雪解けの出立
軒先のつららが、いつのまにか一本もなくなっていた。
眠り羊亭の窓を開けると、通りの石畳が朝日に濡れて光っていた。屋根から落ちた雪の塊が溝の中で小さな川になって、坂の下へ流れていく。
雪解けまでのひと月、俺たちはDランクの依頼をこなして過ごした。ランクが一つ上がると、受けられる依頼の幅がぐっと広がる。街道に出る狼の群れの退治や、畑を荒らす大猪の駆除。前は掲示板の端から眺めるだけだった魔物退治の依頼が、ちゃんと俺たちの手の届くところに貼ってあった。
報酬も、前とはまるで違った。宿代を数えながら晩ご飯を食べる日は、もうなくなっていた。
「…決まらない」
その朝、ネルは寝台の上に買ってきた品を並べて唸っていた。
火酒の小瓶。蜂蜜の壺。上等な木綿の布。王都の焼き菓子の包み。
「全部持っていけばいいだろ」
「全部持ってったら、気合い入れすぎって思われるでしょ」
「思わないよ」
「思うの!」
ネルは、蜂蜜の壺を持ち上げては置き、火酒の瓶を持ち上げては置いた。寝台の上で、尻尾がせわしなく右へ左へ揺れている。
「別に、あんたの親のためじゃないし。仲間を連れていくって書いたんでしょ。手ぶらで行ったら、あたしの格好がつかないだけよ」
「父さんは酒が好きだよ。母さんは甘いもの」
「……じゃあ、火酒と蜂蜜。布は、母さんに手ぬぐいを縫う。道中の夜に」
「焼き菓子は?」
ネルは、じろりと俺を見た。
「あんた、三日目の野営で絶対手を出すでしょ。だから、これは道中のぶん」
俺は反論しなかった。たぶん、ネルの言うとおりだったから。
◇
ギルドのホールは、春の依頼を探す冒険者でいつもよりにぎやかだった。
受付で旅の届けを出すと、ミリアさんは書類の行き先の欄を見て、ぱっと顔を明るくした。
「コルー村。南の果ての、リトさんのご実家ですね」
「はい。ひと月か、もう少しかかるかもしれません」
「いいですね、春の帰省」
ミリアさんは、にこにこしながら判を押した。それから、手元の束から依頼書を一枚抜き出した。
「それなら、ちょうどいいのがあります。南行きの商隊の護衛です。行き先は交易町ルクスまで。荷馬車三台の小さな商いなので、Dランクのお二人なら受けられますよ」
依頼主の欄には、ルクスの商人の名前が書いてあった。
ハーゲン商会。聞き覚えのない名前だった。
「受けます」
「はい、承りました」
依頼書に判が押される。ミリアさんは、それをこちらへ差し出しながら、少しだけ声を落とした。
「春の森は、足もとがゆるいですからね」
ネルが、くすっと笑った。
「ミリアさん、冬は『雪で滑る』って言ってなかった?」
「季節ごとに、ちゃんと言うことがあるんです」
ミリアさんは、胸を張った。それから、いつもの冬至の夜と同じ顔で言った。
「無事に、帰ってきてくださいね。お二人とも」
◇
その足で、下層区の坂の途中にあるガンツさんの工房へ寄った。
ガンツさんは、俺たちが来るのを知っていたみたいだった。金床の横の台の上に、布でくるんだ包みが一つ、置いてあった。手のひらほどの大きさで、持ってみると見た目よりずっと重い。
「親父さんに、渡せ」
「中身は、なんですか」
「開けりゃわかる。お前は開けるな」
それだけ言って、ガンツさんは椅子に腰を下ろした。
「それと、星鉄の見分け方だ。掘ったままの星鉄は、ただの黒い石くれにしか見えん。だが、暗いところで見ろ。縁が、青白く光る」
ネルが、腰の紅糸に手をやった。刃の縁に、いつもうっすらと宿っている光だ。
「紅糸と、同じ光?」
「同じだ。それと、どれだけ日に当てても、ぬくまらん。手に握っても、冷たいままだ。それが星鉄だ」
俺は、頭の中でその言葉を繰り返した。黒い石。青白い縁。ぬくまらない。
ネルが、ガンツさんの顔をじっと覗きこんだ。
「ねえ、親方。今日は言わないの?」
「何をだ」
「いつものやつ」
ガンツさんは、ひげの奥でむっと口を結んだ。それから、炉のほうへ顔をそむけた。
「……行け」
ネルは、また吹きだした。
工房を出るとき、俺は包みを背負い袋のいちばん奥にしまった。上着の内側の、父さんのナイフの鞘が、いつもより少しだけ重く感じた。
◇◆◇
次の朝、南門の前には、春の霧がうっすらとかかっていた。
「おーい、ハズレコンビ!」
霧の向こうから、聞き慣れた声が飛んできた。ルカだった。後ろに、妹と、チビたちが四人。みんな、まだ冬の外套を着ぶくれさせている。
「見送りに来てやったぜ」
「頼んでないけど」
「頼まれなくても来るんだよ、こういうのは」
ルカは、欠けた前歯を見せて笑った。妹が、その後ろからおずおずと前に出てきた。ネルの前に立って、外套の袖口を両手で差し出す。
ネルは、しゃがんで袖口を見た。
継ぎ当ての端の、最後の玉止め。小さな結び目が、針を一回余分にくぐらせて、きゅっと締まっていた。
「……合格」
妹の顔が、ぱあっと明るくなった。ネルの尻尾が、ふわりと揺れた。
「次は、ボタン付けね。帰ってきたら教えてあげる」
「土産話も、待ってるからな」
ルカが、横から口を出した。
「うまいもんの話な。南の果てなんて、俺、行ったことねえし」
「わかった。うまいもんの話な」
俺がうなずくと、ルカは鼻の下をこすって、ちょっと横を向いた。
門の外の街道に、荷馬車が三台並んでいた。荷台には樽と木箱がぎっしり積まれ、幌が朝露に濡れている。先頭の御者台から、恰幅のいい男がのっそりと降りてきた。
その顔を見て、俺は思わず立ち止まった。
「……あ」
男のほうも、俺の顔を見て、太い眉を持ち上げた。
「おい。お前、あのときの坊主じゃねえか」
ルクスの町から王都まで、俺を雑用係に雇ってくれた商隊長だった。熊が出た街道を、俺が初めて越えたときの。
「雑用で雇った坊主が、Dランクの護衛で戻ってくるとはな!」
ハーゲンさんは、腹を揺すって笑った。笑い声が霧の中に響いて、チビたちがびくっと肩をすくめた。
「覚えてるぜ。皿洗いも荷運びも文句ひとつ言わねえで、よく働く坊主だった。それに、あのトカゲだ」
「トカゲ?」
ネルが首をかしげた。
「ロックリザードよ。坂の途中で、いきなりすっ転びやがった。あのでかいのが、何もねえところでだぞ。今でも、なんで転んだんだかわからねえ」
ネルの耳が、ぴくりと動いた。俺のほうをちらりと見る。俺は、黙って空を見ていた。
「……運の悪いトカゲだったのね」
ネルは、真面目な顔でそう言った。
◇
王都の白い城壁が、だんだん小さくなっていく。
荷馬車の車輪が、ぬかるんだ街道に二本の轍を刻んでいった。道の両側の畑には、まだところどころ雪が残っている。それでも、雪の切れ目からは、もう緑の芽がのぞいていた。
この道を、前は逆の向きに歩いた。
あのときは、商隊の最後尾で、樽を押して、鍋を洗って、知らない人の背中ばかり見ていた。王都に着いたら何があるのかもわからなかった。わかっていたのは、自分の秘密を誰にも見せてはいけない、ということだけだった。
今は、隣にネルがいる。
ネルは、荷馬車の横を歩きながら、ときどき道ばたの若草をつま先でつついていた。焼き菓子の包みが入った袋を、大事そうに腰に提げている。
「なに見てんのよ」
「いや。前に来たときは、一人だったなって」
ネルは、ちょっとだけ黙った。
「……今は、二人でしょ」
それから、ぷいと前を向いた。尻尾の先が、ゆっくりと揺れていた。
◇
最初の野営は、街道沿いの林の手前だった。
荷馬車を三台、輪のように並べて、その内側で火を焚く。鍋に干し肉と豆を放りこむのは、俺の役目だった。昔、雑用係だったころと同じ手つきで鍋をかき回していると、ハーゲンさんがまた笑った。
「護衛になっても、鍋は坊主の仕事か」
「慣れてますから」
「違えねえ」
ハーゲンさんは、火酒の小さな杯をあおった。それから、ふっと笑いを引っこめた。
「坊主。南の果ての村って言ってたな。コルー村か」
「はい」
「ルクスで、ちょっと妙な話を聞いた」
火の粉が、ぱちりと跳ねた。
「黒樹の森の奥の魔物がな、浅いとこまで出てくるんだと。冬のあいだに、何べんもだ。コルー村のあたりだって話だ」
鍋をかき回す手が、止まった。
黒樹の森の奥。ガンツさんが、俺たちがDランクになるまで話さなかった場所だ。魔物の格が、浅いところとはまるで違う。
「村は、無事なんですか」
「ああ、それは無事らしい」
ハーゲンさんは、杯の底を見つめた。
「村の狩人が一人で追い返したんだと。奥の、でかいのをな。……まあ、眉唾だがな。田舎の噂ってのは、尾ひれがつくもんだ」
俺は、何も言えなかった。
村の狩人。コルー村の、一番外れの家の。
父さんは、狩人だ。それは、本当のことだ。
ネルが、焚き火の向こうから俺を見ていた。耳が、まっすぐこちらを向いていた。
「……リト」
「大丈夫」
俺は、鍋をまたかき回しはじめた。豆が、ことことと煮えている。
「父さんは、狩人だから」
言いながら、自分でも、それが何の答えにもなっていないことはわかっていた。
焚き火の煙が、夜空へまっすぐのぼっていく。その先の、南の空の低いところで、星が一つ、静かに瞬いていた。




