右手の剣
綱が、霧の中へずるずると吸いこまれていった。
「くそっ、外れる!」
渡し守のおじさんが叫んだ。たるんだ綱が、舟べりの綱通しから跳ねるように外れる。舟をつないでいたものが、何もなくなった。
平底の舟が、くるりと横を向いた。
茶色い水が舟べりを叩いて、板の隙間から冷たいしぶきが上がる。馬が首を振っていななき、幌馬車の車輪がきしんだ。俺はリーゼの左腕をつかんだまま、片膝をついて踏んばった。
「下の曲がりだ!」
おじさんが、竿を川底に突き立てながら怒鳴った。
「この先で川が北に曲がってる! 外っ側に砂州があるんだ、このままじゃ押しつけられるぞ!」
北。向こう岸の側だ。
あの五つの影が立っていた岸だった。
(綱を切れば、舟はそこへ流れ着く。わかってて、待ってたのか)
霧の向こうで、弦の鳴る音がした。
ひゅっ、と何かが頭の上を抜けて、幌に突き刺さった。もう一本。今度は手すりの板に刺さって、矢羽根が細かく震えた。
「リーゼ、こっち!」
俺はリーゼの肩を押して、幌の陰にしゃがませた。リーゼは手すりから手を離さないまま、目を見開いて矢を見ていた。
「あれ、本物?」
「本物です。頭、上げないで」
霧のせいで、向こうも狙いが甘い。でも、近づけば近づくほど当たる。
舟は流れに押されて、ゆっくりと北へ寄っていく。霧の中から、黒い岸がにじむように現れた。
がりがりと、舟底が砂を噛んだ。
舟が大きく揺れて、止まった。
◇
ハンナさんが、左手の包みの紐を引いた。
古い布が、ひと息でほどけて足もとに落ちる。中から出てきたのは、飾り気のない細身の剣だった。鞘は使いこまれて黒ずんでいた。
ハンナさんは、ずっと空けていた右手で、それを抜いた。
初めて見る動きだった。それなのに、ずっと前から知っているような気がした。父さんが薪割りの斧を拾うときと、同じ速さだった。
「お嬢さまの左を」
それだけ言って、ハンナさんは舟べりを蹴った。
砂州に降り立つのと、岸の影が三つ駆け寄ってくるのが同時だった。短剣と、手斧と、棍棒。ハンナさんは一歩も退かなかった。
鉄と鉄のぶつかる音が、霧の中に響いた。
「ハンナ……?」
リーゼが、幌の陰から顔を出しかけた。俺はその肩を、もう一度そっと押さえた。
「大丈夫です。ハンナさん、強いので」
本当に強いのかどうかは、知らない。でも、今の動きを見ればわかる。あれは、剣を何千回も抜いてきた人の手だ。
三人はハンナさんを囲もうとして、囲めずにいた。ハンナさんはいつのまにか、舟を背にして立っていた。どこから来られても、舟には近づけない場所だった。
(残りは、二人)
じゃらり、と鎖の鳴る音がした。
舟の下流側だった。霧の中から鉤のついた縄が飛んできて、舟べりにがつんと食いこむ。縄がぴんと張った。誰かが浅瀬から、舟ごと引き寄せようとしている。
「リト、あれ」
ネルが、もう紅糸を抜いていた。
縄を見つめる唇が、小さく動く。二つ数えるあいだに、ネルは舟べりを走っていた。
「そこ、ほつれてる」
紅い刃が、縄の一点を撫でた。
それだけで、太い縄がぷつりと二つに分かれた。張っていた力が抜けて、霧の向こうで誰かが水の中に尻もちをつく音がした。
リーゼが、ネルの背中をぽかんと見ていた。
「縄はね、ほつれてるとこから切れるの。仕立て屋の孫の常識よ」
ネルは、ふり返らずにそう言った。
ばしゃばしゃと、水を蹴る音が近づいてきた。
尻もちをついた男が、起き上がって舟べりに手をかけた。腰まで水に浸かったまま、短剣を口にくわえて這い上がってくる。濡れた髭から、川の水が垂れていた。
ネルは舟の反対側にいる。間に合わない。
俺はリーゼの肩に置いた手はそのままに、もう片方の手を舟の板に向けた。米粒より小さな泡を、男の足がかかる場所に一列。
男が舟べりを越えて、濡れた板に片足をついた。
その足が、ありえない方向へすべった。
「うおっ」
男は両腕を振り回して、きれいに後ろへひっくり返った。大きな水しぶきが上がって、そのまま浅瀬を下流へ転がっていく。
滑り泡は、濡れた板の上だといつもより効く。
ふと気づくと、リーゼが俺の手元を見ていた。
泡は、もう弾けて消えている。それでも若葉色の目は、俺の指先から離れなかった。
◇
「お嬢さんを、渡してもらおうか」
低い声が、霧の中からした。
浅瀬に、男が一人立っていた。膝まで水に浸かって、大きな弓を引き絞っている。矢の先は、幌の陰のリーゼに向いていた。ほかの四人とは、構えがまるでちがう。
岸ではまだ、ハンナさんが三人と斬り合っている。こちらへ戻れる距離じゃない。
ネルは紅糸を構えたまま、動けずにいた。舟べりから飛び降りるより、矢のほうが速い。
爆発なら、すぐに撃てる。でも、霧の向こうの南岸にはヴァルトがいる。音も、水柱も、隠しようがない。
(凍らせる)
浅瀬の水ごと。あいつの足もとと、弓ごと。
俺は舟べりから手を伸ばして、川の水をすくった。手のひらの上に拳くらいの泡を作って、中に水を閉じこめる。
(……一)
舟が揺れた。泡の中の水が、小さなさざ波を立てる。
まずい、と思ったときには、もう白く濁りはじめていた。揺れた水は、冷やしきる前に凍ってしまう。指で弾くまでもなく、泡の中には小さな氷のかけらが浮いていた。
失敗だ。
舟は砂州に乗り上げているのに、川の流れに押されて、ずっと小さく揺れている。この上で十二も数えるなんて、できるわけがない。
「待つのは、得意じゃなくてね」
男が、弦をさらに引いた。
リーゼの手が、俺の袖をぎゅっとつかんだ。小さく震えていた。
(揺れるのが、だめなら)
(揺れを、泡に食わせればいい)
俺はもう一度、川の水を泡に閉じこめた。それからその泡を、もう一回り大きな泡で包んだ。
二枚の膜のあいだに、薄い空気の層ができる。舟が揺れると、外の泡だけがふるりと震えた。中の泡は、手のひらの上でじっと動かない。
いける。
プチフロストで、静かに冷やしていく。
(……一)
(……二)
ハンナさんの剣の音。川の音。ネルが息を呑む音。
(……三)
(……四)
全部、外の膜の向こう側にあった。
(……五)
(……六)
(……七)
袖をつかむリーゼの指が、ほんの少しだけゆるんだ。
(……八)
(……九)
(……十)
十。
いつもより、ずっと短い。それなのに、中の水はしんと冷えきっていた。
外の泡だけを指で割って、残った泡を男の足もとへ弾く。
泡は霧の中をすべるように飛んで、男の膝の前の水面に触れた。
ぱちん、と。
小さな音がした。
次の瞬間、浅瀬が白くなった。
泡の触れたところから、氷の花が水面を走る。男の膝を包んで、腿を這い上がる。引き絞った弓の弦にまで、霜が一気に駆けのぼった。
男が、矢を放とうとした。
凍った弦が、乾いた音を立てて切れた。
矢は男の足もとの氷の上に、からんと落ちた。
「な、何だ、これは」
男は足を引き抜こうとして、もがいた。膝から下は、浅瀬ごと白い氷の中に閉じこめられていた。
過冷却。
十で、届いた。
舟べりから、ネルがひらりと飛び降りた。凍った浅瀬を二歩で渡って、男の手から弓をもぎ取る。
「春の川だからって、油断したわね」
ネルは男の鼻先で、紅糸をちらつかせた。男は氷に足を取られたまま、何も言い返せなかった。
岸のほうで、剣の音がやんだ。
霧の中から、ハンナさんが歩いてきた。後ろの砂州には、三人が倒れてうめいている。
ハンナさんは、浅瀬で凍りついている男を見た。
ほんの一瞬、足が止まった。それから、俺を見た。
何も聞かなかった。ハンナさんは凍った男の首筋に剣の柄を打ちこんで、あっさりと気を失わせた。
「お嬢さま。お怪我は」
「な、ないわ」
リーゼは幌の陰から出てきて、ハンナさんを見上げた。
「ハンナ。あなた、剣が使えたの?」
「少しだけ」
ハンナさんは剣を拭って、鞘に収めた。
右手が、また空いた。
◇
霧が晴れたのは、昼前だった。
おじさんの言ったとおりだった。白い霧が川下へ流れていくと、南の渡し場まで嘘みたいにはっきり見えた。
縛った五人は、砂州の流木の脇に並べてある。縄は、おじさんが小屋から持ってきていた予備の綱を、ネルが切り分けた。
おじさんは、切られた綱の端を握って、しばらく黙っていた。
「行きにあんたらが直してくれた綱をさ。こんなふうにされちゃあな」
それから鼻をすすって、予備の綱を担いだ。
舟をみんなで岸沿いに引き戻して、切れた綱に予備の綱を継ぎ、杭に結び直す。全部が終わるころには、浅瀬の氷はとっくに解けていた。この川の水は、もう春の水だ。
おじさんが空の舟で南岸へ戻って、ヴァルトを乗せて帰ってきた。
栗毛の馬を岸に上げると、ヴァルトは縛られた五人を順に見た。それから、砂州に転がっていた弓を拾い上げた。
弦が切れていた。
ヴァルトは、その切れ口を指先でなぞった。まだ湿っている弦の端を、しばらく黙って見ていた。
何も言わなかった。弓を五人の脇に置いて、焼き栗の袋を取り出しただけだった。
(見られては、いない)
霧の中のことは、南岸からは何も見えなかったはずだ。氷も、もう残っていない。
でも、あの人は弦の切れ口を見ていた。刃物で切った跡じゃないことくらいは、たぶんわかる。
俺は、灰色の外套の背中から目をそらした。
出発の支度をしていると、リーゼが俺の横に来た。
ハンナさんは馬の脚を確かめていて、ネルは幌に刺さった矢を引き抜いている。リーゼは二人のほうをちらりと見てから、俺の袖を引いた。
「ねえ、リト」
小さな声だった。
「さっきの泡。ハズレのスキルなんでしょう?」
俺は、少しだけ答えに詰まった。
舟の上で、リーゼはずっと俺の袖をつかんでいた。全部見ていたはずだ。ごまかしても、たぶん意味がない。
「内緒にしてもらえますか」
「どうして?」
「目立ちたくないんです。まだ」
リーゼは、若葉色の目をぱちぱちさせた。それから何かを思いついたように、ふっと笑った。
旅のあいだに何度も見た、好奇心でいっぱいの顔だった。でも、ほんの少しだけ大人びて見えた。
「いいわ。じゃあ、わたしの秘密と交換ね」
「秘密、ですか」
「そう。リトの秘密をひとつもらったから、わたしもひとつあげる」
リーゼは背伸びをして、俺の耳もとに口を寄せた。
蜂蜜色の髪が、頬をかすめた。
「わたしの本当の名前はね――」




