氷上市
寒さが、一晩でひとつ深くなった。
朝、宿の井戸の水が凍っていた。桶を落とすと、こん、と固い音がして跳ね返ってくる。女将さんが「今年は早いねえ」と言いながら、鍋で湯を沸かして氷を溶かしていた。
ギルドの掲示板には、新しい依頼が一枚増えていた。
『氷上市の見回り(スリ・迷子の対策) 一日 大銅貨八枚』
「氷上市?」
俺が首を傾げると、隣でネルの狐耳がぴんと立った。
「大運河が凍ったのね。もう、そんな時期なんだ」
「運河の上に、市が立つのか」
「そうよ。冬にいちばん冷えこんだころ、運河が端から端まで凍るの。そしたら、その上に屋台がずらっと並ぶのよ。焼き栗に、温めた葡萄汁に、氷の彫刻に」
ネルの尻尾が、ゆらゆらと揺れはじめた。
「一日歩き回って、大銅貨八枚。しかも屋台が見放題」
「見るだけだぞ」
「わかってるわよ」
ネルは依頼書を剥がして、カウンターへまっすぐ歩いていった。尻尾は、まだ揺れていた。
◇
王都の真ん中を、大運河が東西に貫いている。
いつもなら荷を積んだ小舟が行き交っている水路が、今朝は端から端まで白く凍りついていた。その上に、色とりどりの天幕がずらりと並んでいる。
焼き栗を炒る甘い匂い。煮えた葡萄汁の湯気。呼び込みの声と、子どもたちの笑い声。氷の上を、骨の刃をつけた靴で人々がすいすいと滑っていく。
俺は、運河の石段の一番下で立ち止まった。
「……どうしたのよ」
「いや」
氷の上に、片足を乗せてみる。つるりと滑って、慌てて引っこめた。
コルー村は南の果てだ。冬でも、池に薄い氷が張るくらいだった。こんなに分厚い氷の上を歩いたことなんて、一度もない。
ネルが、俺の顔をまじまじと見た。
それから、にやあっと笑った。
「あんた、氷の上、初めてなのね」
「……南の生まれなんだよ」
「へえ。ふうん。そうなんだ」
ネルは軽い足取りで氷の上に下りると、くるりと振り返った。少しも滑らない。膝を軽く曲げて、氷の上を歩くというより、すべるように進んでいく。
「王都っ子なめないでよね。ばあちゃんと、毎年来てたんだから」
「毎年?」
「焼き栗、一年に一個だけ買ってもらえたの。それが楽しみで」
ネルは少しだけ遠い目をして、すぐに手を差し出した。
「ほら。つかまんなさいよ」
「いや、大丈夫だ」
一歩踏み出した。二歩目で足が前に滑って、三歩目で尻もちをついた。
近くの屋台のおばさんが、遠慮なく笑った。
「……つかまる」
「最初から、そう言いなさいよ」
ネルの手は、手袋越しにも温かかった。
泡を使えば、たぶん足の裏に貼りつけて滑り止めくらいにはできる。でも、それをやったら負けな気がした。
依頼主は、氷上市の世話役のおじさんだった。禿げ頭に毛糸の帽子をかぶって、首から大きな鈴を提げている。
「ギルドの見回りか。助かるよ。この時期は人が多くて、スリが増えるんだ。それと迷子な。何かあったら、この鈴を鳴らしてくれりゃいい」
おじさんは、俺たちに小さな鈴を一つずつ渡した。
それから俺の足元を見て、気の毒そうに付け足した。
「坊主は、まず立つ練習からだな」
◇
昼を過ぎるころには、どうにか一人で歩けるようになった。
膝を曲げて、重心を低く。足を持ち上げずに、氷の上をすりながら進む。父さんの稽古で教わった、悪い足場での歩き方が意外と役に立った。
それでも、ネルのようにはいかない。ネルは人混みの中を、まるで氷なんかないみたいにすいすい抜けていく。
見回りの合間に、迷子を二人、親のところへ送り届けた。
一人目は、泣きじゃくる小さな男の子だった。ネルが尻尾を触らせてやると、ぴたりと泣き止んだ。二人目の女の子にも、同じ手を使った。
「タダで触らせるの、珍しいな」
「迷子は特別よ。……銅貨一枚って言ったら、泣き止まないでしょ」
ネルは、ぷいと顔を背けた。
運河の真ん中あたりで、ネルの足が止まった。
毛糸の店だった。氷の上に敷いた布の上に、色とりどりの毛糸の玉が山のように積まれている。羊の毛を紡いだもの、山羊の毛を混ぜたもの。湖の色に似た、深い青の玉もあった。
ネルは、その青い玉をじっと見ていた。
「欲しいのか」
「……マーサさんに、襟巻きを編もうかと思って」
ネルは、毛糸の玉を一つ手に取った。指先で、糸の撚りを確かめている。
「ミルヴェールの冬って、きっと王都より寒いでしょ。マーサさん、いつも前掛け一枚で外に出てたし。春になったら、またあっちへ行く商隊があるかもしれないから、そしたら頼んで届けてもらうの」
「いいな、それ」
「別に。櫛のお礼よ。もらいっぱなしは、気持ち悪いもの」
ネルは毛糸の玉を店のおばさんに見せて、値段を聞いた。一玉、大銅貨二枚。襟巻きにするには三玉いるという。
ネルの目が、すっと細くなった。
そこからのしばらくを、俺は黙って見ていた。
糸の撚りが一か所だけ甘い。この玉は少し湿っている。三つまとめて買うんだから。隣の店はもう少し安かった気がする。気がするだけだけど。
おばさんは最初こそ笑っていたが、だんだん目が真剣になっていった。最後は二人で、毛糸の玉を挟んで睨みあうような格好になった。
結局、三玉で大銅貨五枚に落ち着いた。
「あんた、どこの子だい。うちの婆さんより手強いよ」
「仕立て屋の孫よ」
ネルは毛糸の玉を胸に抱えて、満足そうに尻尾を揺らした。
おばさんは呆れたように笑いながら、おまけに短い青い糸を一本つけてくれた。
◇
悲鳴が上がったのは、日が傾きはじめたころだった。
「財布! あたしの財布が――!」
振り返ると、葡萄汁の屋台の前で、恰幅のいい女の人が叫んでいた。
その横を、小さな影が駆け抜けていく。いや、駆けてはいない。滑っている。
十歳くらいの少年だった。
継ぎはぎだらけの外套に、骨の刃の靴。人混みの隙間を、まるで魚が水の中を泳ぐみたいにすり抜けていく。速い。氷の上のどんな大人よりも、ずっと。
「待ちなさい!」
ネルが追った。俺も追った。
三歩目で、また滑りそうになった。
(……まずい、追いつけない)
少年は運河の真ん中の、人のまばらなほうへ逃げていく。あそこまで出られたら、もう誰にも捕まえられない。
周りの大人たちは、口々に何か叫んでいるだけだった。誰も、氷の上で少年に追いつける気がしないのだろう。
俺は、走るのをやめた。
右手の指先に、ほんの少しだけ力をこめる。
米粒ほどの、透明な泡。それを一つ、少年の進む先の氷の上へ。
少年の右足の刃が、泡を踏んだ。
刃が、氷を噛まなかった。
少年の体がぐるんと半回転して、もう半回転して、そのまま独楽のようにくるくると回りながら氷の上を滑っていく。最後は、焼き栗の屋台の脇の雪の山に、頭から突っこんで止まった。
あたりが、一瞬静まり返った。
それから、どっと笑い声が上がった。
「なんだ今の、すげえ回ったな!」
「ありゃあ、氷が割れてたんだろう。でこぼこのとこに刃を取られたんだ」
「氷の上で欲張るからだよ」
誰も、不思議そうな顔はしていなかった。
氷の上で人が転ぶのは、当たり前のことだ。俺は、そっと指を握りこんだ。
(……氷って、いいな)
ネルが、雪の山から少年の襟首をつかんで引っぱり出した。
少年の手から財布を取り上げて、追いついてきた女の人に返す。女の人は財布の中身を数えて、ほっとしたように胸をなで下ろした。
「中身は全部あるね。……いいよ、もう。返ってきたんなら」
女の人は少年をひと睨みすると、人混みの中へ戻っていった。
少年は、雪まみれのまま氷の上に座りこんでいた。
近くで見ると、ひどく痩せていた。頬がこけて、手首が枝みたいに細い。継ぎはぎの外套は、袖も裾も、何か所も布が当てられている。
ネルが、その外套をじっと見ていた。
「この継ぎ当て、あんたが自分でやったの?」
少年は、答えなかった。
「縫い目がばらばら。針の目が大きすぎるし、糸の始末もしてない。だから、すぐほつれるのよ」
ネルは少年の前にしゃがみこんで、外套の袖口を指でつまんだ。
それから、少し声を落とした。
「……でも、こっちの小さい継ぎ当ては、きれいね。誰かに教わった?」
「教わってねえよ」
少年が、初めて口を開いた。
「妹のぶんを縫ってたら、ちょっとはうまくなっただけだ」
ネルの狐耳が、ぴくりと動いた。
「妹がいるの」
「……妹と、それから、ほかのチビたちも」
少年は、それ以上は言わなかった。
言わなくても、なんとなくわかった。下層区の奥には、親のいない子どもたちが身を寄せあって暮らしている場所がある。王都に来たばかりのころ、俺も何度かその前を通った。
ネルは、しばらく黙っていた。
それから立ち上がって、すぐそばの焼き栗の屋台へ歩いていった。
戻ってきたネルの手には、紙の袋が一つあった。湯気が立っている。
ネルは袋の中の焼き栗を半分、自分の手のひらに出した。それから、残りの袋を少年の膝の上に放った。
「あげる」
少年が、目を丸くした。
「……なんでだよ」
「あたしも、下層区の路地で拾われたの。拾ってくれた人がいなかったら、あんたと同じことしてたかもね」
ネルは、手のひらの焼き栗を一つ口に放りこんだ。熱かったのか、はふはふと息を吐く。
「でも、次やったら許さないわよ。その外套、全部ほつれさせてやるから」
「……そんなこと、できんのかよ」
「あたし、ほつれが見えるのよ。スキルで」
少年は、ネルの顔を見た。
それから膝の上の袋を見て、ぎゅっと握った。
「……ルカ」
「なに?」
「名前。俺の」
ルカは焼き栗の袋を外套の内側に押しこむと、雪を払って立ち上がった。骨の刃の靴で、氷をこつんと蹴る。
立ち去りかけて、振り返った。
「あんたら、ギルドのハズレコンビだろ」
「……なんで知ってるのよ」
「前に、東門で見た。荷物持ちの狐と、チビ種火」
ルカは、にっと笑った。歯が一本、欠けていた。
「一回見た顔は、忘れねえんだ。俺」
それだけ言うと、ルカは人混みの隙間へするりと滑りこんで、あっという間に見えなくなった。
転んだ少年とは思えないくらい、きれいな滑り方だった。
ネルが、手のひらに残った焼き栗を見下ろしていた。
「……半分、あげすぎちゃった」
「後悔してるのか」
「してないわよ」
ネルは焼き栗を一つ、俺の手に押しつけた。
「ばあちゃんも、こうしてくれたの。一年に一個の焼き栗。いつも、半分にして、大きいほうをくれた」
焼き栗は、まだ温かかった。
◇
日が沈むころ、世話役のおじさんに見回りの報告をした。
スリが一人、迷子が二人。財布は持ち主に戻った。スリの少年は、持ち主が許したので帰した。
おじさんは鈴を受け取りながら、何度も頷いた。
「上出来だ。しかしまあ、あのガキを捕まえたのか。この市でいちばん逃げ足が速いって、有名なやつだぞ」
「勝手に転んでくれたので」
「ははっ。氷の上じゃ、たまにはそういうこともあるか」
おじさんは笑って、報酬の大銅貨を数えてくれた。八枚ずつ、きっちりと。
運河の石段を上がると、橋の上に出た。
空は紫色に暮れかけていて、氷の上の天幕に、ひとつ、またひとつと明かりが灯りはじめていた。上から見下ろすと、凍った運河が光の帯のように見える。
「きれいね」
ネルが、橋の手すりに肘をついた。毛糸の玉を、まだ大事そうに抱えている。
「襟巻き、いつまでに編めるんだ」
「春までには編めるわよ。……ついでに、あんたの手袋も編んであげてもいいけど。毛糸、余ったら」
「余るように買ったんだろ」
「う、うっさい!」
ネルの尻尾が、ばさりと揺れた。
そのとき、背中がひやりとした。
振り返る。
橋の上には、家路を急ぐ人たちが行き交っているだけだった。荷車を引く男。手をつないだ親子。毛糸の帽子をかぶった老人。
誰も、こちらを見ていない。
(……気のせいか)
でも、さっき確かに感じた。
ギルドのホールで感じたのと、同じ視線だった。
「リト?」
「いや……なんでもない」
ネルと並んで、橋を渡りはじめる。
ふと、手すりの上に目が留まった。
焼き栗の殻が、二つ。
きちんと並べて、置いてあった。
さっきまで、そこには何もなかった気がした。
あたりを見回しても、焼き栗の袋を持っている人は一人もいない。行き交う人たちの足音が、凍った石畳に響いているだけだった。
俺は、殻から目を離した。
運河の上で、最後の天幕に明かりが灯った。
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