Dランクの護衛
二日目の夜も、野営は街道沿いの空き地だった。
鍋を片づけて焚き火のそばに戻ると、ネルが膝の上に木綿の布を広げていた。母さんへの手ぬぐいだ。針が火の明かりを受けて、ちかちかと光りながら布の上を行き来している。
「母さんって、何が好きなの」
ネルは、手を止めずに聞いてきた。
「甘いもの」
「それは聞いた。そうじゃなくて、模様とか」
俺は、少し考えた。家の裏の小さな畑。母さんがしゃがみこんで、葉っぱを一枚ずつ指でつまんでいた姿が浮かんだ。
「薬草かな。裏で育ててて、毎朝、葉っぱの様子を見てた」
「ふうん」
ネルは、糸箱から緑の糸を選んだ。手ぬぐいの隅に、針がすいすいと小さな葉の形を描いていく。葉脈まで、細い糸で一本ずつ。
「……すごいな」
「普通よ。ばあちゃんなら、もっと細かいの縫える」
そう言いながら、ネルの尻尾は満足そうに揺れていた。
◇◆◇
三日目の昼、商隊は街道沿いの宿場に寄った。
小さな市が立っていて、荷馬車の馬に食べさせる飼葉や、塩の袋が山積みになっていた。ハーゲンさんが、腰の財布から銀貨を出してネルに渡した。
「嬢ちゃん、飼葉を三束と、塩をひと袋頼めるか。銀貨二枚で足りるはずだ」
「足りるわよ」
ネルは、銀貨を握って市の人混みに消えていった。
戻ってきたのは、ハーゲンさんが煙管を一服つけ終わるより早かった。飼葉が三束と、塩がひと袋。それから、ネルはハーゲンさんの手のひらに、大銅貨を四枚ぽんと載せた。
「お釣り」
ハーゲンさんは、手のひらの大銅貨を見つめた。それから、ネルを見た。もう一度、大銅貨を見た。
「……どうやった」
「飼葉の束、端が湿ってたの。だから、湿ってるぶん引いてもらった。塩は、隣の店がもっと安いって言ったら下がった」
「隣の店、あったか?」
「ないわよ」
ハーゲンさんは、しばらく黙っていた。それから、俺の肩をばしんと叩いた。
「坊主。お前の相棒、とんでもねえな」
「知ってます」
荷馬車に飼葉を積みこんでいるとき、ネルがふと手を止めた。三台目の荷馬車の、樽を縛っている縄の一本を、じっと見ている。
「これ、ほつれてる」
御者の若い男が、面倒くさそうに振り返った。
「まだ持つよ、それ」
「持たない。この結び目の下、三つ撚りのうち一つが切れかけてる。坂で揺れたら、そこから裂けるわよ」
御者は、縄に顔を近づけた。眉を寄せて、しばらく指でいじっていた。
「……本当だ」
俺が新しい縄で結び直した。ネルは、その結び目まで一つずつ確かめていた。
その日の午後、街道は長い下り坂にさしかかった。雪解けの水で、坂の土はどろどろにぬかるんでいた。三台目の荷馬車の車輪が深い轍にはまって、荷台が大きく傾いた。
樽が、ぎしりと鳴った。
でも、縄は持った。樽は一つも落ちなかった。
坂を下りきったところで、御者の男がネルのところへやってきて、帽子を取って頭を下げた。
「嬢ちゃんの目がなきゃ、樽が三つは坂を転がってたよ」
「布でも縄でも、ほつれは見ればわかるの。そういうスキルだから」
ネルは、なんでもないことのように言った。御者は、ありがたそうにもう一度頭を下げた。
俺は、少し離れたところでそれを見ていた。ネルが、人前で自分のスキルのことを言った。布と縄の、ほつれのことだけ。それでも、ネルの声は、前よりずっと迷いがなかった。
◇
その夜の野営で、俺は焚き火のそばで、ネルの腰の袋をじっと見ていた。
焼き菓子の包みが、入っている袋だ。
旅の三日目ともなると、干し肉と豆の煮込みにも、さすがに飽きてくる。ほんのひとかけらくらいなら、と思って、俺はそっと手を伸ばした。
ぺしん、と手の甲をはたかれた。
「ほら、三日目」
ネルは、針から目を離さずに言った。
「……まだ何もしてない」
「する顔してた」
向かいでハーゲンさんが、杯を持ったまま肩を揺らして笑っていた。
◇◆◇
四日目の朝、街道は林の中へ入っていった。
両側から木々がせり出して、昼でも薄暗い道が続く。ぬかるんだ轍には、雪解けの水がところどころ溜まっていた。
先に気づいたのは、ネルの耳だった。
「……リト」
ネルの耳が、林の奥のほうへぴんと向いた。尻尾の毛が、ぶわりと逆立っている。
「来る。たくさん」
俺は、先頭の荷馬車に駆け寄った。
「ハーゲンさん、止めてください。荷馬車を寄せて」
「お、おう!」
荷馬車が三台、道の真ん中で身を寄せ合うように止まった。その直後、林の暗がりから、灰色の影が次々に飛びだしてきた。
灰色狼。六匹。
御者の若い男が、ひっと声を上げた。馬がいなないて、荷馬車がぐらりと揺れる。
「俺が前。ネルは後ろを」
「わかってる」
ネルが、紅糸を抜いた。刃の縁が、薄暗い林の中で青白く光った。
俺は、父さんのナイフを抜いた。柄に巻いた布が、手のひらにざらりと当たる。
狼たちは、荷馬車を囲むように広がっていった。先頭の一匹が、低く唸りながら前足を踏みだした。
商隊の人たちの目が、全部こっちを向いている。
泡は、見せられない。
俺は、ナイフを構えたまま、左手を腰の後ろに回した。指先に、小さな泡を一つ、二つ、三つ。轍の水たまりは、ちょうど狼たちの足もとにある。泡を、水たまりの中へそっと転がした。泡は泥水に溶けこんで、すぐに見えなくなった。
先頭の狼が、地面を蹴った。
その前足が、水たまりを踏んだ。
足が、つるりと横に流れた。狼の体が、泥の上で大きくよろけた。
そこへ、俺はナイフを振るった。
一匹。
二匹目と三匹目が、左右から同時に跳びかかってきた。右の一匹の着地する先にも、泡はもう沈めてある。狼は、泥の上で四本の足をばたつかせて、横倒しになった。左の一匹は、俺がナイフで受けて、蹴り飛ばした。
後ろで、紅糸が風を切る音がした。
振り返ると、荷馬車の陰に回りこもうとした狼が二匹、もう地面に倒れていた。ネルは紅糸を軽く振って、泥を払った。
残りの一匹は、仲間が倒れたのを見て、林の奥へ逃げていった。
静かになった。
馬が、ぶるる、と鼻を鳴らした。
「……終わった、のか?」
ハーゲンさんが、御者台の陰から顔を出した。
「終わりました。逃げた一匹も、もう戻ってこないと思います」
ハーゲンさんは、倒れた狼たちを見回した。それから、ナイフの泥を拭っている俺と、紅糸を鞘に収めたネルを、交互に見た。
「……雑用の坊主が、ちゃんと護衛してやがる」
その声は、笑っていなかった。少しだけ、しみじみとしていた。
それから、ハーゲンさんは足もとの水たまりを覗きこんで、首をひねった。
「しかし、狼まで滑るとはな。トカゲといい、こいつらといい」
俺は、黙ってナイフを鞘に戻した。
「まあ、春の道はぬかるむからなあ」
ネルが、俺の後ろで、ぶふっと変な音を立てた。振り向くと、口を両手で押さえて、肩を震わせていた。
「……なんで笑う、嬢ちゃん」
「な、なんでもない。ミリアさんの言ってたこと、思いだしただけ」
ハーゲンさんは、さらに首をひねっていた。
◇
四日目の夕方、商隊は林を抜けて、街道沿いの宿場町に着いた。
王都とルクスのちょうど中ほどにある町で、旅人相手の宿と酒場が通りの両側にずらりと並んでいた。ハーゲンさんは、狼の件のお礼だと言って、俺たちの晩ご飯をおごってくれた。
酒場の中は、旅人と荷運びの男たちでにぎわっていた。煮込みの湯気と、火酒の匂いと、笑い声。
俺たちは、窓際の席で、熱い煮込みをすすった。干し肉と豆ではない、ちゃんとした肉の煮込みだった。
「……おいしい」
ネルが、しみじみと言った。尻尾が、椅子の脇でぱたんぱたんと揺れていた。
俺も、二杯目をおかわりしようと、立ち上がりかけた。
そのとき、ネルが小さく俺の袖を引いた。
「リト。ナイフ」
腰に目を落とした。
父さんのナイフの、柄に巻いた布。狼と戦ったときに擦れたのか、端がほどけて、ずれていた。布の隙間から、刻印がのぞいていた。
二本の線が、交わる紋。
俺は、急いで布を巻き直した。
顔を上げたとき、気がついた。
酒場の奥の、灯りの届かない隅の席。一人の男が、こちらを見ていた。日に焼けた、白髪まじりの男だった。右の袖が、肩の下から、だらりと垂れている。
片腕の男は、杯を持ち上げたまま、止まっていた。
酒場のざわめきの中で、その男だけが、動いていなかった。
男の目は、俺の顔ではなく、俺の腰の、父さんのナイフをじっと見つめていた。




