灰色の外套の名前
あの日から、俺たちに絡んでくる冒険者はいなくなった。
ホールで目が合うと、向こうから先に逸らす。掲示板の前で肩がぶつかりそうになると、大男のほうが道を空ける。誰も口には出さないけれど、「あのハズレコンビに絡むと、ろくなことがない」という噂は、ひと冬かけて王都のギルドにすっかり染みこんでいた。
「便利ね、これ」
ネルは満足そうに尻尾を揺らしていた。
「便利って言うな」
「だって、行列に並ばなくていいのよ? 前の人が勝手に譲ってくれるんだもの」
それは便利というより、避けられているだけだと思う。
◇◆◇
冬の残りは、地味な依頼で埋まっていった。
中層区の屋根の雪下ろしに、凍った運河の氷割り、下水路の見回り。どれもEランクの、誰もやりたがらない仕事だ。報酬は安いけれど、寒さには慣れた。ミルヴェールの湯道に比べれば、王都の雪なんてかわいいものだった。
運河の氷割りの日には、ルカが骨の刃の滑り靴で氷の上を滑ってきた。
「よう、ハズレコンビ。今日も地味な仕事してんな」
「お前こそ、何してるんだよ」
「チビたちに滑り方を教えてんだよ。借りは返す主義だからな。お前らの見回りのとき、氷の薄いとこ教えてやるよ」
ルカは前歯の欠けた口で笑うと、それだけ言ってまた滑っていった。教えてもらった氷の薄いところは、本当に全部薄かった。
仕事の合間には、石切り場へ通った。
すり鉢の底の池はかちかちに凍っていて、ネルはその上に転がした小石の「線」を見る稽古をした。俺は、過冷却の稽古だ。
泡の中の水を、揺らさずに冷やす。急げば泡が揺れて、水は凍らない。かといってのんびりしていたら、実戦では間に合わない。
二十が、十八になった。十八が、十五になった。
冬の終わりには、十三まで縮んだ。
(……十三)
岩の上に、白い氷の花がぱっと咲く。
「縮んだわね」
「まだだ。十がいい」
「欲張り」
「ネルに言われたくない」
ネルは「うっさい」と言いながら、尻尾で俺の背中をはたいた。
夜は、眠り羊亭の部屋でネルが毛糸を編んでいた。冬至の市で買った、青い毛糸だ。
ミルヴェールのマーサさんに送る襟巻きで、編み目はばあちゃん仕込みらしく、ひと目も乱れていなかった。網の繕いのお礼だと言っていたけれど、たぶんネルは、ただ編みたかったんだと思う。
襟巻きは、ポーラさん宛ての手紙と一緒に荷馬車へ預けた。ちゃんと届くといい。
◇◆◇
その朝は、雫の音で目が覚めた。
ぽた、ぽた、と軒先から何かが落ちている。窓を開けると、屋根の雪が陽に溶けて、つららの先から光る粒がこぼれていた。通りの雪も、ところどころ茶色い土が顔を出している。
冬が、終わろうとしていた。
ギルドのホールに入ると、受付のミリアさんが俺たちを見つけて、ぶんぶんと手を振った。いつもより、手の振り方が大きい。
「リトさん、ネルさん! ちょうどよかった。お待ちしてたんです」
ミリアさんは分厚い帳面を開くと、細い指で一行ずつなぞっていった。【記帳】で全部覚えているはずなのに、わざわざ帳面を見せてくれるのは、たぶん俺たちに見せたいからだ。
「昨日の下水路の見回りで、規定の数に届きました。ミルヴェール支部の依頼も、ちゃんと数に入っています」
ミリアさんは帳面から顔を上げて、にっこりと笑った。
「おめでとうございます。Dランク昇格試験の、受験資格です」
隣で、ネルの尻尾がぶわっと膨らんだ。
それから、左右にぶんぶん揺れはじめた。止めようとしているのか、ネルが外套の上から尻尾を押さえている。押さえきれていない。
「別に。当然よ、これくらい」
「尻尾が」
「うっさい」
ミリアさんがくすくす笑った。
「冬のあいだ、お二人ともずっと地味な依頼ばかりでしたもんね。私、ちゃんと全部覚えてますよ」
その言い方が、なんだか少しだけくすぐったかった。
◇
ところが、ミリアさんの笑顔がふっと曇った。
「それで、試験のことなんですけど」
ミリアさんは声を落とした。
「試験官の方が、もう決まっているんです。それも、お二人を名指しで」
「名指し?」
「はい。Eランクの昇格試験で試験官のほうから指名があるなんて、私、受付になってから初めてで」
背中が、ひやりとした。
ギルドマスターの言葉を思い出す。厄介な試験官がつくかもしれない。あれは、冗談でも脅しでもなかったらしい。
「どんな人なんですか?」
「ええと、それが――」
「呼んだか」
すぐ後ろで、声がした。
振り返ると、受付の前の長椅子に男がひとり座っていた。くたびれた灰色の外套に、使いこんだ短剣が一本。四十を少し過ぎたくらいの、どこにでもいそうな顔だ。膝の上には、焼き栗の紙袋が載っている。
いつから、そこにいたんだ。
俺たちがホールに入ったときには、その長椅子には誰もいなかったはずだ。座る音も、歩く音も聞こえなかった。
ネルの尻尾が、ぴたりと止まっていた。
男は紙袋から焼き栗をひとつ取り出すと、器用に片手で殻を割った。
「食うか」
差し出された焼き栗を見て、ネルの目がわずかに見開かれた。
冬至の夜。運河の橋の手すりに、焼き栗の殻がひとつだけ置かれていた。誰かがそこで、俺たちを見ていた跡だ。ネルも同じことを思い出したのが、横顔でわかった。
「いただきます」
俺が受け取ると、男はほんの少しだけ口の端を上げた。
「ヴァルトだ。今回の試験官をやる」
ヴァルトは立ち上がって、外套の裾を払った。立ち上がるときでさえ、椅子が軋む音ひとつしなかった。
「リトと、ネルだな。よろしく頼む」
「よろしくお願いします」
「……よろしく」
ネルの声は、いつもより一段低かった。
ヴァルトはミリアさんに目をやった。
「試験の中身は、俺から話していいか」
「は、はい。お願いします」
◇
ヴァルトは、掲示板の脇の小さな卓に俺たちを座らせた。
「実地試験は、護衛だ」
卓の上に、一枚の依頼書が置かれた。
「依頼主は、商人の娘だ。王都から馬車で三日、春告げの祭りがあるリーフェンの神殿まで送り届ける。出発は七日後。祭りが終わるまで向こうで待って、王都まで連れて帰る」
「商人の娘さんの、護衛……」
「祭りに合わせて、神殿へ詣でたいそうだ。いい商人は、縁起を担ぐ」
ヴァルトは、依頼書のいちばん下の一行を指で叩いた。
「条件がひとつある。名の知れていない、目立たない冒険者であること」
思わず、ネルと顔を見合わせた。
名の知れていない、目立たない冒険者。チビ種火と、荷物持ちの狐。王都のギルドを探しても、これほど条件にぴったりの二人はいないだろう。
(……俺たちのためにあるような条件だな)
心の中で呟いたら、ネルが卓の下で俺の足を軽く蹴った。たぶん、同じことを考えていたんだと思う。
「目立つ護衛をつけると、かえって狙われる。そういう考えの依頼主もいる」
ヴァルトは、淡々と続けた。
「試験官の俺も同行する。お前たちが護衛として動けるかどうかを、横で見させてもらう。俺は手を出さない。よほどのことがない限りな」
「よほどのこと、って」
「よほどのことだ」
それ以上の説明は、なかった。
ヴァルトは依頼書を折りたたんで、外套の内側にしまった。それから立ち上がり、俺たちの横を通りすぎる。
すれ違いざま、俺の耳元でだけ聞こえる声がした。
「暖炉の前は、冷えるな」
足が、止まりそうになった。
振り返ったときには、ヴァルトはもう扉のほうへ歩いていた。灰色の背中が、人混みにまぎれる。足音は、やっぱり一つも聞こえなかった。
「リト?」
ネルが、俺の袖を引いた。
「今の、何て言われたの?」
「暖炉の前は、冷えるなって」
ネルは眉を寄せた。それから、ホールの奥の暖炉を見た。今日は火が細く、赤い熾火がちろちろと燃えているだけだ。
「……あの人、全部見てたのかしら」
「わからない」
本当に、わからなかった。
責めるでもなく、問いただすでもない。ただ、見ていると伝えてきた。それがいちばん怖かった。
◇
ギルドの二階、いちばん奥の執務室。
窓の外では、つららから落ちる雫が陽を弾いていた。岩を削ったような顔の大男が、窓辺に立ってホールを見下ろしている。
扉が開く音は、しなかった。
「どうだ」
ギルドマスターは振り返らずに言った。いつのまにか、部屋の隅の椅子に灰色の外套の男が座っていた。
「まだ、何も見えん」
ヴァルトは焼き栗の殻を割りながら答えた。
「お前がか」
「ああ」
ヴァルトは、割った栗を口に放りこんだ。
「坊主のほうは、隠すのがうまい。狐のほうは、隠すのが下手なくせに、肝心なところだけは見せない。二人そろうと、余計に見えん」
「それで、わざわざ試験官を買って出たのか」
「冬の試験官が足りないと、泣きついてきたのはお前だろう」
ギルドマスターは、小さく鼻を鳴らした。
ヴァルトは窓の外に目をやった。ホールの片隅で、ちっぽけな少年と狐耳の娘が、何やら小声で言い合っている。
「何も見えん」
ヴァルトはもう一度そう言うと、口の端をわずかに上げた。
「だから、面白い」




