春告げの樹
足跡のことは、出発の前にハンナさんに伝えた。
ハンナさんは厩の前まで来て、霜の上の三つの靴の形をしばらく見下ろした。ヴァルトは、いつのまにかいなくなっていた。
「三人。夜明け前。馬車には触れていない」
ハンナさんは、独り言みたいに言った。驚いた様子は、少しもなかった。
「このまま、リーフェンへ向かいます」
「引き返さなくて、いいんですか」
「神殿の町に入ってしまえば、向こうも手は出せません。祭りのあいだは、なおさらです」
ハンナさんは、それだけ言って幌馬車のほうへ戻っていった。
俺は、霜が解けはじめた足跡を見下ろした。
神殿の町では手を出せない。夜の宿でも、何もしないで帰った。だとしたら、向こうが待っているのは――。
「帰り道、ね」
隣で、ネルが小さく言った。俺は黙って頷いた。
幌の中からは、リーゼの寝ぼけた声が聞こえていた。今日でやっと着くのね、と。
◇
三日目の街道は、雪がほとんど残っていなかった。
道の両側の畑から、黒い土の匂いがした。ところどころ、日の当たる土手に小さな白い花が咲いている。春が、もうすぐそこまで来ていた。
それなのに、俺もネルも、ハンナさんも口数が少なかった。振り返るたびに、ヴァルトの灰色の外套がいつもの距離にある。その向こうには、今日は何も見えない。見えないのが、かえって落ち着かなかった。
落ち着いていないのは、リーゼ以外の全員だった。
「ねえ、リト」
幌の隙間から、蜂蜜色の頭がにゅっと出てきた。
「ネルに聞いたの。あなた、泡を出せるんでしょう?」
「出せますけど……ほんとに、泡を出すだけですよ」
「見せて!」
断る理由が、特に見つからなかった。
俺は手のひらを上に向けた。拳くらいの泡を、ふわりと一つ。続けて、二つ、三つ。春の日差しを受けて、泡の表面に虹色の模様が流れていく。
泡は風に乗って、幌の上をくるくると転がっていった。
「わあ……!」
リーゼは幌から身を乗り出して、泡を指先でつつこうとした。ぱちん、と割れる。リーゼは声を上げて笑った。
「ハズレスキルって言われてるのよ、それ」
反対側を歩いていたネルが、横から口を挟んだ。
「ハズレ?」
リーゼは、次の泡を目で追いながら首をかしげた。
「こんなにきれいなのに?」
心の底から、不思議そうな声だった。
俺は、何も言えなかった。ネルも、少しのあいだ黙っていた。それから、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。尻尾の先だけが、ゆっくり揺れていた。
リーゼは泡が全部消えてしまうまで、ずっと空を見上げていた。
「ねえ、リーフェンのお祭りって、どんなふうなのかしら」
「行ったこと、ないんですか」
「ないわ。わたし、本物のお祭りって、初めてなの」
リーゼは、なんでもないことのように言った。
(……本物の、か)
偽物のお祭りなら、行ったことがあるんだろうか。俺は聞き返さずに、前を向いた。
昼の休みに、小川のそばで水筒に水を汲んでいると、ネルが隣にしゃがみこんだ。
「ねえ、リト」
「ん?」
「あの子、さっき『きれい』って言ったわよね。あんたの泡」
「言ったな」
「ハズレって聞いても、きれいって言い直さなかった。そのまんま、きれいだって」
ネルは水面に指を浸して、ゆっくりと輪を描いた。
「あたし、あの子のこと、ちょっと好きになってきたかも」
「俺もだよ」
「……変な子だけどね」
「ああ。変な子だ」
ネルは小さく笑って、立ち上がった。
裏地の縫い目も、値段を知らないことも、本物のお祭りも。全部ひっくるめて、変な子だ。でも、守りたいと思うのに、理由はそれで十分な気がした。
◇
リーフェンに着いたのは、夕方だった。
ゆるやかな丘の上に、古い石造りの神殿が建っていた。神殿を囲むように、赤茶けた屋根の家々が坂に沿って並んでいる。町じゅうの鐘が、ひっきりなしに鳴っていた。
坂道には花売りの声と、焼き菓子の甘い匂い。どこから来たのかと思うくらい、たくさんの人が神殿へ向かって歩いていた。
神殿の前の広場の真ん中に、一本の大きな木が立っていた。
葉は一枚もない。灰色の枝が、空いっぱいに広がっている。その枝という枝に、赤や黄色や水色のリボンが何百本も結ばれていた。夕日を受けて、リボンが風にそよいでいる。
「春告げの樹、っていうんだって」
宿の女将さんに聞いてきたネルが、教えてくれた。
「冬のあいだ眠ってる樹に、願い事を書いたリボンを結ぶの。リボンがたくさんあるほど、樹が早く目を覚まして、春が来るんだって」
「素敵……!」
リーゼの目が、リボンと同じくらいきらきらしていた。
宿は、神殿の坂の途中にある小さな宿だった。祭りの時期はどこも満室らしいけれど、ハンナさんが前もって部屋を押さえていた。商人の娘の侍女は、そういうところも抜かりがないらしい。
ヴァルトは、宿の主人と短く言葉を交わしただけで、厩の隣の物置部屋に入っていった。試験官は、いないものと思え。最初の朝に言ったとおりだった。
◇
祭りの屋台は、日が暮れても閉まらなかった。
ハンナさんの許しが出て、リーゼとネルは並んで広場を回った。俺はその少し後ろを歩いた。ハンナさんは、さらにその後ろだ。
リボン売りの屋台の前で、リーゼが立ち止まった。
「この水色のを、一本ください」
リーゼは銅貨を数えて渡し、ちゃんとお釣りを待った。受け取った銅貨を財布にしまってから、ちらっとネルを見る。
ネルは、何も言わなかった。でも、口の端が少しだけ上がっていた。
次は、焼き菓子の屋台だった。蜂蜜をかけた丸い揚げ菓子が、山のように積まれている。
リーゼは菓子を一つじっと見て、それから屋台のおばあさんに向き直った。
「このお菓子、とてもおいしそうね。でも、四つ買うとちょっと困るの。四つで、銅貨三枚にならない?」
おばあさんは、目をぱちくりさせた。それから、しわくちゃの顔で笑った。
「上手だねえ、お嬢ちゃん。いいよ、祭りだからね」
リーゼは揚げ菓子の袋を抱えて、くるりとネルを振り返った。顔じゅうで「見た?」と言っていた。
「……まあまあね」
ネルはそう言って、袋から一つ取った。尻尾が、ぶんぶん揺れていた。
二人は春告げの樹の下で、リボンに願い事を書いた。
「ネルは、何を書いたの?」
「教えないわよ。言ったら叶わなくなるでしょ」
「じゃあ、わたしも教えない」
リーゼは、背伸びして低い枝に水色のリボンを結んだ。結び目を確かめるように、そっと指でなでる。
それから、外套のポケットからもう一本、リボンを取り出した。紺色の、飾り気のないリボンだった。
「ハンナ。これ、あなたの分よ」
少し離れて立っていたハンナさんが、目を瞬かせた。
「私は、結構です」
「だめ。ハンナの色だと思って、選んだんだから」
リーゼは、ハンナさんの手に紺色のリボンを押しつけた。ハンナさんは困ったようにそれを見下ろして、しばらく動かなかった。
やがて、ハンナさんは左手だけで、器用にリボンを枝に結んだ。何を書いたのかは、誰にも見せなかった。
結び終えたハンナさんの横顔が、ほんの少しだけ柔らかく見えた。この人がこんな顔をするのを、旅に出てから初めて見た気がする。
そのときだった。
神殿の石段を下りてきた年配の神官が、ふと足を止めた。白い髭の、背の高いおじいさんだった。リボンを結ぶリーゼの横顔を見て、その目が大きく見開かれる。
神官は、ゆっくりと胸に手を当てた。そして、深く頭を下げかけた。
ハンナさんが、一歩だけ前に出た。
何も言わなかった。神官のほうを見ただけだった。
神官の背中が、途中でぴたりと止まった。それから何事もなかったように身を起こして、人混みの中へ去っていった。
リーゼは、リボンを見上げていて気づいていない。ネルも、揚げ菓子に夢中だった。
見ていたのは、俺だけだった。
神殿の神官が、商人の娘に頭を下げかける。
(……今は、何も言わないでおこう)
南門で、自分でそう決めたんだ。俺は揚げ菓子を一つかじった。甘いはずなのに、あまり味がしなかった。
◇
夜更け、宿の裏の井戸のそばで、俺はひとりで手のひらを見つめていた。
拳くらいの泡を一つ。中に、井戸の水を少しだけ閉じこめる。揺らさないように、音も立てないように、プチフロストでゆっくりと冷やしていく。
(……一)
(……二)
数を数えながら、泡の中の水の気配を探る。まだ、凍らない。凍る手前の、ぎりぎりのところまで、静かに。
(……十一)
(……十二)
泡の中の水が、ちょうどいい冷たさになった。
指先で、ぱちんと弾く。泡の中の水が、一瞬で白い花になった。
十二。
冬のあいだに、二十から十三まで縮めた。それが今夜、やっと十二になった。でも、目標の十にはまだ届かない。
帰り道で何かあったとき、十二では遅いかもしれない。
「冷えるぞ」
声がして、振り返った。
井戸の向こうの暗がりに、灰色の外套が立っていた。ヴァルトだ。いつからそこにいたのか、まるでわからなかった。
俺は、白い花を後ろ手に隠した。手のひらの中で、氷がじわりと解けていく。
ヴァルトは、俺の手元を見なかった。夜空を見上げて、焼き栗の殻をひとつ割った。
「帰り道は、長いぞ」
それだけ言って、ヴァルトは宿の中へ戻っていった。
井戸の水面に、半分の月が揺れていた。
◇◆◇
祭りの翌朝、リーフェンの鐘は少しだけ静かだった。
幌馬車に荷物を積みこんでいると、ハンナさんが俺の横に来た。馬具の留め具を確かめるふりをして、前を向いたまま口を開く。
「リトさん」
「はい」
「帰り道で、来ます」
声は、いつもと同じように静かだった。
「その時は、お嬢さまの左を、お願いできますか」
右手を空けているハンナさんが、左を俺に頼む。それがどういう意味なのか、聞かなくてもわかった。
「はい」
ハンナさんは小さく頷いた。そして御者台に上がり、手綱を握った。
幌の中から、リーゼの明るい声がした。
「ネル、見て! 朝のほうが、リボンがきれいよ」
振り返ると、春告げの樹の枝で、何百本ものリボンが朝日に揺れていた。その中のどこかに、リーゼの水色のリボンもあるはずだった。
幌馬車が、ゆっくりと動きだした。
王都まで、馬車で三日。
ヴァルトの栗毛の馬が、いつもの距離でついてくる。
春告げの樹の灰色の枝に、気の早い小さな芽がひとつだけ、ふくらんでいた。




