半分この約束
「リーゼロッテ。リーゼロッテ・アトリアス」
耳もとで、リーゼがそう言った。
俺は、しばらく動けなかった。
アトリアス。この国の名前と、同じだ。その名前を持っている家は、この国にひとつしかない。
「……え」
やっと出た声は、自分でも情けないくらい間が抜けていた。
リーゼは一歩下がって、いたずらが成功した子どもみたいに笑った。若葉色の目が、きらきらしていた。
「驚いた?」
「驚かないほうが、無理です」
「お嬢さま」
すぐ後ろで、低い声がした。
ハンナさんが、馬の手綱を持ったまま立っていた。いつからそこにいたのか、まったくわからなかった。
「交換したの」
リーゼは、ハンナさんをまっすぐに見上げた。
「リトは、わたしに秘密をひとつくれたわ。だから、わたしもひとつあげたの。それだけよ」
ハンナさんは、何か言いかけて口を閉じた。それから、小さく息をついた。
「……左様でございますか」
それ以上は、何も言わなかった。ただ、俺のほうを一度だけ見た。
責める目じゃなかった。重たいものを、そっと手渡されたときの目だった。
◇
川沿いの村に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。
縛った五人は、村の自警団に引き渡した。鍛冶屋と粉屋と猟師の三人組で、槍を持つ手つきがまだぎこちない。それでも、五人を納屋に押しこむ動きには迷いがなかった。
ハンナさんは、納屋に入る前の頭目の前にしゃがみこんだ。
「誰に頼まれましたか」
「知らねえよ」
頭目は、凍えた膝をさすりながら吐き捨てた。
「宿場町の酒場で、顔を隠した男に前金をもらった。霧の朝に渡しを通る幌馬車の、娘をさらえってな。それだけだ」
「前金は」
「金貨一枚」
ハンナさんの目が、すっと細くなった。
金貨一枚。俺たちの今回の報酬より、ずっと多い。ただの商人の娘をさらうのに、払う額じゃない。
「顔を隠した男の、声は」
「覚えてねえ。若くはなかった。それと」
頭目は、少し考えるように黙った。
「爪が、やけにきれいだった」
ハンナさんは、それ以上聞かなかった。立ち上がって、膝の砂を払っただけだった。
ヴァルトは、自警団の差し出した引き渡しの書付に名前を書いていた。癖のない、細い字だった。書き終えると、筆を置いて、焼き栗の殻をひとつ地面に落とした。
ずっと、何も言わなかった。
◇
その夜は、村のはずれの林で野営した。
王都までは、あと一日。焚き火の向こうで、ヴァルトはいつものように少し離れた岩に腰かけて、背中をこちらに向けていた。
リーゼは、ネルの隣に座っていた。
ずっと何かを言いたそうにしていたのは、俺にもわかった。スープの椀を三回持ち上げて、三回とも口をつけずに下ろしていたから。
「ネル」
四回目に椀を下ろしたとき、リーゼが小さな声で言った。
「わたしね、本当は商人の娘じゃないの」
「知ってる」
ネルは、あっさりと言った。
「縫い目が、商人の仕立てじゃなかったもの。で、何の娘なの?」
リーゼは、ネルの耳に口を寄せた。
ネルの耳が、ぴんと立った。尻尾が、ぴたりと止まった。
それから、ゆっくりと、ネルの顔が青くなっていった。
「……あたし、王女さまに干し肉押しつけたの?」
「おいしかったわ」
「銅貨一枚の値切り方も、教えたわよね」
「次の市で、使ってみるつもりよ」
「使わないで」
ネルが頭を抱えた。リーゼは、声を殺して笑い転げた。焚き火の火の粉が、ぱちぱちと夜に上がっていった。
ひとしきり笑ったあとで、リーゼは膝を抱えた。
「お城の外に出るとね、困る人がいるの」
焚き火を見つめたまま、リーゼは言った。
「だから、出かけるときはいつも商人の娘。ハンナと二人で、こっそりね。今回だって、知っている人はほんの少しのはずだったのに」
それ以上は、言わなかった。
金貨一枚。爪のきれいな男。俺も、それ以上は聞かなかった。
「だから、うれしかったの」
リーゼは、顔を上げた。
「リトがわたしの左に立ってくれたとき。ネルが、縄を切ってくれたとき。わたしのことを王女だって知らないのに、守ってくれたでしょう」
リーゼは、首にかけていた細い銀の鎖を外した。
鎖の先に、親指の先くらいの銀の円盤が下がっていた。飾りも模様もない、つるりとした小さな円盤だった。
リーゼがそれを両手の指でつまんで、少しひねった。
かちり、と小さな音がして、円盤が二枚に分かれた。
「割り符っていうの。母さまがくれたものよ」
リーゼは、二枚の内側を焚き火にかざした。
片方に、細い線が何本か彫られている。もう片方にも。一枚ずつ見ても、何の形かわからない。
リーゼが二枚を重ねると、線がつながって、ひとつの紋になった。
翼を広げた鳥と、その下に一本の剣。
さっきまで、ただの銀の円盤だったものが、急に重たく見えた。
「片方を、リトにあげる」
「え」
「わたしは、あなたたちの秘密を守るわ。誰にも言わない。お父さまにも」
リーゼは、片方の割り符を俺の手のひらに乗せた。思ったより、ずっと軽かった。
「それから、もし困ったことがあったら。これを持って、お城の西の門に来て。門番に見せれば、ハンナが迎えに行くから」
「でも、こんな大事なもの」
「半分こすると、倍になるんでしょう?」
リーゼは、にっと笑った。
「これも、そう。リトが半分持っていてくれたら、わたしも、困ったときにあなたたちを思い出せるわ」
隣で、ネルが小さく鼻をすすった。
俺は、手のひらの小さな割り符を見下ろした。片方だけでは、ただの無地の銀だ。誰が見ても、何もわからない。
目立たない。それなのに、ちゃんと本物だ。
「大事に、します」
それしか言えなかった。
俺は割り符を、上着の内側の小さな物入れにしまった。父のナイフの鞘の、すぐ隣だった。
◇
焚き火が熾火になったころ、ハンナさんが隣に来た。
見張りの番だった。ネルとリーゼは、幌馬車の中で寄り添って眠っている。ヴァルトの背中は、岩の上で動かない。
ハンナさんは、しばらく黙って熾火を見ていた。
「私は、何も見ておりません」
ぽつりと、そう言った。
「剣を振っておりましたので。浅瀬の男がどうして凍えていたのかも、存じません」
俺は、何も言えなかった。
ハンナさんは、それでいいというように小さくうなずいた。
「昔、城で剣を持っておりました」
右手を、膝の上でゆっくりと開いて、閉じる。
「今は、お嬢さまをお守りするのが仕事です。お嬢さまが信じた方を、私も信じます。それだけです」
「……ありがとうございます」
「礼には及びません」
ハンナさんは、熾火に枝を一本足した。小さな炎が、ふっと立ち上がった。
「リトさま。舟の上で、お嬢さまの左に立たれたとき」
「はい」
「誰かに、習われましたか。守る相手の、どちら側に立つかを」
俺は、少し考えた。
「習ってないと思います。父は、薪割りしか教えてくれなかったので」
ハンナさんの手が、枝を持ったまま一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だった。気のせいかと思うくらいの。
「そうですか」
ハンナさんは、枝を火にくべた。
「良い、薪割りだったのでしょうね」
それきり、ハンナさんは何も言わなかった。
◇◆◇
王都の南門が見えたのは、次の日の夕方だった。
大きな石の門の手前、街道から少し外れた木立の陰に、飾りのない馬車が一台止まっていた。御者台の男は、こちらを見ても眉ひとつ動かさなかった。
リーゼは、そこで幌馬車を降りた。
「ここで、お別れ」
ネルが、リーゼの手をぎゅっと握った。
「次の市で値切るときは、尻尾を……じゃなくて、目をそらしちゃだめよ」
「わかったわ。ネル先生」
リーゼは笑って、それから俺のほうを向いた。
「ねえ、リト。春告げの樹の願い事、教えてあげる」
「はい」
リーゼは何か言いかけて、やめた。
それから、くすっと笑った。
「やっぱり、また今度。叶ったら、教えてあげる」
蜂蜜色の髪をひるがえして、リーゼは馬車に乗りこんだ。ハンナさんが、こちらに深く一礼してから後に続いた。
扉が閉まる直前、その内側に、小さな紋が見えた。
翼を広げた鳥と、一本の剣。
すぐに扉が閉まって、馬車は木立の向こうへ走り去っていった。
上着の内側で、割り符が小さく揺れた気がした。
ふと気づくと、ヴァルトが馬車の消えた方を見ていた。
あの紋を、見たのかもしれない。見なかったのかもしれない。灰色の外套の背中からは、何もわからなかった。
ヴァルトは焼き栗の殻をひとつ指で弾いて、こちらを振り返った。
「結果は、ギルドで言う」
それだけ言って、南門のほうへ歩きだした。




