↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

61/100

商人の娘


出発までの七日間は、あっという間に過ぎた。


保存の利く黒パンと干し肉、それに毛布を二枚。市場で値切って買いそろえ、残りの時間は依頼をひとつだけこなした。ネルは眠り羊亭の部屋で、二人分の外套を繕い直していた。肘の擦り切れたところに当て布をして、裾のほつれを全部かがる。


「旅の途中で破けたら、恥ずかしいでしょ。護衛なんだから」


ネルはそう言って、糸を歯で切った。


前の日の夕方、ギルドの受付でミリアさんが教えてくれた。


「護衛はですね、依頼主さんを見ることから始まるんですよ。何が好きで、何が苦手で、どんなふうに歩く人なのか。私の知ってる腕のいい護衛の方は、みんなそう言ってました」


その夜、硬い寝台の上で、父さんの言葉を思い出した。


守る仕事はな、守る相手の歩き方を覚えることから始まるんだ。


村の裏山で、父さんは母さんの少し前を歩きながらそう言った。あのときは、何のことかわからなかった。今なら、少しだけわかる気がする。




◇◆◇



夜明け前の南門は、白い息でけぶっていた。


門の外の広場には、もう荷馬車がいくつも並んでいる。春が近づいて、南の街道を行き来する商人が増えはじめたらしい。その端に、くすんだ緑の幌をかけた小ぶりの幌馬車が一台だけ止まっていた。


馬車のそばに、人影が二つ。


ひとりは、地味な羊毛の外套を着た少女だった。フードを深くかぶっていて、顔は半分しか見えない。背丈はネルより少し低いくらいだ。


もうひとりは、少女の半歩後ろに立つ女の人だった。三十の手前くらいで、黒髪をきっちりとうなじでまとめている。紺色の簡素な服に、灰色の外套。背筋が、定規でも入れたみたいにまっすぐだった。


「おはようございます。ギルドから来た、仄(ほの)かな灯(ともしび)のリトです。こっちがネル」


俺が頭を下げると、少女がぱっとフードを跳ね上げた。


蜂蜜色の髪が、肩にこぼれた。若葉みたいな色の大きな目が、俺とネルを交互に見る。


「あなたたちが、護衛の人?」


「はい」


「本当に、目立たないのね!」


少女は、心の底から感心したように言った。


隣でネルの耳がぴくりと動いた。悪気がないのはわかる。わかるけれど、面と向かって言われたのは初めてだった。


「お嬢さま」


後ろの女の人が、静かに言った。それだけで、少女は「あっ」と口を押さえた。


「ご、ごめんなさい。褒めたつもりだったの。わたし、リーゼ。王都で商いをしている家の娘よ。こっちはハンナ。わたしの、ええと、身の回りのことをしてくれる人」


「ハンナと申します。道中、よろしくお願いいたします」


ハンナさんは、深く頭を下げた。頭を下げるときも、背筋は少しも曲がらなかった。


そのとき、蹄の音が近づいてきた。


痩せた栗毛の馬に、灰色の外套の男が乗っている。ヴァルトだ。馬から降りるときでさえ、鐙がほとんど鳴らなかった。


「試験官のヴァルトだ。俺は後ろからついていく。いないものと思ってくれ」


リーゼは、ヴァルトをまじまじと見上げた。


「あなたも、目立たないのね」


「よく言われる」


ヴァルトは表情ひとつ変えずに答えた。



◇


荷物を積みこむのを手伝っていたときだった。


リーゼが幌の中へ乗りこもうとして、外套の裾が大きくめくれた。ちらりと、裏地が見えた。


隣で毛布を抱えていたネルの手が、止まった。


荷物を全部積み終えて、ハンナさんが馬の様子を見に行ったあとで、ネルが俺の袖を引いた。耳元に、小さな声。


「リト。あの子の外套、商人の仕立てじゃないわ」


「どういうことだ?」


「表は、市場で売ってるような安い羊毛よ。でも裏地の縫い目が、細かすぎるの。ひと針ひと針が、まるで定規で測ったみたいにそろってる」


ネルは、幌馬車のほうをちらりと見た。


「ばあちゃんの店に、一度だけ似たような仕事が持ちこまれたことがあるの。ばあちゃんが『あたしでも、ここまでは縫えないねえ』って言ってた。王都の仕立て屋でも、上の上の、さらに上の仕事よ。それをわざわざ、安い羊毛の裏に隠してる」


いい商人は、縁起を担ぐ。ヴァルトはそう言っていた。


でも、裏地にだけ最高の仕立てを隠す商人の娘なんて、いるだろうか。


「今は、何も言わないでおこう」


「わかってる。でも、変よ」


「ああ。変だ」


依頼主には、依頼主の事情がある。俺たちだって、隠していることは山ほどある。


ネルは小さく頷いて、それ以上は何も言わなかった。



◇


幌馬車が南門をくぐろうとしたとき、門の脇の運河沿いから聞き慣れた声がした。


「よう、ハズレコンビ! どっか行くのか?」


ルカだった。骨の刃の滑り靴を肩に引っかけて、運河の仕事に向かうところらしい。


「護衛の仕事だよ。しばらく王都を空ける」


「へえ、護衛ねえ。お前らが護衛される側じゃねえのか」


ルカは前歯の欠けた口で笑いながら、幌馬車の横を通りすぎようとした。


その足が、ふっと止まった。


幌の隙間から、リーゼが外を覗いていた。目が合ったらしい。リーゼは慌ててフードを引き下ろした。


ルカは眉を寄せて、首をかしげた。


「……どっかで見た顔だな」


「え?」


「いや、どこだっけな。見たことはあるんだよ。絶対に」


ルカは額を指でとんとん叩いて、しばらく唸っていた。それから、諦めたように肩をすくめた。


「ま、いいや。気をつけて行けよ。帰ってきたら、また氷の薄いとこ教えてやる」


「もう溶けるだろ」


「じゃあ、溶けてるとこ教えてやる」


ルカは手を振って、運河のほうへ駆けていった。


俺は、その背中を見送りながら考えた。


ルカの【顔覚え】は、一度見た顔を忘れない。そのルカが、思い出せない。忘れたんじゃなくて、思い出せないんだ。


まるで、見たことはあるのに、ここにいるはずのない顔みたいに。




◇◆◇



南の街道は、雪解けの泥でぬかるんでいた。


馬車の手綱は、ハンナさんが握っていた。侍女が御者まで務めるのかと驚いたけれど、ハンナさんの手綱さばきは、商隊の御者よりもずっとうまかった。


俺とネルは、馬車の左右を歩いた。ヴァルトは言葉どおり、ずっと後ろだ。振り返るたびに、灰色の外套がちょうど同じ距離にいる。


リーゼは、すぐに幌の中でじっとしていられなくなった。


「ねえ、ネル。あなたの尻尾、触ってもいい?」


「銅貨一枚」


ネルがいつもの調子で返すと、リーゼは「わかったわ」と真顔で頷いた。そして本当に、外套の内側から財布を取り出そうとした。


「お嬢さま」


御者台から、ハンナさんの声が飛んだ。リーゼの手が、ぴたりと止まる。


「……冗談だったのね?」


「冗談よ」


ネルは呆れたように言ってから、少しだけ尻尾をリーゼのほうへ揺らしてやった。


「ちょっとだけなら、タダでいいわよ」


リーゼの顔が、ぱあっと明るくなった。尻尾の先に指先で触れて、目を丸くする。


「ふわふわ……!」


「当たり前でしょ。毎朝、梳かしてるんだから」


昼は、街道沿いの小川のほとりで休んだ。


黒パンと干し肉を分けると、リーゼは干し肉をしげしげと眺めてから、恐る恐るかじった。そして、しばらく噛み続けた。噛んでも噛んでも、なかなか飲みこめないらしい。


「これ、ずっと噛んでいるものなの?」


「飲みこめるまで噛むんですよ」


「顎が、疲れるのね……」


それでもリーゼは、最後まで文句を言わずに食べきった。指についた塩を舐めて、ちょっと笑う。


「でも、おいしい。外で食べるごはんって、こんな味なのね」


その言い方が、なんだか引っかかった。


商人の娘なら、旅くらいしたことがあるはずだ。外で食べるのが初めてみたいな言い方は、少しだけおかしい。



◇


日が傾くころ、街道脇の空き地で野営の支度をした。


薪を集めながら、俺はずっとハンナさんを見ていた。


ハンナさんは、いつもリーゼと街道のあいだに立っている。リーゼが小川へ水を汲みに行けば、ハンナさんはその少し後ろ、森の側に立つ。リーゼが焚き火のそばに座れば、ハンナさんは暗いほうを背にして座る。


それに、右手だ。


馬の世話をするときも、鍋をかき回すときも、ハンナさんは左手しか使わなかった。右手は、いつも空いている。


(……父さんと、同じだ)


村にいたころ、父さんは母さんと出かけるとき、必ず右手を空けていた。荷物は全部左手で持つ。俺が「なんで?」と聞いたら、父さんは笑ってごまかした。


今なら、わかる。


右手は、剣を抜くための手だ。


焚き火の向こうで、ネルと目が合った。ネルは小さく、首を横に振った。たぶん、ネルも何かに気づいている。今は何も言わない。そういう顔だった。



◇


夜番は、俺が先だった。


焚き火を小さく保ちながら、毛布にくるまって街道を眺める。幌の中からは、リーゼの寝息がかすかに聞こえた。少し離れた木の根元では、ヴァルトが外套にくるまって目を閉じている。本当に眠っているのかは、わからない。


風が、冷たかった。


何の気なしに、来た道を振り返った。


王都の方角。暗い街道の向こう、ゆるやかな丘の上に、小さな灯りが一つ見えた。


焚き火だろうか。それともランタンか。


そういえば、昼間も後ろに何かがいた気がする。振り返るたびに、ずっと同じくらいの距離に、小さな人影のようなものが。ヴァルトの影に隠れて、気にも留めていなかった。


丘の上の灯りを、じっと見つめた。


(……一)


(……二)


灯りが、ふっと消えた。


風で消えたにしては、あまりにもあっけなかった。まるで、こちらが見ていることに気づいたみたいに。


俺は、焚き火にそっと枝を足した。


春の夜は、まだ長かった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。