商人の娘
出発までの七日間は、あっという間に過ぎた。
保存の利く黒パンと干し肉、それに毛布を二枚。市場で値切って買いそろえ、残りの時間は依頼をひとつだけこなした。ネルは眠り羊亭の部屋で、二人分の外套を繕い直していた。肘の擦り切れたところに当て布をして、裾のほつれを全部かがる。
「旅の途中で破けたら、恥ずかしいでしょ。護衛なんだから」
ネルはそう言って、糸を歯で切った。
前の日の夕方、ギルドの受付でミリアさんが教えてくれた。
「護衛はですね、依頼主さんを見ることから始まるんですよ。何が好きで、何が苦手で、どんなふうに歩く人なのか。私の知ってる腕のいい護衛の方は、みんなそう言ってました」
その夜、硬い寝台の上で、父さんの言葉を思い出した。
守る仕事はな、守る相手の歩き方を覚えることから始まるんだ。
村の裏山で、父さんは母さんの少し前を歩きながらそう言った。あのときは、何のことかわからなかった。今なら、少しだけわかる気がする。
◇◆◇
夜明け前の南門は、白い息でけぶっていた。
門の外の広場には、もう荷馬車がいくつも並んでいる。春が近づいて、南の街道を行き来する商人が増えはじめたらしい。その端に、くすんだ緑の幌をかけた小ぶりの幌馬車が一台だけ止まっていた。
馬車のそばに、人影が二つ。
ひとりは、地味な羊毛の外套を着た少女だった。フードを深くかぶっていて、顔は半分しか見えない。背丈はネルより少し低いくらいだ。
もうひとりは、少女の半歩後ろに立つ女の人だった。三十の手前くらいで、黒髪をきっちりとうなじでまとめている。紺色の簡素な服に、灰色の外套。背筋が、定規でも入れたみたいにまっすぐだった。
「おはようございます。ギルドから来た、仄かな灯のリトです。こっちがネル」
俺が頭を下げると、少女がぱっとフードを跳ね上げた。
蜂蜜色の髪が、肩にこぼれた。若葉みたいな色の大きな目が、俺とネルを交互に見る。
「あなたたちが、護衛の人?」
「はい」
「本当に、目立たないのね!」
少女は、心の底から感心したように言った。
隣でネルの耳がぴくりと動いた。悪気がないのはわかる。わかるけれど、面と向かって言われたのは初めてだった。
「お嬢さま」
後ろの女の人が、静かに言った。それだけで、少女は「あっ」と口を押さえた。
「ご、ごめんなさい。褒めたつもりだったの。わたし、リーゼ。王都で商いをしている家の娘よ。こっちはハンナ。わたしの、ええと、身の回りのことをしてくれる人」
「ハンナと申します。道中、よろしくお願いいたします」
ハンナさんは、深く頭を下げた。頭を下げるときも、背筋は少しも曲がらなかった。
そのとき、蹄の音が近づいてきた。
痩せた栗毛の馬に、灰色の外套の男が乗っている。ヴァルトだ。馬から降りるときでさえ、鐙がほとんど鳴らなかった。
「試験官のヴァルトだ。俺は後ろからついていく。いないものと思ってくれ」
リーゼは、ヴァルトをまじまじと見上げた。
「あなたも、目立たないのね」
「よく言われる」
ヴァルトは表情ひとつ変えずに答えた。
◇
荷物を積みこむのを手伝っていたときだった。
リーゼが幌の中へ乗りこもうとして、外套の裾が大きくめくれた。ちらりと、裏地が見えた。
隣で毛布を抱えていたネルの手が、止まった。
荷物を全部積み終えて、ハンナさんが馬の様子を見に行ったあとで、ネルが俺の袖を引いた。耳元に、小さな声。
「リト。あの子の外套、商人の仕立てじゃないわ」
「どういうことだ?」
「表は、市場で売ってるような安い羊毛よ。でも裏地の縫い目が、細かすぎるの。ひと針ひと針が、まるで定規で測ったみたいにそろってる」
ネルは、幌馬車のほうをちらりと見た。
「ばあちゃんの店に、一度だけ似たような仕事が持ちこまれたことがあるの。ばあちゃんが『あたしでも、ここまでは縫えないねえ』って言ってた。王都の仕立て屋でも、上の上の、さらに上の仕事よ。それをわざわざ、安い羊毛の裏に隠してる」
いい商人は、縁起を担ぐ。ヴァルトはそう言っていた。
でも、裏地にだけ最高の仕立てを隠す商人の娘なんて、いるだろうか。
「今は、何も言わないでおこう」
「わかってる。でも、変よ」
「ああ。変だ」
依頼主には、依頼主の事情がある。俺たちだって、隠していることは山ほどある。
ネルは小さく頷いて、それ以上は何も言わなかった。
◇
幌馬車が南門をくぐろうとしたとき、門の脇の運河沿いから聞き慣れた声がした。
「よう、ハズレコンビ! どっか行くのか?」
ルカだった。骨の刃の滑り靴を肩に引っかけて、運河の仕事に向かうところらしい。
「護衛の仕事だよ。しばらく王都を空ける」
「へえ、護衛ねえ。お前らが護衛される側じゃねえのか」
ルカは前歯の欠けた口で笑いながら、幌馬車の横を通りすぎようとした。
その足が、ふっと止まった。
幌の隙間から、リーゼが外を覗いていた。目が合ったらしい。リーゼは慌ててフードを引き下ろした。
ルカは眉を寄せて、首をかしげた。
「……どっかで見た顔だな」
「え?」
「いや、どこだっけな。見たことはあるんだよ。絶対に」
ルカは額を指でとんとん叩いて、しばらく唸っていた。それから、諦めたように肩をすくめた。
「ま、いいや。気をつけて行けよ。帰ってきたら、また氷の薄いとこ教えてやる」
「もう溶けるだろ」
「じゃあ、溶けてるとこ教えてやる」
ルカは手を振って、運河のほうへ駆けていった。
俺は、その背中を見送りながら考えた。
ルカの【顔覚え】は、一度見た顔を忘れない。そのルカが、思い出せない。忘れたんじゃなくて、思い出せないんだ。
まるで、見たことはあるのに、ここにいるはずのない顔みたいに。
◇◆◇
南の街道は、雪解けの泥でぬかるんでいた。
馬車の手綱は、ハンナさんが握っていた。侍女が御者まで務めるのかと驚いたけれど、ハンナさんの手綱さばきは、商隊の御者よりもずっとうまかった。
俺とネルは、馬車の左右を歩いた。ヴァルトは言葉どおり、ずっと後ろだ。振り返るたびに、灰色の外套がちょうど同じ距離にいる。
リーゼは、すぐに幌の中でじっとしていられなくなった。
「ねえ、ネル。あなたの尻尾、触ってもいい?」
「銅貨一枚」
ネルがいつもの調子で返すと、リーゼは「わかったわ」と真顔で頷いた。そして本当に、外套の内側から財布を取り出そうとした。
「お嬢さま」
御者台から、ハンナさんの声が飛んだ。リーゼの手が、ぴたりと止まる。
「……冗談だったのね?」
「冗談よ」
ネルは呆れたように言ってから、少しだけ尻尾をリーゼのほうへ揺らしてやった。
「ちょっとだけなら、タダでいいわよ」
リーゼの顔が、ぱあっと明るくなった。尻尾の先に指先で触れて、目を丸くする。
「ふわふわ……!」
「当たり前でしょ。毎朝、梳かしてるんだから」
昼は、街道沿いの小川のほとりで休んだ。
黒パンと干し肉を分けると、リーゼは干し肉をしげしげと眺めてから、恐る恐るかじった。そして、しばらく噛み続けた。噛んでも噛んでも、なかなか飲みこめないらしい。
「これ、ずっと噛んでいるものなの?」
「飲みこめるまで噛むんですよ」
「顎が、疲れるのね……」
それでもリーゼは、最後まで文句を言わずに食べきった。指についた塩を舐めて、ちょっと笑う。
「でも、おいしい。外で食べるごはんって、こんな味なのね」
その言い方が、なんだか引っかかった。
商人の娘なら、旅くらいしたことがあるはずだ。外で食べるのが初めてみたいな言い方は、少しだけおかしい。
◇
日が傾くころ、街道脇の空き地で野営の支度をした。
薪を集めながら、俺はずっとハンナさんを見ていた。
ハンナさんは、いつもリーゼと街道のあいだに立っている。リーゼが小川へ水を汲みに行けば、ハンナさんはその少し後ろ、森の側に立つ。リーゼが焚き火のそばに座れば、ハンナさんは暗いほうを背にして座る。
それに、右手だ。
馬の世話をするときも、鍋をかき回すときも、ハンナさんは左手しか使わなかった。右手は、いつも空いている。
(……父さんと、同じだ)
村にいたころ、父さんは母さんと出かけるとき、必ず右手を空けていた。荷物は全部左手で持つ。俺が「なんで?」と聞いたら、父さんは笑ってごまかした。
今なら、わかる。
右手は、剣を抜くための手だ。
焚き火の向こうで、ネルと目が合った。ネルは小さく、首を横に振った。たぶん、ネルも何かに気づいている。今は何も言わない。そういう顔だった。
◇
夜番は、俺が先だった。
焚き火を小さく保ちながら、毛布にくるまって街道を眺める。幌の中からは、リーゼの寝息がかすかに聞こえた。少し離れた木の根元では、ヴァルトが外套にくるまって目を閉じている。本当に眠っているのかは、わからない。
風が、冷たかった。
何の気なしに、来た道を振り返った。
王都の方角。暗い街道の向こう、ゆるやかな丘の上に、小さな灯りが一つ見えた。
焚き火だろうか。それともランタンか。
そういえば、昼間も後ろに何かがいた気がする。振り返るたびに、ずっと同じくらいの距離に、小さな人影のようなものが。ヴァルトの影に隠れて、気にも留めていなかった。
丘の上の灯りを、じっと見つめた。
(……一)
(……二)
灯りが、ふっと消えた。
風で消えたにしては、あまりにもあっけなかった。まるで、こちらが見ていることに気づいたみたいに。
俺は、焚き火にそっと枝を足した。
春の夜は、まだ長かった。




