地味だが、確実
王都に戻った次の朝、ギルドのホールはいつもより騒がしかった。
扉を開けたとたん、熱気と人の声がぶつかってくる。暖炉の前も掲示板の前も人だかりで、誰もが同じ名前を口にしていた。
「剣聖様が、北の峠でワイバーンを落としたってよ」
「Bランクの討伐に特例でついていって、とどめを刺したらしいぜ」
「それで、もうCだと。Dになったのは冬の頭だろ?」
ネルが、俺の袖を引いた。
「レオンのことよね」
「たぶん」
俺たちが十日近く街道を歩いているあいだに、王都では剣聖様の噂がひとまわり大きくなっていたらしい。中層区の坂の途中でも、焼き栗売りが「剣聖様も食べた焼き栗だよ」と声を張りあげていた。本当かどうかは知らない。
受付に行くと、ミリアさんが帳面から顔を上げた。
「お帰りなさい、リトさん、ネルさん」
いつものにこにこ顔だった。でも、ほんの少しだけ目のふちが赤い気がした。
「ご無事で、よかったです」
ミリアさんは帳面に何か書きつけた。帰ってきた冒険者の名前を、ひとつずつていねいに記していく手つきだった。
「ギルドマスターと試験官の方が、二階でお待ちです」
階段を上がる途中で、ネルが小声で言った。
「ねえ、リト。あたし、まだ夢に見るのよ。干し肉」
「まだ言ってるのか」
「だって王女さまよ? あたしが押しつけたの、いちばん硬いやつだったのよ?」
「おいしかったって言ってただろ」
「そういう問題じゃないの」
俺は笑いながら、上着の上から胸のあたりにそっと手を当てた。物入れの中で、小さな銀の円盤が指先に触れた。ちゃんと、ある。
◇
執務室は、前に来たときと同じく書類の山だった。
窓辺の椅子にヴァルトが座っていた。灰色の外套のまま、膝の上で焼き栗の殻をむいている。机の向こうでは、ギルドマスターが岩みたいな腕を組んでいた。
「座れ」
俺たちが座ると、ギルドマスターはヴァルトに顎をしゃくった。
「聞かせてもらおうか」
ヴァルトは栗をひとつ口に入れて、ゆっくり噛んでから話しはじめた。声に抑揚はなかった。帳面を読みあげるみたいに、見たことだけを順番に並べていく。
ぬかるみの坂で、車輪が抜けたこと。宿場町で、護衛対象の外套が繕われたこと。帰りの渡しで、霧の朝に綱が切られたこと。舟が北岸の砂州に流れ着き、そこに五人が待っていたこと。侍女が剣を抜き、三人を相手にしたこと。
「俺は南岸にいた。霧で、舟の上は見えなかった」
ヴァルトは、そこで一度言葉を切った。
「昼前に渡ると、五人とも縛られていた。護衛対象に傷はない。荷も無事だ」
「五人を、こいつらがやったのか」
「縛ったのは、こいつらと侍女だ。誰が何をしたかは、見ていない」
ヴァルトは、新しい栗をつまんだ。
「ただ、気になったことが二つある」
俺は膝の上で手を握った。
「頭目の弓の弦が切れていた。刃物の跡じゃなかった。それと、頭目の膝から下が霜焼けで赤く腫れていた」
ヴァルトは、栗の殻を指で割った。
「春の川で、だ」
執務室が、しんとした。
ギルドマスターの目が、ゆっくり俺のほうを向いた。登録の日に種火を見ていたのと、同じ目だった。
何か言わなきゃいけない。そう思って口を開きかけたとき、隣でネルが先に言った。
「春の川だからって、油断したんでしょ」
ネルは、ふんと鼻を鳴らした。
「霧の朝の川って、すごく冷たいのよ。あいつら、膝まで浸かってずっと弓を構えてたんだから。霜焼けにもなるわよ。弦だって、濡れたまま引きっぱなしにしてたら切れるわ」
「詳しいな」
「仕立て屋の孫だもの。糸のことなら、わかるの」
ヴァルトは、ネルを見た。それから、俺を見た。
灰色の目は、何も言っていなかった。焚き火の夜も霧の朝も、ずっとこの目だった。
「見えたものは、書く」
ヴァルトは懐から折りたたんだ紙を出して、机に置いた。癖のない細い字が、びっしりと並んでいた。
「見えなかったものは、書かん」
ギルドマスターが紙を手に取った。しばらく黙って読んで、最後の一行で目を止めた。
「地味だが、確実」
声に出して読んでから、ギルドマスターは紙を机に戻した。
「合格だ。今日から、お前たちはDランクだ」
ネルの尻尾が、ばさっと椅子の背を叩いた。
「それと、報酬だ」
ギルドマスターは、引き出しから革袋を二つ出した。
「往復の護衛で、一人銀貨十二枚。それから、依頼主から上乗せが来た。今朝早くにな」
もうひとつ、小さな袋が机に置かれた。中で、重たい音がした。
「一人、大銀貨一枚だ。娘がずいぶん楽しかったそうだ。その礼だと」
ネルが、ぽかんと口を開けた。
大銀貨一枚。眠り羊亭なら、ひと月泊まってもおつりがくる。Fランクの雑用なら、何十日ぶんになるかわからない。
「楽しかった、ですか」
「そう書いてあった。理由は、聞くな」
ギルドマスターの口の端が、ほんの少しだけ上がった気がした。気のせいかもしれない。
「行っていいぞ。ミリアに、登録を書き換えてもらえ」
俺たちは頭を下げて、執務室を出た。扉が閉まる直前、ヴァルトがまた栗の殻を割る音がした。
◇
足音が、階段を下りていった。
ヴァルトは割った殻を、机の端に並べた。ひとつ、ふたつ、みっつ。
「大銀貨とは、ずいぶん気前がいいな。商人の家にしては」
「そうだな」
ギルドマスターは、上乗せの袋に添えてあった短い手紙を暖炉に放りこんだ。封蝋が溶けて、紙が丸まって燃えていく。押されていた紋の形は、もう誰にもわからない。
「言っていなかったが、あの娘は――」
「知っている」
ヴァルトは、栗をひとつ口に入れた。
「南門の手前で、迎えの馬車の扉の内側に紋があった。翼を広げた鳥と、剣だ」
ギルドマスターは、しばらく黙っていた。それから、大きく息を吐いた。
「先方の注文は、名の知れていない冒険者だった。名のある護衛は顔を覚えられている。動けば、どこかに知れる」
「それで、試験か」
「Dの試験の護衛なら、誰も気に留めん。そのうえ、お前が付く」
「俺には、大事な客だとしか言わなかったな」
「先方の条件だ。娘の名は、試験官にも明かすなと」
ヴァルトは、窓の外の冬の空を見た。
「侍女の剣は、城の剣だった。あれも知っていたのか」
「いや。それは、俺も知らなかった」
ギルドマスターは、机の上の報告書に目を落とした。
「霧の渡しで五人。護衛対象は無傷。侍女の剣を勘定に入れても、Dの試験で出てくる結果じゃない」
「だから、地味だが確実と書いた」
「嘘は書いていないな」
「書いていない。見えたものしか、書いていない」
ヴァルトは、最後の栗の殻を割った。
「前に、まだ何も見えんと言ったな」
「ああ」
「今は、何かが見えた。だが、何が見えたのかがわからん」
ギルドマスターは、笑った。顔を斜めに走る古い傷が、ゆがんだ。
「お前にそれを言わせるとはな」
「笑いごとじゃない」
ヴァルトは立ちあがって、外套の襟を立てた。
「ひとつ言っておく。前金は金貨一枚、雇ったのは爪のきれいな男だ。漏れたのは、ここからじゃない」
「わかっている。知っていたのは、俺と先方だけだ」
「なら、先方の中だな」
ギルドマスターは、もう何も言わなかった。
暖炉の中で、燃え残った封蝋が小さくはぜた。
◇
受付に戻って「Dになりました」と伝えると、ミリアさんは帳面を胸に抱えたまま、しばらく動かなかった。
「……おめでとうございます」
声が、少しだけ震えていた。
ミリアさんは新しいプレートを二枚、受付台の上にそっと並べた。銅色のFから数えて、二度目の書き換えだった。
「担当の冒険者さんがランクを上げて帰ってくるのは、何度見てもうれしいんです。でも、今回がいちばんです」
「どうしてですか」
「十日も街道に出ていたのに、お二人とも怪我ひとつないんですもの」
ミリアさんは、帳面に新しい行を書き足した。ペン先の音が、いつもよりていねいに聞こえた。
ネルが、受け取ったばかりの革袋を両手で包んでいた。
「ねえ、リト」
「うん」
「これ、あたしが稼いだお金よね」
小さな声だった。でも、ちゃんと聞こえた。
「依頼を受けて、護衛して、ギルドから受け取ったお金。誰に聞かれても、あたしが稼いだって言えるお金よね」
シェイラさんに預けてある金貨のことを、俺は思い出した。あれも、ちゃんと俺たちが稼いだお金だ。でも今はまだ、誰の前でも胸を張って出せるお金じゃない。
この大銀貨は、違う。
「言えるよ。誰の前でも」
ネルは、革袋をぎゅっと握った。尻尾が、ゆっくり一回だけ揺れた。
「ばあちゃんの店まで、また半歩」
「Dの依頼なら、普段の稼ぎも上がるしな」
「そうよ。これからは、宿代を数えながらご飯を食べなくていいの」
そのとき、後ろで笑い声が上がった。
「おい、聞いたか。ハズレコンビがDだってよ」
振り返ると、掲示板の前の何人かがこっちを見ていた。
「剣聖様はCで、こっちはやっとD」
「チビ種火と繕い物でDか。試験官の目は節穴かよ」
「温泉の次は、何を沸かしてきたんだ?」
どっと笑いが起きた。
ネルの耳がぴくりと動いたけど、何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。笑われるのには慣れている。それに、笑われているうちは、まだ大丈夫だ。
暖炉の前の長椅子には、『赤き鉄槌』の四人がいた。ダグがこっちを見て、口を開きかけた。
「なんだ、ダグ。お前も何か言ってやれよ」
誰かが、からかうように言った。
「そういや、赤いのはまだ履いてんのか?」
ホールの笑いが、そっちに移った。ダグは真っ赤になって、そっぽを向いた。ネルが小さく吹きだした。
「笑わせておけ」
人垣の向こうから、聞きなれた声がした。
レオンだった。剣聖様、剣聖様と声をかけられながら、人のあいだを抜けてくる。旅装のままで、マントの裾にはまだ峠の雪が白く残っていた。
「戻ってたんですね」
「今朝な。お前たちもか」
レオンは、俺の手の中の新しいプレートをちらりと見た。
「Dか」
「はい」
「遅い」
そう言ってから、レオンは少しだけ口の端を上げた。
「……だが、来たな」
「レオンは、Cになったって」
「特例だ。北の峠のワイバーンに、Bのパーティが手こずっていた。剣聖なら、と誰かが言いだした」
レオンの声は、ちっともうれしそうじゃなかった。
「とどめを刺したのは俺だ。そこまでは本当だ。だが、そこまでの道を作ったのはBの連中だ」
「でも、街じゅう剣聖様ですよ。焼き栗まで」
「知っている」
レオンは、うんざりしたように眉を寄せた。
「朝から三回、焼き栗を渡された。食べてもいないのに、剣聖様が食べた焼き栗にされていた」
ネルが、こらえきれずに笑った。
レオンは咳払いをして、声を低くした。
「ひとつ、教えておいてやる。Cから上は、試験だけじゃ上がれない」
「どういうことですか」
「ギルドマスターの推薦と、名前の通った実績がいる。指名の依頼をいくつもこなして、誰が見ても強いと言われて、やっとCだ。俺みたいな特例は別だがな」
名前の通った実績。誰が見ても、強い。
俺は、少しだけ息を止めた。それは、俺たちがいちばん避けてきたものだ。
「だから、Dは長いぞ」
レオンは、俺の顔をじっと見た。
「隠したまま上がってくるなら、ここからが本番だ」
「わかってます」
「わかっているなら、いい」
レオンは、マントの雪を払って背を向けた。
「俺は、先に行く。だが、あまり待たせるな」
それから、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。
「息苦しいんだ。剣聖様と呼ばれるのは」
最後の一言は、たぶん俺にしか聞こえなかった。レオンの背中は、また剣聖様と呼ぶ声の中に飲みこまれていった。
俺は、手の中のプレートを見下ろした。
Cになれば、名前が知られる。名前が知られれば、隠せなくなる。父さんと母さんが何を隠してきたのかも、俺はまだ知らない。
だから、しばらくはDでいい。地味で、確実なDで。
「リト」
ネルが、俺の袖を引いた。
「お祝い、しよ。大銀貨は使わないけど、銀貨一枚くらいならいいでしょ」
「ネルが自分から使おうって言うの、初めてじゃないか」
「うっさい。今日は特別なの」
◇
ギルドの扉を出ると、冬の日差しがまぶしかった。
石段の下で、小さな影が手を振っていた。継ぎはぎの外套に、前歯の欠けた笑い顔。
「よう、ハズレコンビ。Dになったんだってな」
ルカだった。
「耳が早いな」
「下層区で知らねえやつはいねえよ。剣聖様はC、ハズレコンビはD。今朝から、そればっかりだ」
ルカは石段を二段飛ばしで上がってきて、俺たちの前で止まった。
それから、急に声を落とした。
「それより、兄ちゃん。思い出したぜ」
「何を」
「南門で見た、あの嬢ちゃんの顔だよ。ずっと引っかかってたんだ」
ルカは、にやりと笑った。欠けた前歯がのぞいた。
「どこで見たか、やっと思い出した」
ネルの尻尾が、ぴたりと止まった。




