↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

69/100

雪解けの出立


軒先のつららが、いつのまにか一本もなくなっていた。


眠り羊亭の窓を開けると、通りの石畳が朝日に濡れて光っていた。屋根から落ちた雪の塊が溝の中で小さな川になって、坂の下へ流れていく。


雪解けまでのひと月、俺たちはDランクの依頼をこなして過ごした。ランクが一つ上がると、受けられる依頼の幅がぐっと広がる。街道に出る狼の群れの退治や、畑を荒らす大猪の駆除。前は掲示板の端から眺めるだけだった魔物退治の依頼が、ちゃんと俺たちの手の届くところに貼ってあった。


報酬も、前とはまるで違った。宿代を数えながら晩ご飯を食べる日は、もうなくなっていた。


「…決まらない」


その朝、ネルは寝台の上に買ってきた品を並べて唸っていた。


火酒の小瓶。蜂蜜の壺。上等な木綿の布。王都の焼き菓子の包み。


「全部持っていけばいいだろ」


「全部持ってったら、気合い入れすぎって思われるでしょ」


「思わないよ」


「思うの!」


ネルは、蜂蜜の壺を持ち上げては置き、火酒の瓶を持ち上げては置いた。寝台の上で、尻尾がせわしなく右へ左へ揺れている。


「別に、あんたの親のためじゃないし。仲間を連れていくって書いたんでしょ。手ぶらで行ったら、あたしの格好がつかないだけよ」


「父さんは酒が好きだよ。母さんは甘いもの」


「……じゃあ、火酒と蜂蜜。布は、母さんに手ぬぐいを縫う。道中の夜に」


「焼き菓子は?」


ネルは、じろりと俺を見た。


「あんた、三日目の野営で絶対手を出すでしょ。だから、これは道中のぶん」


俺は反論しなかった。たぶん、ネルの言うとおりだったから。



◇


ギルドのホールは、春の依頼を探す冒険者でいつもよりにぎやかだった。


受付で旅の届けを出すと、ミリアさんは書類の行き先の欄を見て、ぱっと顔を明るくした。


「コルー村。南の果ての、リトさんのご実家ですね」


「はい。ひと月か、もう少しかかるかもしれません」


「いいですね、春の帰省」


ミリアさんは、にこにこしながら判を押した。それから、手元の束から依頼書を一枚抜き出した。


「それなら、ちょうどいいのがあります。南行きの商隊の護衛です。行き先は交易町ルクスまで。荷馬車三台の小さな商いなので、Dランクのお二人なら受けられますよ」


依頼主の欄には、ルクスの商人の名前が書いてあった。


ハーゲン商会。聞き覚えのない名前だった。


「受けます」


「はい、承りました」


依頼書に判が押される。ミリアさんは、それをこちらへ差し出しながら、少しだけ声を落とした。


「春の森は、足もとがゆるいですからね」


ネルが、くすっと笑った。


「ミリアさん、冬は『雪で滑る』って言ってなかった?」


「季節ごとに、ちゃんと言うことがあるんです」


ミリアさんは、胸を張った。それから、いつもの冬至の夜と同じ顔で言った。


「無事に、帰ってきてくださいね。お二人とも」



◇


その足で、下層区の坂の途中にあるガンツさんの工房へ寄った。


ガンツさんは、俺たちが来るのを知っていたみたいだった。金床の横の台の上に、布でくるんだ包みが一つ、置いてあった。手のひらほどの大きさで、持ってみると見た目よりずっと重い。


「親父さんに、渡せ」


「中身は、なんですか」


「開けりゃわかる。お前は開けるな」


それだけ言って、ガンツさんは椅子に腰を下ろした。


「それと、星鉄の見分け方だ。掘ったままの星鉄は、ただの黒い石くれにしか見えん。だが、暗いところで見ろ。縁が、青白く光る」


ネルが、腰の紅糸に手をやった。刃の縁に、いつもうっすらと宿っている光だ。


「紅糸と、同じ光?」


「同じだ。それと、どれだけ日に当てても、ぬくまらん。手に握っても、冷たいままだ。それが星鉄だ」


俺は、頭の中でその言葉を繰り返した。黒い石。青白い縁。ぬくまらない。


ネルが、ガンツさんの顔をじっと覗きこんだ。


「ねえ、親方。今日は言わないの?」


「何をだ」


「いつものやつ」


ガンツさんは、ひげの奥でむっと口を結んだ。それから、炉のほうへ顔をそむけた。


「……行け」


ネルは、また吹きだした。


工房を出るとき、俺は包みを背負い袋のいちばん奥にしまった。上着の内側の、父さんのナイフの鞘が、いつもより少しだけ重く感じた。



◇◆◇




次の朝、南門の前には、春の霧がうっすらとかかっていた。


「おーい、ハズレコンビ!」


霧の向こうから、聞き慣れた声が飛んできた。ルカだった。後ろに、妹と、チビたちが四人。みんな、まだ冬の外套を着ぶくれさせている。


「見送りに来てやったぜ」


「頼んでないけど」


「頼まれなくても来るんだよ、こういうのは」


ルカは、欠けた前歯を見せて笑った。妹が、その後ろからおずおずと前に出てきた。ネルの前に立って、外套の袖口を両手で差し出す。


ネルは、しゃがんで袖口を見た。


継ぎ当ての端の、最後の玉止め。小さな結び目が、針を一回余分にくぐらせて、きゅっと締まっていた。


「……合格」


妹の顔が、ぱあっと明るくなった。ネルの尻尾が、ふわりと揺れた。


「次は、ボタン付けね。帰ってきたら教えてあげる」


「土産話も、待ってるからな」


ルカが、横から口を出した。


「うまいもんの話な。南の果てなんて、俺、行ったことねえし」


「わかった。うまいもんの話な」


俺がうなずくと、ルカは鼻の下をこすって、ちょっと横を向いた。


門の外の街道に、荷馬車が三台並んでいた。荷台には樽と木箱がぎっしり積まれ、幌が朝露に濡れている。先頭の御者台から、恰幅のいい男がのっそりと降りてきた。


その顔を見て、俺は思わず立ち止まった。


「……あ」


男のほうも、俺の顔を見て、太い眉を持ち上げた。


「おい。お前、あのときの坊主じゃねえか」


ルクスの町から王都まで、俺を雑用係に雇ってくれた商隊長だった。熊が出た街道を、俺が初めて越えたときの。


「雑用で雇った坊主が、Dランクの護衛で戻ってくるとはな!」


ハーゲンさんは、腹を揺すって笑った。笑い声が霧の中に響いて、チビたちがびくっと肩をすくめた。


「覚えてるぜ。皿洗いも荷運びも文句ひとつ言わねえで、よく働く坊主だった。それに、あのトカゲだ」


「トカゲ?」


ネルが首をかしげた。


「ロックリザードよ。坂の途中で、いきなりすっ転びやがった。あのでかいのが、何もねえところでだぞ。今でも、なんで転んだんだかわからねえ」


ネルの耳が、ぴくりと動いた。俺のほうをちらりと見る。俺は、黙って空を見ていた。


「……運の悪いトカゲだったのね」


ネルは、真面目な顔でそう言った。



◇


王都の白い城壁が、だんだん小さくなっていく。


荷馬車の車輪が、ぬかるんだ街道に二本の轍を刻んでいった。道の両側の畑には、まだところどころ雪が残っている。それでも、雪の切れ目からは、もう緑の芽がのぞいていた。


この道を、前は逆の向きに歩いた。


あのときは、商隊の最後尾で、樽を押して、鍋を洗って、知らない人の背中ばかり見ていた。王都に着いたら何があるのかもわからなかった。わかっていたのは、自分の秘密を誰にも見せてはいけない、ということだけだった。


今は、隣にネルがいる。


ネルは、荷馬車の横を歩きながら、ときどき道ばたの若草をつま先でつついていた。焼き菓子の包みが入った袋を、大事そうに腰に提げている。


「なに見てんのよ」


「いや。前に来たときは、一人だったなって」


ネルは、ちょっとだけ黙った。


「……今は、二人でしょ」


それから、ぷいと前を向いた。尻尾の先が、ゆっくりと揺れていた。



◇


最初の野営は、街道沿いの林の手前だった。


荷馬車を三台、輪のように並べて、その内側で火を焚く。鍋に干し肉と豆を放りこむのは、俺の役目だった。昔、雑用係だったころと同じ手つきで鍋をかき回していると、ハーゲンさんがまた笑った。


「護衛になっても、鍋は坊主の仕事か」


「慣れてますから」


「違えねえ」


ハーゲンさんは、火酒の小さな杯をあおった。それから、ふっと笑いを引っこめた。


「坊主。南の果ての村って言ってたな。コルー村か」


「はい」


「ルクスで、ちょっと妙な話を聞いた」


火の粉が、ぱちりと跳ねた。


「黒樹の森の奥の魔物がな、浅いとこまで出てくるんだと。冬のあいだに、何べんもだ。コルー村のあたりだって話だ」


鍋をかき回す手が、止まった。


黒樹の森の奥。ガンツさんが、俺たちがDランクになるまで話さなかった場所だ。魔物の格が、浅いところとはまるで違う。


「村は、無事なんですか」


「ああ、それは無事らしい」


ハーゲンさんは、杯の底を見つめた。


「村の狩人が一人で追い返したんだと。奥の、でかいのをな。……まあ、眉唾だがな。田舎の噂ってのは、尾ひれがつくもんだ」


俺は、何も言えなかった。


村の狩人。コルー村の、一番外れの家の。


父さんは、狩人だ。それは、本当のことだ。


ネルが、焚き火の向こうから俺を見ていた。耳が、まっすぐこちらを向いていた。


「……リト」


「大丈夫」


俺は、鍋をまたかき回しはじめた。豆が、ことことと煮えている。


「父さんは、狩人だから」


言いながら、自分でも、それが何の答えにもなっていないことはわかっていた。


焚き火の煙が、夜空へまっすぐのぼっていく。その先の、南の空の低いところで、星が一つ、静かに瞬いていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。