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右手の空いた人


夜が白みはじめたころ、ネルが毛布から起き出してきた。


交代の時間だった。俺は焚き火に枝を一本足してから、ネルの耳に顔を寄せた。


「王都のほうの丘に、灯りがあった。俺が見てたら、消えた」


ネルは驚かなかった。焚き火に手をかざしたまま、小さく頷く。


「昼間から、ずっと同じ距離にいたわよね。ヴァルトさんの、もっと後ろ」


「気づいてたのか」


「耳がいいのよ、あたし」


ネルは、ぴんと立てた耳を指でつついてみせた。


朝の支度をしているあいだに、ハンナさんにも伝えておこうと思った。鍋を火にかけているハンナさんのそばへ行き、声を落とす。


「ハンナさん。昨日の夜、後ろの丘に――」


「承知しています」


ハンナさんは、鍋から目を離さずに答えた。左手で、ゆっくりと粥をかき混ぜている。右手は、やっぱり空いていた。


「お嬢さまには、まだ」


「はい。言いません」


「助かります」


それだけだった。ハンナさんは、俺より先に気づいていたんだ。


少し離れた木の根元では、ヴァルトが起きて焼き栗の殻をむいていた。王都から持ってきたらしい。こちらの話が聞こえていたのかどうか、顔を見てもさっぱりわからなかった。



◇


二日目の昼すぎ、街道沿いの小さな村に寄った。


広場に、雪解けを待ちかねたような市が立っていた。干し魚に、蜂蜜の壺に、去年の秋から寝かせた林檎。リーゼは幌馬車から降りるなり、目を輝かせて駆けだした。


「お嬢さま、あまり遠くへは」


ハンナさんが言い終わる前に、リーゼはもう林檎売りの屋台の前にいた。


「これ、四つちょうだい! みんなで食べるの」


リーゼは財布から銀貨を一枚出して、屋台のおばさんの手に乗せた。そして林檎を四つ抱えて、くるりと背を向けた。


おばさんが、釣り銭を手にしたまま固まっている。


ネルが、ため息をついて屋台へ向かった。銅貨を何枚か受け取ってから、リーゼを追いかける。


「お釣り。忘れてるわよ」


「あら。ありがとう」


「林檎四つで銀貨一枚なんて、ぼったくりの屋台でも取らないわ」


「そうなの?」


リーゼは、手のひらの銅貨を不思議そうに眺めた。それから、ぱっと顔を上げる。


「じゃあ、わたしにも値切り方を教えて。あなた、昨日も上手だったもの」


「昨日のは値切りじゃないわよ」


そう言いながらも、ネルはまんざらでもなさそうだった。尻尾の先が、ゆっくり揺れている。


ネルの値切り講座は、蜂蜜屋の前で始まった。まずは品物を褒める。それから、ちょっとだけ困った顔をする。最後に、もう一つ買うからと言って、端数をまけてもらう。


リーゼは真剣な顔で頷いて、隣の干し魚の屋台に向かった。


「このお魚、とても立派ね。でも、ちょっと困ったわ。銅貨一枚にならない?」


「お嬢ちゃん。それ、もともと銅貨一枚だよ」


屋台の親父が、気の毒そうに言った。


リーゼは真っ赤になって、干し魚を一枚だけ買った。幌馬車へ戻る途中、ネルは笑いをこらえるのに必死で、ずっと肩が震えていた。


(……商人の娘、か)


物の値段を知らない商人の娘。俺は林檎をかじりながら、それ以上は考えないことにした。



◇


村を出てしばらく行くと、川に突き当たった。


雪解けの水で、川幅がいつもの倍くらいに広がっているらしい。茶色い水が、ごうごうと音を立てて流れていた。


橋はない。かわりに、両岸の杭に太い綱が張ってあって、その綱をたぐって渡す平底の渡し舟があった。馬車ごと乗れる大きさだ。


「水が多いが、渡せるよ。綱を引くのは慣れてるからね」


日に焼けた渡し守が、綱を叩いて笑った。


ハンナさんが馬を舟へ引こうとしたとき、ネルが一歩前に出た。目を細めて、川の上に張られた綱を見ている。


ネルの唇が、動かずに数えているのがわかった。


(……一)


(……二)


「おじさん。その綱、真ん中あたりがほつれてるわ」


「ほつれ? そんなはずはねえよ。去年の秋に張り替えたばかりだ」


「真ん中より、ちょっと向こう岸寄り。撚りが三本のうち、一本切れかけてる」


渡し守は笑ったまま、綱をたぐって川の上へ目をこらした。しばらくして、その笑いが消えた。


「……本当だ。氷の塊でも当たったか」


ネルの言ったとおりの場所で、綱の撚りが一本、ささくれたように解けかけていた。馬車の重さが乗ったら、川の真ん中で切れていたかもしれない。


渡し守は青い顔で、小屋から替えの綱を引っぱり出してきた。張り替えには、半刻ほどかかった。


「あなた、すごいのね!」


リーゼが、ネルの手を両手で握った。


「ばあちゃんが仕立て屋なの。ほつれには目ざといのよ」


ネルは、いつもと同じことを言った。布と網と縄のほつれ。人前で言えるのは、そこまでだ。


ハンナさんは何も言わなかった。ただ、ネルのほうを一度だけ、じっと見ていた。



◇


向こう岸に着いてから、もう一つ困ったことが起きた。


岸の坂道が、雪解けの泥でぐずぐずになっていた。坂を上りかけたところで、幌馬車の左の車輪がぬかるみの溝にはまった。馬がいくら引いても、車輪は泥の中で空回りするばかりだ。


「押します」


俺は馬車の後ろに回って、荷台に肩を当てた。そのついでに、しゃがむふりをして車輪の前の泥に指先を向ける。


溝の縁に、米粒くらいの泡を一列。


(……一)


ハンナさんが手綱を軽く振った。馬が踏んばり、俺が押す。


車輪が溝の縁にかかった瞬間、つるりと滑るように泥から抜けた。拍子抜けするくらい、あっけなく。


「よかった。思ったより浅かったのね」


リーゼが、幌から顔を出して手を叩いた。


泡は、泥に紛れてすぐに消えた。誰にも見えていないはずだった。


坂の下を振り返ると、ヴァルトが馬の上から、こちらを見ていた。焼き栗を口に放りこんで、栗毛の馬の首を軽く叩く。それだけだった。


(……見てたな、あれは)


何を見ていたのかは、わからない。わからないから、余計に落ち着かなかった。



◇


その夜は、街道沿いの宿場町に泊まった。


小さな宿の食堂で、ネルはリーゼの外套を膝に広げていた。渡し舟で綱の替えを見ているとき、リーゼが杭の釘に袖を引っかけたのだ。


「じっとしてて。すぐ終わるから」


ネルの針が、するすると布をくぐっていく。リーゼは椅子の上で膝を抱えて、その手元をじっと見つめていた。


「ねえ、ネル。昨日、おばあさまに襟巻きを編んだって言ってたわよね」


「ばあちゃんじゃないわ。お世話になった宿のおかみさん。青い毛糸で編んだの」


「いいなあ」


リーゼは、ぽつりと言った。


「わたし、誰かに服を繕ってもらったこと、ないの。破けたら、新しいのが来るから」


ネルの針が、一瞬だけ止まった。


「それ、もったいないわよ」


「そうなの?」


「そうよ。破けたところを繕った服はね、繕った人のことを思い出すの。あたしの外套の肘、ばあちゃんが三回繕ってるのよ」


ネルは糸を歯で切って、外套をリーゼの膝に戻した。袖の破れは、どこにあったのかわからないくらいきれいに塞がっていた。


リーゼは繕ったところを指でなぞって、しばらく黙っていた。


「……ありがとう、ネル。これ、ずっと着るわ」


外套が膝の上で裏返ったとき、裏地の縫い目がまた見えた。ネルはそれを一瞬だけ見て、何も言わずに目をそらした。


その横顔が、少しだけ姉さんみたいに見えた。



◇


夜更け、俺は宿の裏の厩のそばで番をしていた。


宿の中なら、と思ったけれど、丘の灯りのことが頭から離れなかった。幌馬車と馬は厩の前にある。何かあるなら、ここだ。


足音がした。振り返ると、ハンナさんが立っていた。灰色の外套を羽織って、湯気の立つ木の杯を二つ持っている。


「白湯です。冷えますので」


「ありがとうございます」


ハンナさんは杯を俺に渡すと、少し離れたところに立った。座らなかった。俺の左側だった。


しばらく、二人とも黙って白湯をすすった。街道の向こうは真っ暗で、今夜は灯りは見えない。


「リトさん」


ハンナさんが、前を向いたまま言った。


「昨日から、いつも私の左側を歩いていますね」


心臓が、ひとつ跳ねた。


自分では気づいていなかった。でも、言われてみれば、そうだった。馬車の横を歩くときも、焚き火のそばでも、俺はハンナさんの右側に立たないようにしていた。


「右手、空けてるので。邪魔しちゃいけないと思って」


ハンナさんの杯が、ほんのわずかに止まった。


「……誰に、教わりました」


「父に。母と出かけるとき、父はいつも右手を空けてたんです。荷物は全部、左手で持って」


ハンナさんは、すぐには何も言わなかった。


白い息が、一つ、二つと夜に溶けていった。


「そうですか」


それだけ言って、ハンナさんは杯の白湯を飲みほした。


「その癖は、なくさないほうがいいですよ」


「はい」


「お父上は、良い方ですね」


それ以上は、何も聞かれなかった。


ハンナさんは宿の中へ戻っていった。その背中は、来たときと同じようにまっすぐだった。右手は、やっぱり空いていた。


俺は、空になった杯を見下ろした。


腕の立つ人なら、右手を空ける癖くらい、珍しくないのかもしれない。それなのに、ハンナさんのあの一瞬の間が、どうしても頭から離れなかった。



◇◆◇



翌朝は、ひどく冷えた。


宿の裏庭は一面、真っ白な霜に覆われていた。馬に水をやろうと厩の前へ出たところで、俺は足を止めた。


霜の上に、足跡があった。


街道のほうから、厩の前の幌馬車へ。馬車のまわりを半分ほど回って、そこで止まっている。それから、来た道を引き返していた。


一人分じゃない。重なり合っているけれど、靴の形が三つあった。


「ネル」


呼ぶと、ネルはすぐに来た。足跡を見て、耳がぺたりと伏せられる。


「夜のうちね。霜が降りたあと」


「俺が番をしてたのは、夜更けまでだ」


「そのあとに来て、何もしないで帰ったのよ」


何もしないで帰った。それが、いちばん気味が悪かった。


厩の陰から、灰色の外套がのそりと現れた。ヴァルトだった。片手に焼き栗の紙袋を持っている。


ヴァルトは足跡のちょうど真ん中に立って、ゆっくりと空を見上げた。


「今朝は、冷えるな」


それだけ言って、焼き栗を一つ口に放りこんだ。


リーフェンまでは、あと一日だった。






リーゼ「ネル! 今日こそ値切ってみせるわ」

ネル「最初から銅貨一枚のものは値切れないのよ」

リーゼ「じゃあ、銅貨一枚のものを、銅貨〇枚に」

ネル「それはもう、ただの泥棒よ」

ハンナ「お嬢さま」

リーゼ「……冗談よ?」

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