↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

59/100

暖炉の前の床


ホールのざわめきが引いていくのが、肌でわかった。


暖炉の薪がはぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。大男は鉄槌を背中に担ぎなおすと、床板を鳴らしてこちらへ歩いてきた。近くで見ると、俺より頭二つぶん背が高い。


「やっぱりそうだ。その顔、覚えてるぜ。荷車の後ろでひいひい言ってたガキだ」


「お久しぶりです」


俺が頭を下げると、大男は鼻で笑った。それから振り返って、ホールじゅうに聞こえる声を張り上げた。


「おい、聞けよお前ら。こいつはな、俺たちが護衛してた商隊の雑用係だったんだ」


暖炉の前の長椅子では、残りの三人がにやにや笑っている。真ん中の席にふんぞり返っているのは、大剣を膝に立てかけた男だった。商隊でいちばん偉そうにしていた、あのリーダーだ。止める気は、まるでないらしい。


「街道でな、ロックリザードが出たんだよ。Dランクの、甲羅がやたら硬いやつだ。商隊の連中は腰を抜かしてたが、俺たちが前に出た途端、あいつは足をもつれさせてひっくり返った」


大男は太い腕を振り上げて、見えない何かを叩き潰す仕草をした。


「そこを、このダグ様の鉄槌でドカンだ。背甲は王都で銀貨十枚になった。なあ、ガキ。お前も見てたよな?」


「はい。見てました」


見ていた。いちばん近くで。


あの日、ロックリザードの右前脚の下に米粒ほどの泡を敷いたのは俺だ。あいつは勝手に足をもつれさせたわけじゃない。転ばせてもらったんだ。


喉まで出かかった言葉を、あの日と同じように飲みこんだ。


(……いいんだ、これで)


ダグは満足そうに頷いた。けれど次の瞬間には、目つきが変わっていた。


「で、だ。その雑用のガキが、ギルドマスターから報奨をもらったって?」


ホールのあちこちから、そうだそうだと声が上がる。さっき「贔屓だろ」と言っていた男たちだ。


「Eランクが報奨だぞ。笑わせんな。どうせどこかで、誰かの手柄を拾ったんだろ」


ネルの尻尾が、ぴくりと跳ねた。


俺は、肩をすくめた。


「たまたまですよ」


「あぁ?」


「たまたま人手の足りない街にいて、たまたま網の繕いと湯道の点検を頼まれただけです。寒かったですよ」


それ以上は、何も言わなかった。


ダグは何か言い返そうとして、口を開けたまま止まった。湯道の点検に、網の繕い。突っこむところが、どこにもない話だ。ホールの空気も「なんだ、雑用か」とでも言いたげに、少しだけ冷めていく。


(手柄を拾ったのは、どっちだよ)


心の中でだけ、そう付け足した。



◇


ダグの顔が、じわじわと赤くなった。流されたのが気に入らないらしい。


舌打ちをひとつして、ダグの目が俺の隣へ滑った。


「そっちの狐は何だ。荷物持ちか」


「パーティの仲間です」


「仲間ねえ」


ダグは、ネルの頭のてっぺんから尻尾の先までをじろじろと眺めまわした。


「どうせギルドマスターの前で尻尾振って、銀貨をねだったんだろ。獣人の娘は、そういうのが得意だからな」


長椅子の三人が、どっと笑った。


ネルは何も言わなかった。ただ、外套の内側で革袋を握る手に、ぎゅっと力が入ったのがわかった。


「なあ、狐。その銀貨、ちょっと見せてみろよ。あのとき、こいつに雑用をさせてやった礼ってことで、半分くらい――」


ダグの太い手が、ネルの外套の合わせ目へ伸びた。


その瞬間、ネルの尻尾がぴたりと止まった。


止まったまま、動かない。琥珀色の目が、すうっと細くなる。


俺には、ネルが何をしているのかわかった。数えているんだ。


(……一)


(……二)


ネルの視線が、ダグの腰で止まった。鉄槌の背負い紐と太い革のベルトを、まとめて留めている麻の紐。使いこまれて、毛羽立った紐だった。


俺はネルの前に半歩出た。ダグの手が、俺の胸に当たって止まる。


「やめてください」


「どけよ、雑用」


ダグの手に力がこもった。そのとき、ネルが俺の外套の背中を、指先で二回つついた。


見えた、の合図だ。



◇


「そこまでにしておけ」


よく通る声が、ホールの奥から響いた。


階段の上から、レオンが下りてくるところだった。白銀の軽鎧に、家紋の入った長剣。いつもの取り巻きは連れていない。一段ずつ、ゆっくりと。


ホールが、別の意味で静まり返った。


「け、剣聖……」


誰かが呟いた。レオンは階段を下りきると、まっすぐこちらへ歩いてきて、俺とダグのあいだで足を止めた。


「そいつらに絡むなら、俺を通してからにしろ」


ダグの顔が、赤から白へ、白からまた赤へと変わった。


相手は伯爵家の三男で、【剣聖】で、今はダグと同じDランクだ。ホールじゅうの目が見ている。ここで引けば、『赤き鉄槌』の名が笑われる。


「ガキが、剣聖様に守ってもらうのかよ」


ダグは吐き捨てると、背中の鉄槌の柄に手をかけた。抜く気はないだろう。ただの脅しだ。それでも大男が鉄槌を担いで一歩踏み出せば、それだけで十分な迫力がある。


ダグの右足が、床から浮いた。


俺は、外套の陰で指先を動かした。


暖炉のいちばん前の床に、米粒ほどの滑り泡(スリップバブル)をひとつ。


ダグの右足が、ちょうどその上に下りた。


つるり、と。


大男の体が、ふわりと浮いた。


あの日のロックリザードと、まったく同じ転び方だった。足だけが前へ滑って、上半身が置いていかれる。鉄槌の重さに引っぱられて、ダグは背中から床に叩きつけられた。


どすん、と床板が揺れた。


ぷつん。


小さな音がした。ダグの腰から、麻の紐がはらりとほどけて落ちる。留めを失った太いベルトが、鉄槌の背負い紐ごとずるりと滑った。


ダグが慌てて起き上がろうとした。


それが、いけなかった。


立ち上がった拍子に、ズボンが膝まで落ちた。


下から、真っ赤な下穿きが現れた。


ホールが、一瞬だけ静まり返った。


それから、誰かが吹き出した。


「『赤き鉄槌』って、そっちの赤かよ!」


爆笑が、ホールの天井まで突き抜けた。掲示板の前の冒険者も、受付に並んでいた新人も、さっき贔屓だと言っていた男たちまで、腹を抱えて笑っている。長椅子のリーダーは大剣を膝に立てたまま、顔を手で覆っていた。


ダグは真っ赤な顔でズボンを引き上げようとして、ベルトがないことに気づいて固まった。


ネルが、床に落ちた麻の紐を拾い上げた。


「ほつれてたわよ」


ネルは紐をダグの目の前にぶら下げて、にっこりと笑った。


「直してあげましょうか? 銅貨一枚で」


笑い声が、もうひと回り大きくなった。


ダグは紐をひったくると、ズボンを両手で押さえたまま長椅子へ戻っていった。残りの三人も荷物をかき集めて、そそくさと立ち上がる。四人の背中が扉の向こうへ消えるまで、ホールの笑いはやまなかった。


「見たかよ。剣聖が出てきただけで、腰抜かしやがった」


「さすが剣聖様だな。剣も抜かずに、Dランクを転がしちまった」


噂は、もう勝手に転がりはじめていた。



◇


レオンは、その場から一歩も動いていなかった。


ダグが消えた扉を見て、それから床を見下ろした。暖炉のいちばん前、ダグが足を滑らせたあたりに、手のひらほどの小さな水の染みがある。


「俺は、何もしていない」


レオンが、低い声で言った。


「剣も抜いていない。睨んでもいない。あいつが勝手に転んだ」


レオンの青い目が、俺に向いた。


「お前もか?」


「何もしてないですよ。床が濡れてたんです」


「暖炉の前がか」


「雪の日ですから」


レオンは黙って、もう一度床の染みを見た。それから、ネルの手元に目をやった。ネルは何食わぬ顔で、外套の内側の革袋を確かめている。尻尾は機嫌よく、ゆらゆらと揺れていた。


レオンは、長く息を吐いた。


「隠したまま、か」


冬至の夜に聞いた言葉だった。


レオンはそれ以上何も聞かず、くるりと背を向けた。


「あの、レオン」


「何だ」


「ありがとうございました。来てくれて」


レオンの肩が、ぴくりと動いた。振り返った顔は、ひどく嫌そうにしかめられていた。


「礼を言うな。お前たちが潰されたら、俺が困るだけだ。答えをもらう前に、どこかの馬鹿に横取りされてたまるか」


それだけ言うと、レオンは足早に扉へ向かっていった。耳の先が、ほんの少しだけ赤かった気がする。


ネルが、俺の袖を引いた。


「ねえ、リト。あの人、照れてた?」


「……たぶん」


「ふうん」


ネルは、ちょっとだけ笑った。


ホールのざわめきが、少しずつ元に戻っていく。暖炉の前の長椅子には別の冒険者たちがさっそく座りこんで、さっきの話を蒸し返していた。


「しかし、あのハズレコンビに絡むと、ろくなことがねえな」


「前にも誰か、あいつらの前ですっ転んでなかったか?」


「知らねえよ。たまたまだろ」


たまたま、か。


俺は、少しだけ笑った。



◇


昼を過ぎると、ホールの人はまばらになった。


暖炉の薪は燃えつきかけて、赤い熾火だけが静かに光っている。朝の騒ぎを話題にする者は、もうほとんどいない。


ホールの隅から、灰色の外套の男がひとり歩み出た。


男は、暖炉の前で足を止めた。誰も、男が近づいたことに気づかなかった。足音が、一つもしなかったからだ。


男はしゃがみこんで、床板に指を伸ばした。染みは、もうほとんど乾きかけている。指先でなぞると、ほんのわずかに湿った感触が残った。


「……暖炉のいちばん前は、いつも乾いているんだがな」


誰に聞かせるでもなく、男は呟いた。


使いこんだ短剣の柄にそっと手を置いて、男は立ち上がった。どこにでもいそうな顔だった。ただ、目だけが違っていた。


男は、来たときと同じように、音もなくホールから消えていった。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

『赤き鉄槌』のみなさん、お疲れさまでした。

そして、暖炉の前にしゃがみこむあの人。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。