霧の渡し
リーフェンを出て半日もすると、祭りの鐘はもう聞こえなくなった。
リーゼは幌の中で、窓代わりの隙間からずっと後ろを見ていた。行きの道ではあれほどしゃべっていたのに、今日は口数が少ない。膝の上には、揚げ菓子の残りが入った紙袋がのっていた。
「食べないの?」
馬車の横を歩きながら、ネルが聞いた。
「もったいなくて」
「湿気るわよ」
「……それも、もったいないわ」
リーゼは紙袋を胸に抱えて、また後ろを向いた。春告げの樹は、もう丘の陰に隠れて見えなかった。
御者台のハンナさんは、いつもより周りを見ていた。手綱を握ったまま、道の両側の林や遠くの丘に、ゆっくりと目を走らせる。俺も何度も振り返った。
ヴァルトの灰色の外套は、いつもの距離にある。その向こうには、何も見えなかった。
◇
日が傾くころ、ハンナさんが馬車を止めた。
行きに泊まった宿場町までは、まだ少し距離がある。急げば、日が暮れる前には着ける。
「今夜は、ここで野営にします」
ハンナさんは、街道から少し外れた林の縁を指さした。
理由は、聞かなくてもわかった。行きの宿場町は、霜の上に足跡が残っていた場所だ。向こうは、俺たちがあの宿に泊まると思っているかもしれない。
ヴァルトは何も言わずに馬を降りて、少し離れた木の根元に腰を下ろした。
◇
焚き火の火が落ち着いたころ、リーゼがぽつりと言った。
「王都に帰ったら、わたし、またしばらく外に出られないの」
ネルが、干し肉を裂く手を止めた。
「家の人が、厳しいの?」
「厳しいっていうか……」
リーゼは膝を抱えて、焚き火を見つめた。炎が、若葉色の目の中で小さく揺れていた。
「今回だって、すごくお願いして、やっと許してもらえたの。春告げの樹を、一度でいいから自分の目で見たかったから。次は、いつになるかわからないわ」
俺は、黙って焚き火に枝をくべた。
何を聞いても、たぶん答えにくいことばかりだ。だから、何も聞かなかった。
ネルは、裂きかけの干し肉を見下ろした。それから、それをきっちり半分に裂いて、片方をリーゼの手に押しつけた。
「なら、今のうちに外のごはん、いっぱい食べときなさい」
リーゼは、手の中の干し肉とネルの顔を交互に見た。
「これ、ネルの分でしょう?」
「半分こよ。あたしとリト、ずっとそうしてるの」
ネルは、自分の分を口にくわえた。
「半分こするとね、なぜか倍おいしくなるのよ。ばあちゃんがそう言ってた」
リーゼは干し肉を両手で持って、しばらくじっと見ていた。それから、思いきりかじりついた。
相変わらず、なかなか噛み切れないらしい。顎を一生懸命に動かしながら、リーゼは笑った。
「本当ね。倍、おいしい」
その目の端が、焚き火の明かりで少しだけ光っていた。
焚き火の向こうで、ハンナさんが目を伏せていた。ほんの少しだけ、唇を噛んでいるように見えた。
◇◆◇
二日目、丘の灯りはもう見えなかった。
昼すぎに通りかかった宿場町でも、おかしなことは何もなかった。行きに泊まった宿の前を、馬車はそのまま通りすぎた。
振り返っても、街道にはヴァルトの栗毛の馬しかいない。昨日も今日も、ずっとそうだ。
「いないわね」
馬車の左を歩きながら、ネルが小声で言った。耳が、ずっと後ろを向いている。
「ああ」
「いないのが、いちばん嫌」
ネルの言うとおりだった。
行きの道では、ずっと後ろに何かがいた。夜には灯りが見えて、宿の裏には足跡が残った。それが、急にいなくなった。
諦めて王都へ帰った、とは思えなかった。
(後ろにいないなら……前、か)
この先の道を、頭の中でたどる。ぬかるみの坂を下りて、川へ。行きに綱を直した、あの渡し舟だ。
馬車は、舟に乗せなければ川を渡れない。舟に乗っているあいだは、どこへも逃げられない。それに、行きの舟は馬車一台でいっぱいだった。全員は乗れないかもしれない。
仕掛けるなら、あそこだ。
御者台を見上げると、ハンナさんと目が合った。ハンナさんは何も言わずに、ほんのわずかに顎を引いた。
同じことを考えていたらしい。
◇
渡し場に着いたのは、夕暮れだった。
川は、行きよりもさらに水かさが増していた。茶色い水が岸すれすれまで来ていて、ごうごうという音が腹の底に響く。
「今日はもう無理だよ。暗くなってから渡すのは、命知らずのやることだ」
渡し守のおじさんは、俺たちの顔を見るなり手を振った。それから、ネルに気づいて目を丸くした。
「おや、あんたら。行きの」
「こんばんは、おじさん」
「あんたのおかげで、綱が切れずに済んだんだ。あのまま馬車を乗せてたら、川の真ん中でどうなってたか」
おじさんは、小屋の脇の空き地を使っていいと言ってくれた。薪まで分けてくれた。
渡しは、明日の朝一番になった。
焚き火の支度をしていると、おじさんが小屋から薪の束を抱えて出てきた。
「今日はやけに客が多いねえ。昼すぎにも、何人か渡したんだ」
「何人か、ですか」
俺は、なるべくなんでもないふうに聞き返した。
「五人だったかな。狩人だって言ってたよ。弓だの何だの担いでさ。この時期に、何を狩るんだかね」
おじさんは笑って、薪を地面に下ろした。
「向こう岸の村で、春の獲物でも待つんだろうさ。あっちはもう、ずいぶん暖かいから」
ネルの尻尾が、ぴたりと止まった。
ハンナさんは、焚き火に鍋をかけていた手を、ほんの一瞬だけ止めた。それから何事もなかったように、左手で鍋の蓋を閉めた。
俺は、川の向こうを見た。夕暮れの川面には、もう薄く霧が出はじめていた。向こう岸は、灰色にかすんでよく見えない。
後ろにいなかったのは、前にいたからだ。
俺たちより先に川を渡って、向こう岸で待っている。
「おじさん。その人たち、戻ってきました?」
「いいや。渡したのは一回きりだよ」
おじさんは、首をかしげた。
「なんだい、知り合いかい?」
「いえ。この時期に狩りなんて、珍しいなと思って」
俺はそう言って、焚き火に枝をくべた。指先が、少しだけ冷たかった。
その夜、ハンナさんは一度も横にならなかった。
◇
夜更け、俺は川べりの石に腰を下ろしていた。
拳くらいの泡を一つ。中に川の水を少しだけ閉じこめる。揺らさないように、プチフロストで静かに冷やしていく。
(……一)
(……二)
川の音がうるさくて、うまく集中できない。
(……十一)
(……十二)
指で弾くと、泡の中の水が白い花になった。
十二。昨日と同じだ。どうしても、そこから先へ縮まらない。
明日、何かあったら。十二は、長すぎるかもしれない。
手のひらの氷が解けるのを待って、野営地へ戻った。焚き火のそばを通りかかったとき、幌馬車の荷台にふと目が止まった。
ハンナさんの荷物だった。旅の着替えが入った鞄の横に、細長い包みが一つ。古い布でぐるぐると巻いてあって、紐できっちり縛ってある。
行きの道では、気づかなかった。鞄の陰に隠れていたのかもしれない。
いつのまにか、ネルが隣に立っていた。同じ包みを見ている。
「あの布の巻き方ね」
ネルは、声を落として言った。
「ばあちゃんの店で、一度だけ見たことがあるの。剣を、剣だってわからないように包むときのやり方よ」
「剣、か」
「それも、すぐに抜けるように巻いてある。紐の端が、一か所だけ引けばほどけるようになってるの」
ネルは、それ以上は言わなかった。俺も、何も言わなかった。
右手を空けている人が、剣を隠して持っている。驚くようなことじゃなかった。
◇◆◇
翌朝、川は霧に沈んでいた。
雪解けの冷たい水の上に、白い霧がべったりと垂れこめている。向こう岸どころか、川の真ん中さえ見えない。渡しの綱だけが、霧の中へまっすぐ吸いこまれていた。
「この時期の朝は、いつもこうさ。昼前には晴れる」
渡し守のおじさんが、舟の綱をたぐりながら言った。
「お嬢さま、昼まで待ちますか」
ハンナさんが、静かに聞いた。リーゼは首を横に振った。
「早く帰らないと、みんなが心配するもの」
ハンナさんは小さく頷いて、馬の手綱を取った。そして、俺の横を通りすぎるときに、前を向いたまま低く言った。
「この川に、ほかの橋はありません。引き返せば、遠回りでさらに三日。向こうも、それを知っています」
待っても、引き返しても、同じことだ。だったら、霧の中を渡るほうがまだいい。向こうからも、こちらは見えにくい。
「舟の上では、お願いします」
「はい」
平底の舟に、幌馬車を引き入れる。馬が、足もとの揺れに鼻を鳴らした。舟の上は、馬車一台でほとんどいっぱいだった。
「あと乗れるのは、四人か五人ってとこだね」
おじさんがそう言うと、ヴァルトは栗毛の馬の手綱を引いて、一歩下がった。
「俺は、次の便でいい」
それだけ言って、焼き栗の紙袋を取り出した。
舟に乗るのは、馬車と、リーゼと、ハンナさんと、ネルと、俺。それに渡し守のおじさん。
リーゼは馬車の横に立って、手すりにつかまった。ハンナさんがその右に立つ。
俺は、リーゼの左に立った。
ハンナさんが、ちらりとこちらを見た。何も言わなかった。でも、それで十分だった。
「出すよ!」
おじさんが綱をたぐると、舟がゆっくりと岸を離れた。
岸に立つヴァルトの姿が、すぐに霧に溶けていく。灰色の外套は、霧と同じ色をしていた。あっという間に、どこにいるのかわからなくなった。
舟は、ぎしぎしと綱を鳴らしながら川を進んだ。足もとの板の下で、茶色い水がうねっている。右も左も前も後ろも、真っ白だった。聞こえるのは、川の音と、綱がきしむ音だけだ。
「なんだか、雲の中にいるみたい」
リーゼが、小さな声で言った。
川の真ん中あたりまで来たときだった。
ネルの耳が、ぴんと立った。
霧の向こう、まだ見えない向こう岸のほうを、じっと見ている。唇が、声を出さずに動いた。
(……一)
(……二)
ネルの顔から、さっと血の気が引いた。
「リト。綱が――」
その声に、何かがはじける鋭い音が重なった。
「切られてる!」
張ったばかりの綱が、霧の奥で跳ねた。
ぴんと張っていた綱が、ふっと力を失う。おじさんの手の中で、綱がただの縄のように垂れ下がった。
舟が、ぐらりと傾いた。
増水した川の流れが、平底の舟を横から押す。馬がいなないて、幌馬車がきしんだ。リーゼが悲鳴を上げて、手すりにしがみつく。
俺はとっさに、リーゼの左腕をつかんだ。
右側で、ハンナさんが動いた。いつのまにか、あの細長い包みを左手に持っている。紐の端が、一本だけ垂れていた。
霧が、少しだけ流れた。
向こう岸の杭のそばに、人影があった。
一つ。
二つ。
三つ。
霧の奥から、四つ目と五つ目の影が、ゆっくりと岸に並んだ。




