春を待つ灯
「秋の討伐祭の、最後の日だよ」
ルカは、石段の上で声をひそめた。
「城のバルコニーに、王さまの家族が並んで手を振るだろ。俺、毎年あれを屋根の上から見てんだ。下は人だらけで、財布を……いや、なんでもねえ」
ネルが、じろりとルカを見た。ルカは目をそらして、鼻の下をこすった。
「いちばん端に、ちっこいのがいた。蜂蜜色の髪の、若葉みたいな目の。あれだ」
ネルの尻尾は、まだ止まったままだった。
俺は、ゆっくり息を吐いた。ルカの【顔覚え】は、本物だ。一度見た顔は忘れない。冬至の夜に灰色の外套の男を数えてみせたのも、この目だった。
「ルカ」
「おう」
「そのこと、誰にも言わないでほしい」
俺は、腰の革袋に手をかけた。今日もらったばかりの銀貨が入っている。
ルカは、その手を見た。それから、首を横に振った。
「いらねえよ」
「でも」
「金で黙るやつはな、もっと金を出されたらしゃべるんだ。俺は、そういうのはやらねえ」
ルカは、欠けた前歯を見せて笑った。
「それに、あの嬢ちゃん。バルコニーじゃ、ちっとも笑ってなかったぜ。南門のときのほうが、ずっといい顔してた」
ネルの尻尾が、ふっとほどけた。
「……あんた、よく見てるのね」
「顔を見るのが、俺の商売だからな」
ルカは、得意げに胸を張った。継ぎはぎの外套の胸の、いちばん大きな継ぎ当てが、ぴんと伸びた。
「じゃあ、金の代わりに」
俺は、革袋から手を離した。
「今夜、お祝いをするんだ。眠り羊亭で。妹さんと、チビたちも連れて来てくれ」
ルカは、ぽかんと口を開けた。
「……チビ、四人いるぜ」
「いいよ」
「よくないわよ」
ネルが、すかさず言った。俺が振り向くと、ネルはそっぽを向いていた。
「……四人なら、煮込みは大鍋で頼まないと足りないって意味よ」
◇
眠り羊亭の食堂は、その夜だけいつもより狭く見えた。
いちばん奥の長テーブルに、ルカと妹と、チビたちが四人。みんな、継ぎはぎの外套の上から、首まで毛布を巻いたみたいな着ぶくれだった。椅子の上に膝で立って、厨房から流れてくる匂いに鼻をひくひくさせている。
女将さんが、大鍋の煮込みをどんと置いた。
根菜と豚の脂身を、とろとろになるまで煮たやつだ。白いパンが山盛り。小さな壺に、蜂蜜まで添えてある。
「蜂蜜は、頼んでないけど」
「冬に子どもが六人も来たら、つけるもんなんだよ」
女将さんは、それだけ言って厨房へ戻っていった。
チビたちが、いっせいにパンに手を伸ばした。ルカが「一人二個までだ!」と叫んだけど、誰も聞いていなかった。
妹は、ルカの隣で小さくなっていた。
冬至の夜に、灯籠に火を灯してやった子だ。外套の袖口の継ぎ当てが、あのときと同じように、ていねいに縫ってあった。
ネルが、その袖口をじっと見ていた。
「ねえ。それ、誰が縫ったの」
妹は、ルカの顔を見た。
「……俺だよ」
ルカが、ぼそっと言った。
「針、見よう見まねで。下手だろ」
「下手じゃないわよ」
ネルは、妹の袖口をそっとつまんだ。
「目がそろってる。糸の引き方も、ちゃんと同じ強さ。ほどけないように、何回も往復してるでしょ」
ルカの耳が、赤くなった。
「でも、ここ。最後の玉止めが甘いの。あと一回、針をくぐらせるだけでいいのよ」
ネルは、腰の小物入れから針と糸を出した。ばあちゃんの仕立て屋の、古い針箱から持ってきたやつだ。
「教えてあげる。銅貨一枚で」
「金、取んのかよ!」
「冗談よ。お祝いだもの」
ネルは、妹の手を取って、針の持ち方から教えはじめた。妹は、目を丸くしてネルの指先を見ていた。ルカは、パンをかじりながら、横目でずっとそれを見ていた。
煮込みの鍋は、あっという間に空になった。
チビたちが蜂蜜の壺の底を指でぬぐいはじめたころ、ネルが席を立った。帳場で、女将さんに勘定を聞いている。
「銀貨一枚と、大銅貨二枚だね」
ネルは、黙って銀貨と大銅貨を出した。
女将さんが、少しだけ眉を上げた。
「値切らないのかい」
「今日は、いいの」
ネルは、ちょっとだけ胸を張った。
「あたしが稼いだお金で、ちゃんと払いたいの」
女将さんは、ふうん、と鼻を鳴らした。それから、帳場の引き出しから封筒を一通出して、ネルに渡した。
「そうだ。あんたたちが街道に出てるあいだに、届いてたよ。北の湖の街からだ」
ネルの耳が、ぴんと立った。
封筒の裏に、少し震えた大きな字で、名前が書いてあった。マーサ。
ネルは、その場で封を切った。俺も、肩越しに覗きこんだ。
『青い襟巻き、ありがとうね。毎朝、粥を炊くときに巻いてるよ。あったかくて、台所に立つのが楽しみになった。前掛けとおそろいの色だって、常連さんに自慢してるんだ。春になったら、また顔を見せておくれ。足湯、熱くして待ってるよ』
ネルは、手紙を二回読んだ。
三回目に読みはじめたとき、ネルの尻尾が、ふわっとふくらんだ。毛が一本残らず空気を含んで、いつもの倍くらいになった。
「……ネル」
「なによ」
「尻尾」
「うっさい」
ネルは、手紙を胸に抱えたまま、テーブルに戻っていった。テーブルの向こうで、ルカの妹がその尻尾を、目を輝かせて見ていた。
◇◆◇
次の日の昼すぎ、下層区の坂の途中にあるガンツさんの工房を訪ねた。
炉の熱で、工房の中だけは冬を忘れたみたいに暖かい。ガンツさんは、金床の前で鉄を叩いていた。俺たちに気づいても、手を止めなかった。
「Dに、なりました」
俺が言うと、ガンツさんは鎚を振りおろした。かあん、と澄んだ音が響いた。
「そうか」
もう一度、かあん。
「……足りんな」
ネルが、ぷっと吹きだした。
「なんで笑う」
「親方、ほんとにそれしか言わないんだもの」
ガンツさんは、鼻を鳴らした。それから、鎚を置いて、炉の火を少し落とした。
「Dなら、話してもいい。星鉄の、もう一か所の話だ」
俺とネルは、顔を見合わせた。
ガンツさんは、工房の奥の鍵つきの棚に目をやった。ボルグさんが打てる塊にしてくれた、鶏の卵ほどの星鉄が、そこにしまってある。紅糸の二本目には、まだまだ足りない。
「昔から、言い伝えがある。南の果ての空に、星が一つ落ちた。落ちた場所は森になって、森の木は燃えたように黒くなった」
ガンツさんは、ゆっくりと言った。
「黒樹の森だ。その、ずっと奥」
俺は、しばらく何も言えなかった。
黒樹の森。村の一番外れの、うちの裏から広がる森。十歳の夏にバイソンボアと出くわして、五年間、両親の目を盗んで泡を鍛えた森だ。
「……俺の村の、裏です」
ガンツさんは、驚かなかった。
ただ、ひげの奥で、ほんの少しだけ口を引き結んだ。それから、俺の腰の、布を巻いた父さんのナイフに目を落とした。
「知っとる」
「え」
「だから、今まで言わなかった」
それ以上は、何も言わなかった。
前にも、こんなことがあった。父さんのナイフの刻印を見たとき、ガンツさんは「本人に聞け」と言った。シェイラさんも、同じことを言った。
ネルが、俺の袖を引いた。
「親方。ばあちゃんの鋏の鉱石も、そこから来たの?」
「わからん。お前のばあさんがどこから持ちこんだかは、儂も知らん」
ガンツさんは、炉の火を見つめた。
「だがな。星鉄が出る場所なんぞ、この国に何か所もありはせん」
ネルの尻尾が、ゆっくりと揺れた。考えごとをしているときの揺れ方だった。
「森の奥は、黒樹の森でもいちばん深いとこだ。魔物の格が、浅いとことはまるで違う。Eの小僧どもには、行かせられなかった」
ガンツさんは、鎚を拾いあげた。
「それと、春まで待て。雪解けの前の森は、足を取られる」
「春に、行きます」
俺が言うと、ガンツさんはもう鉄に向き直っていた。
かあん、と鎚の音がした。
「親父さんに、よろしく言っとけ」
それが、工房を出る俺たちの背中に聞こえた最後の言葉だった。
◇
その夜、眠り羊亭の部屋で、俺は手紙を書いた。
宛先は、コルー村。父さんと母さんへ。
王都に来てから、手紙を書くのは三回目だった。一回目は冒険者になったこと。二回目は、仲間ができたこと。どっちも、ほとんど何も書けなかった。書けないことのほうが、ずっと多かったから。
今度も、同じだった。
湖の街のことも、霧の渡しのことも書けない。割り符のことも、書けない。
『Dランクになりました。地味だけど確実だと、試験官の人に言われました』
それは、本当のことだった。
『春になったら、一度帰ります。仲間を一人、連れていきます。狐の獣人で、繕い物がすごく上手で、値切るのはもっと上手です』
少し考えてから、一行足した。
『父さんの薪割り、また教えてください』
ハンナさんの声を、思い出していた。良い、薪割りだったのでしょうね。
扉が、こつんと鳴った。
「起きてる?」
ネルだった。マーサさんの手紙を、まだ大事そうに持っていた。
「手紙?」
「父さんと母さんに。春に帰るって」
ネルは、肩越しに手紙を覗きこんだ。それから、むっとした顔になった。
「値切るのはもっと上手って、なによ」
「本当のことだろ」
「本当のことでも、書き方ってものがあるでしょ」
ネルは、手紙の端を指でとんとんと叩いた。
「……あたしも、ついていっていいのよね。あんたの村」
「仲間を一人って、書いた」
「見ればわかるわよ」
ネルは、ぷいと横を向いた。耳の先が、ほんのり赤かった。
「あんたの父さんと母さん、どんな人?」
俺は、少し考えた。
「父さんは、笑い声がでかい。母さんは、怒ると静かになる」
「ふうん」
「それから、たぶん。二人とも、何か隠してる」
ネルは、何も言わなかった。
窓の外で、軒先のつららから、ぽたりと雫が落ちた。
ぽたり。また、ぽたり。
ついこのあいだまで、つららは夜のあいだ一滴も落ちなかった。冬が、少しずつ終わろうとしているのだと思った。
リーフェンの春告げの樹にも、小さな芽がついていた。あの芽も、もう少しふくらんでいるだろうか。
俺は、上着の内側に手を当てた。
父さんのナイフの鞘と、半分だけの割り符。二つとも、ちゃんとそこにあった。
「ねえ、リト」
「うん」
「春、楽しみね」
ネルが、小さく笑った。
俺は、手紙に封をした。
雪の下で、春を待っているものがある。俺たちも、たぶん、その一つだった。




