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紋を知る男


片腕の男が、立ち上がった。


杯を左手に持ったまま、人混みを縫うようにこちらへ歩いてくる。足取りはゆっくりしていたけれど、少しもふらついていなかった。酔っぱらいの歩き方ではない。床板の軋む場所を、最初から知っているような歩き方だった。


ネルの耳が、ぺたりと後ろに伏せた。椅子の脇の尻尾が、毛を逆立ててふくらんでいる。


男は、俺たちの卓の前で足を止めた。


「座ってもいいか」


低い、かすれた声だった。俺が答えるより先に、男は向かいの椅子を足で引いて、腰を下ろした。杯を卓に置く。右の袖が、椅子の背にだらりと垂れた。


「先に言っとく。取りゃしない。見せろとも言わん」


男の目が、もう一度、俺の腰に落ちた。布を巻き直したナイフの柄の上で、少しだけ止まる。


「ただ、一つだけ聞きたい。そのナイフ、どこで手に入れた」


ネルが、卓の下で俺の膝を軽く叩いた。言わなくていい、という合図だった。


俺は、少し迷った。


嘘をつくのは簡単だった。王都の古道具屋で買った、とでも言えばいい。でも、この人の目は、酒場の誰とも違っていた。何かを奪おうとする目ではなかった。ずっと昔に落としたものを、もう一度見つけた人の目だった。


「父から、もらいました」


それだけ答えた。村の名前は、言わなかった。


男は、しばらく黙っていた。


酒場のざわめきが、遠くに聞こえた。誰かが笑い、誰かが杯をぶつけ、給仕の娘が煮込みの皿を運んでいく。その中で、俺たちの卓だけが静かだった。


「……そうか」


男は、杯の中の火酒を見つめた。


「親父さんから、か」



◇


「二十年ほど前の話だ」


男は、ぽつりと話しはじめた。


「俺は、Bランクの冒険者だった。仲間が四人いた。腕っぷしには自信があったし、怖いもんなんか何もなかった。南の、もっと南。地図の端っこの森まで、珍しい素材を獲りに行った」


男の左手の指が、杯の縁をゆっくりなぞった。


「浅いところで引き返せばよかったんだ。欲が出た。奥へ、奥へと入った。……あそこの魔物は、格が違う。Bランクが五人そろってても、相手にならなかった」


ネルの耳が、少しだけ前を向いた。


「一晩で、仲間が三人死んだ。最後の一人は、俺をかばって死んだ。俺は、こいつを持っていかれた」


男は、空っぽの右の袖を、顎でしゃくった。


「血が止まらなかった。木の根元に転がって、ああ、ここで終わりだと思った。森の夜は真っ暗でな。自分の手も見えなかった」


男は、そこで一度言葉を切った。


「そこへ、誰かが来た」


俺は、膝の上で拳を握っていた。


「何人いたのかも、よくわからん。熱で頭がぼうっとしてたし、暗かった。顔も覚えてない。気がついたら、俺を食いかけてた魔物は、もう動いてなかった。暗闇の中で、誰かが俺の傷に手を当ててた」


「手を?」


ネルが、思わず口をはさんだ。


男は、ネルのほうを見て、ほんの少し目を細めた。


「ああ。焚き火も焚かずに、手探りでな。その手の下で、血が止まっていくのがわかった。……覚えてるのは、二つだけだ」


男は、左手の指を一本立てた。


「一つは、笑い声だ。やたらとでかい笑い声の男がいた。俺が死にかけてるってのに、そいつは笑ってたんだ。『運のいい奴だな、お前は』ってな。腹が立ったよ。腹が立って、それで、死ぬのを忘れた」


二本目の指が、立った。


「もう一つは、手だ。傷をふさいでた手が、ひどく静かだった。痛みで、俺はずっと叫んでた。それでも、その手は少しも震えなかった。急ぎもしなかった。……あんなに静かな手は、あとにも先にも見たことがない」


男は、立てていた指をゆっくり下ろした。


「明け方、気がついたら、森の入口に寝かされてた。傷はふさがって、布が巻いてあった。誰もいなかった。名前も聞けなかった。礼も、言えなかった」


男の目が、また俺の腰に落ちた。


「ただ、そばの木の幹に、刃で刻んだ印が一つ、残ってた。二本の線が、交わった印だ」



◇


俺は、何も言えなかった。


笑い声のでかい男。


父さんは、よく笑う。熊みたいな体を揺すって、家の壁が震えるくらいの声で笑う。俺が稽古で転んでも、魚を逃がしても、父さんはいつも笑っていた。


でも、そんな男は、世の中にいくらでもいる。


「……その人たちが、誰だったのか」


ようやく、声が出た。


「知らん」


男は、首を横に振った。


「本当に知らんのだ。あのあと何年も探した。片腕で冒険者は続けられなかったからな、時間だけはあった。でも、誰に聞いても、何もわからなかった。あの印を知ってる奴にも、何人か会った。だが、みんな口が重かった」


男は、杯の火酒をひと口だけ飲んだ。


「一つだけ、わかったことがある。その印を知ってるのは、二種類の人間だけだ。あの人たちに助けられた奴か。……あの人たちを、探してる奴か」


男の声が、少し低くなった。


「後のほうには、見せるな。坊主」


俺は、ナイフの柄に手をやった。ネルが巻いてくれた茶色い布の、ざらりとした手ざわり。


「探してる人って、どういう」


「それも知らん。ただ、俺みたいに礼を言いたくて探してる顔じゃなかった。それだけは、わかった」


ネルの尻尾が、椅子の脇でぎゅっと縮こまった。


男は、杯を置いて立ち上がった。椅子が、床の上でがたりと鳴った。


「ベルンだ」


男は、名乗った。


「今は、この宿場で馬と荷の目利きをして食ってる。片腕でも、目は利くからな」


それから、俺を見下ろした。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれていた。


「もし、そのナイフの持ち主に会ったら、伝えてくれ。あの夜の片腕は、まだ生きてる、ってな」


「……はい」


ベルンさんは、腰の革袋から銅貨を何枚かつまみ出して、卓の上に置いた。


「煮込みのおかわり代だ。坊主、さっき立ち上がりかけてたろう」


見ていたのか。


ベルンさんは、俺の返事を待たずに背を向けた。人混みの中を、来たときと同じ足取りで、酒場の扉のほうへ歩いていく。扉が開いて、春の夜の冷たい風が、ひと筋だけ吹きこんできた。


扉が閉まると、酒場のざわめきが、また元の大きさに戻った。



◇


宿の部屋は狭くて、寝台が二つ並ぶと、もう足の踏み場もなかった。


ネルは寝台の端に腰かけて、膝の上に手ぬぐいを広げていた。でも、針は動いていなかった。


「……笑い声のでかい男って」


ネルが、言いかけてやめた。


俺は、天井を見ていた。


「父さんは、よく笑う」


それだけ言った。


ネルは、少し黙ってから、また口を開いた。


「じゃあ、母さんは?」


俺は、答えなかった。


台所の、母さんの手を思いだしていた。包丁で野菜を刻む手。裏の畑で、薬草の葉を一枚ずつつまむ指先。俺が稽古で膝をすりむいて帰ると、母さんは何も言わずに傷を洗って、薬を塗って、布を巻いた。


その手は、いつも静かだった。


急がなかった。震えなかった。俺がどれだけ痛いと泣いても、母さんの手は、少しも乱れなかった。


(……そんなの、どこの母さんだって同じだ)


そう思おうとした。思おうとしたけれど、うまくいかなかった。


俺は、寝台の上で体を起こした。腰からナイフを外して、膝の上に置く。窓から差しこむ月明かりの中で、茶色い布の巻かれた柄が、ぼんやりと浮かんで見えた。


この布の下に、二本の線が交わる印がある。


見る奴が見れば、一発でわかる代物だ、とガンツさんは言った。シェイラさんも、出会ったばかりのころ、このナイフを見ていた。そして今夜、ベルンさんが。


知っているのは、助けられた人か、探している人だけ。探している人には、見せるな。


「……なあ、ネル」


「なに」


「見せるなって言うなら、どうして父さんは、これを俺に持たせたんだろう」


ネルは、針を手ぬぐいに刺したまま、しばらく考えていた。


「わかんない。……でも」


ネルは、俺の膝の上のナイフを見た。


「あんたの父さんが、なんにも考えないで渡したとは思えない。そういう顔の人なんでしょ、たぶん」


「会ったことないだろ」


「ないけど。あんたの父さんだもん」


それだけ言って、ネルはまた針を動かしはじめた。手ぬぐいの隅の、緑の葉っぱが、一枚、また一枚と増えていく。


俺は、ナイフを枕元に置いて、横になった。


目を閉じると、父さんの笑い声が聞こえた気がした。家の壁が震えるくらいの、大きな笑い声。


ルクスまでは、あと四、五日。そこから村までは、歩いて二時間ほどだ。



◇◆◇




翌朝、宿場町の通りには、薄い霧がかかっていた。


ハーゲンさんの荷馬車が、三台並んで出発を待っていた。俺は荷台の縄を一本ずつ確かめながら、通りの向こうの馬屋のほうを見た。


柵の中で、片腕の男が馬の首を撫でていた。


ベルンさんは、こちらを見なかった。ただ、商隊が動きだして、俺たちが馬屋の前を通りすぎるとき、左手を一度だけ、軽く上げた。


俺も、小さく頭を下げた。


荷馬車の車輪が、ぬかるんだ轍の上を、ゆっくりと南へ回りはじめた。




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