今のうちに、ちょっとだけ試してみるか)
自室や庭での実験だけでは、魔物相手にどれほど通用するのかわからない。
自分の力を試してみたい――その好奇心に、どうしても抗えなかった。
俺は腰に護身用の小さなナイフを一本だけ差し、こっそりと家を抜け出して、黒樹の森へ足を踏み入れた。
狙いは、森の浅いところに棲む【ホーンラビット】だ。
額に小さな角を生やしたウサギの魔物で、戦う力はほとんどない。
子供の俺が安全に試すなら、これ以上の相手はいなかった。
気配を殺して木々の間を進むと、すぐに目当ての影が見つかった。
倒木の陰で、短い耳をぴくぴくと動かしながら、夢中で草を食んでいる。
(いた……! よし、あの距離なら――)
木陰に身を隠し、呼吸を整える。
まずは指先に小さな泡を生み出し、【プチアクア】の水滴だけを中に閉じ込めた。
(あとは【プチフレイム】を入れれば――)
種火を滑り込ませようと、意識を研ぎ澄ませた、次の瞬間だった。
――ズザザザァァァッ!!
「――っ!?」
森の奥から、草木を薙ぎ倒す猛烈な足音が迫ってきた。
ホーンラビットが一瞬で姿を消す。入れ替わるように、木々を押し割って巨大な影が躍り出た。
黒く硬い毛皮に覆われた巨体。鋭く突き出した、二本の太い牙。
俺の背丈を遥かに超える、猪の魔物――【バイソンボア】だ。
(なっ……なんでバイソンボアが、こんな浅いところに……!?)
背中に、どっと冷や汗が噴き出した。
バイソンボアは本来、森の奥深くにしか棲んでいないはずの魔物だ。
父さんの話では、駆け出しの冒険者では到底太刀打ちできず、最低でもDランクの冒険者がパーティを組んで、ようやく仕留められる相手だという。
「グオォォォンッ!!」
赤く血走った目が、木陰の俺を捉えた。
直後、荷馬車よりも大きな巨体が、牙を剥き出しにして一直線に突っ込んでくる。
(くそっ……避けろ!!)
無我夢中で、横の草むらへ身体を投げ出した。
すぐ脇を巨体が通り過ぎ、巻き起こった風圧と、削り飛ばされた土くれが全身に降りかかる。
「カハッ……!」
転がるように受け身を取り、すぐに起き上がる。
バイソンボアは勢いのまま木々にぶつかりながらも強引に反転し、再びこちらを向いて、蹄で地面を掻いていた。
巨体に似合わない俊敏さだ。走って逃げ切れる相手じゃない。
(落ち着け……! 次の突進を躱す瞬間に、叩き込む……!)
冷や汗で滲む視界の中、俺は左手の指先に泡を練り上げた。
【プチアクア】を閉じ込めた泡の中へ、種火を送り込む。
ただし、手元で爆発すれば、吹き飛ぶのは俺のほうだ。だから種火は、髪の毛ほどの薄膜でもう一枚包んでから、水の中へ沈めた。
ぶつかった衝撃で内側の膜が破れれば、その瞬間に弾ける――即席の、水蒸気爆発。
「ブモォォォッ!!」
二度目の突進。地面を震わせながら、一直線に迫ってくる。
ギリギリまで引きつけ、鼻先が目の前に迫った瞬間、俺は横へ跳んだ。
「ガアァッ――」
すれ違いざま、咆哮とともに大きく開いた口の中へ、指先の泡を弾き込む。
ぽん、と吸い込まれるように、小さなシャボン玉が赤黒い口腔へ消えた。
だが――何も起きない。
バイソンボアはそのままの勢いで、俺の数メートル先へと駆け抜けていった。
(しまっ……! 不発か……!?)
泥まみれで地面を転がりながら、俺は慌てて腰のナイフを抜いた。
こんな小さな刃で、あの毛皮が貫けるとは思えない。それでも、握らずにはいられなかった。
(まずい、また反転してくる……! 次も、なんとか避けて――)
必死に息を整え、三度目の突進に備えて身構えた――その時だった。
――――ドゴォンッ!!
「っ……!?」
数メートル先で向き直ろうとしていたバイソンボアの体内で、くぐもった重低音が炸裂した。
巨体が、ビクンと大きく跳ねる。
口と鼻から、白い蒸気と赤黒い飛沫が一気に噴き出した。
「グ……ッ……」
咆哮にもならない掠れた声を漏らし、巨体が前のめりに、どうっと倒れ込む。
太い脚がしばらく痙攣し――やがて、二度と動かなくなった。
硬い毛皮の外側ではなく、柔らかな内側から直接焼き裂かれたのだ。ひとたまりもなかったのだろう。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
泥だらけのナイフを握りしめたまま、俺は荒い息を吐いて、その場に固まっていた。
Dランクのパーティが束になって挑むような魔物が、指先ほどの泡ひとつで沈んだ。
いや、それよりも――。
(なんで、今……? 遅れて、爆発した……?)
内側の膜が、思っていたより厚かったのか。
膜が破れるまでの、ほんの一、二秒。その『間』のおかげで、爆発は俺の目の前ではなく、あいつの体の奥で起きた。
膜の厚みひとつで、弾ける時間が変わる。
その事実が、震える頭の片隅に、小さな棘のように引っかかった。
(……いや、待て! ぼさっとしてる場合じゃない!)
我に返って、慌てて周囲を見回す。
あんな巨体を、子供一人で隠せるはずがない。森の中に置いておけば、そのうち他の魔物や鳥が片付けてくれるだろう。
問題は、俺自身だった。
(早く帰らないと……! 二人が戻ってくる!)
俺はバイソンボアの死体から離れ、来た道を無我夢中で駆け戻った。
庭に着くと、森の土や葉っぱがこびりついた服に、わざと庭の泥を上から擦りつける。
『庭で派手に転んで、服を汚しただけ』――我ながら、泥臭い偽装工作だ。
自室に戻り、ようやく息を整えながら、自分の手のひらを見つめる。
まだ、小刻みに震えていた。
Dランクの魔物を、聞いていた話よりも遥かにあっけなく、一瞬で倒してしまった。
(やっぱり……この泡と初歩魔法の組み合わせは、とんでもない……!)
震えの奥から、恐怖を塗り替えるほどの熱が込み上げてくる。
使い物にならないハズレスキルだと言われた【泡生成】。
だが、使い方次第で――これは、とんでもない切り札になる。
俺は震える拳を握りしめながら、胸の奥で静かに、確かな手応えを噛みしめていた。
◇
それから、三日後の夕食時。
「そういや、今日の狩りで妙なもんを見つけてな」
父さんが、豪快にパンをちぎりながら言った。
「森の浅いとこで、バイソンボアが一頭、死んでたんだ」
――ごふっ。
俺は、口に含んだスープを、危うく吹き出しかけた。
「あらあら、リト。大丈夫?」
「げほっ……だ、大丈夫。ちょっと、熱くて……」
母さんが差し出してくれた布で口を拭いながら、俺は必死に平静を装った。
心臓が、耳の奥でうるさいくらいに鳴っている。
父さんは、気にした様子もなく続けた。
「あいつら、本当は森のずっと奥にいるはずなんだけどな。しかも、妙な死に方でよ。外には傷ひとつねぇのに、腹の中だけ、きれいに焼けてやがった」
「まあ……怖いわね」
「ああ。森で何が起きてんだか」
父さんは、スープを一口すすって――ふと、俺のほうを見た。
ほんの、一瞬。
何かを確かめるような、静かな目だった。
(……っ)
背筋が、ぴんと伸びる。
けれど、次の瞬間には、父さんはいつもの顔で、大口を開けて笑っていた。
「……ま、森にはいろんな奴がいるからな! ははっ!」
「そうね。リトも、一人で森に入っちゃだめよ」
母さんが、にこりと微笑んで――俺のお皿に、黙ってパンを一切れ、足してくれた。
「……う、うん。入らない。絶対」
こくこくと頷きながら、俺はパンにかじりついた。
味なんて、まったくわからなかった。
(……バレて、ない。……よな?)
目立ちたくない。誰にも知られたくない。
そう決めたばかりなのに、一番知られたくない相手の食卓で、いきなり話題になってしまった。
(……次からは、ちゃんと隠そう。本当に)
楽しげに笑う父さんと、穏やかに微笑む母さんの顔を、俺はまともに見ることができなかった。




