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初雪と、約束の続き


扉を叩く音で目が覚めた。


「リト。麦粥、冷めるわよ」


いつもの声だった。ミルヴェールから戻って、今日で五日目になる。寝台から体を起こすと、部屋の空気が鼻の奥につんと冷たかった。


窓の外が、妙に明るい。

板戸を押し開けると、王都の屋根という屋根が白く染まっていた。夜のうちに降ったらしい。下層区の細い路地にも、うっすらと雪が積もっている。


初雪だった。


「リト! 聞いてんの?」


「今行く」


廊下に出ると、ネルが階段の前で待っていた。

片手にマーサさんの櫛を持って、尻尾の先を梳いている。帰ってきてから毎朝そうしていた。梳かれた尻尾はふっくらと膨らんで、湯けむりの街にいたときと同じくらいつやつやしている。


「なによ」


「いや。毎朝やってるなと思って」


「やらないと、マーサさんに悪いでしょ」


ネルは櫛を胸元にしまうと、ぷいと顔を背けて階段を下りていった。尻尾が少しだけ得意げに揺れていた。


食堂では女将さんが大鍋をかき混ぜていた。麦粥の湯気が、冷えた食堂に白く立ちのぼっている。


「雪が降ると客が減るんだよ。みんな布団から出てこないからね」


女将さんはそう言いながら、俺たちの椀に麦粥をたっぷりよそってくれた。ネルの椀には、刻んだ干し肉が少しだけ多く入っていた。

ネルは何も言わずに、椀を両手で包んだ。狐耳の先がほんのり赤かった。



◇


ギルドの扉を開けると、暖炉の熱と酒の匂いが押し寄せてきた。


ホールの真ん中の大暖炉には薪がたっぷりくべられていて、その前の長椅子は依頼を探すでもない冒険者たちに占領されている。雪の日は、みんな考えることが同じらしい。

掲示板の前に立つと、冬の依頼ばかりが並んでいた。


『商店街の雪かき 一日 大銅貨六枚』

『薪の運搬(東門の薪置き場から中層区の屋敷まで) 一日 大銅貨七枚』

『凍った井戸の氷割り 一か所につき大銅貨三枚』


「地味ね」


「Eランクだからな」


「わかってるわよ。わかってるけど」


ネルは掲示板を端から端まで見て、指を折りはじめた。頭の中で報酬を足しているのだ。


背後で、聞き慣れた笑い声がした。


「おい見ろよ。ハズレコンビが温泉旅行から帰ってきたぞ」


「北の湖で湯に浸かってたんだってな。いい身分だ」


「チビ種火じゃ、湯も沸かせねえだろうに」


暖炉の前の長椅子で、何人かがげらげら笑っている。

懐かしい、と思ってしまった自分に苦笑した。ひと月以上離れていても、ここの笑い声は何も変わっていない。


ネルが振り返りかけて、やめた。尻尾の毛が一瞬だけ逆立って、すぐに元に戻る。


「いいのか」


「いいのよ」


ネルは俺にだけ聞こえる声で言った。


「湯なら、あたしたちが沸かしたんだから」


それから長椅子のほうには見えないように、べっと舌を出した。

俺は笑いをこらえるのに苦労した。


カウンターでは、ミリアさんが帳面を広げて待っていた。


「雪かきと薪運びですね。お二人とも、帰ってきたばかりなのに働き者です」


「稼がないと、冬は越せないもの」


「ふふ。このペースなら、冬の終わりにはちゃんと届きますよ。受験資格」


ミリアさんは帳面に何かを書きつけて、それから小声で付け足した。


「雪の日は、地面が滑りますからね。転ばないように気をつけてください」


ネルの尻尾が、ぴたりと止まった。

ミリアさんはにっこりと笑っている。いつもの笑顔だった。たぶん。



◇


依頼書を手にホールを出ようとしたとき、扉が外から開いた。


冷たい風と一緒に、雪のかけらが舞いこんでくる。

入ってきたのは、白銀の軽鎧に毛皮の縁取りの外套を羽織った青年だった。金色の髪に、雪が少し積もっている。


レオンは、ホールを一度見回した。

それから、まっすぐ俺のほうへ歩いてきた。


暖炉の前の笑い声が、すっと小さくなった。ひそひそと囁く声が聞こえる。剣聖だ、もうDだってよ、と。


「戻ってきたな、チビ種火」


「どうも。お久しぶりです」


「約束だ。今度こそ聞かせてもらう」


レオンは俺の正面に立って、腕を組んだ。


「お前、何を隠してる」


「何も隠してませんよ。温泉に入ってました」


「ほう。温泉か」


レオンの青い目が、すっと細くなった。


「東の森の巣のときは、名前のわからない協力者がいた。報告書の欄は空白のまま、誰なのか今も噂になってる。今度は北の湖で、神様が魔物を鎮めた。天から光の柱が降りた、だったか」


「噂ですよね」


「ああ、噂だ。どっちも、お前がいた場所の噂だ」


レオンは一歩、距離を詰めた。


「お前の行く先には、いつも正体のわからない誰かが出てくる。偶然か?」


「偶然ですね。俺、運がいいので」


「薬草採ってたのよ、あたしたち」


ネルが横から口を挟んだ。


「北の葦原まで。湖になんか、近づいてないわ」


レオンは、ゆっくりとネルのほうを向いた。

しばらく黙ってネルを見下ろしてから、ぽつりと言った。


「狐。お前、嘘をつくとき尻尾が止まるな」


「と、止まってないわよ!」


ネルの尻尾が、慌てたようにぶんぶんと揺れはじめた。

揺れすぎだった。レオンが、鼻で小さく笑った。


「まあいい」


レオンは組んでいた腕をほどいた。


「お前の口から聞けないなら、自分で掴むまでだ。……それと」


外套の前を、わざとらしく少しだけ開ける。胸元で、新しいプレートが暖炉の火を映して光った。


「俺は、もうDだ。試験は免除だった。特例でな」


「自慢しに来たの?」


ネルが目を据わらせた。

レオンは、むっとしたように眉を寄せた。


「違う。……お前らも、さっさと上がってこい」


それだけ言うと、レオンは俺たちの横を通り過ぎて、カウンターのほうへ歩いていった。すれ違いざまに、低い声が聞こえた。


「同じ依頼を受けられなきゃ、隠し事を暴く機会もない」


ネルが、その背中をしばらく睨んでいた。


「なんなのよ、あいつ」


「応援してくれたんじゃないか」


「どこがよ!」



◇


商店街の雪かきは、思っていたよりもずっと重労働だった。


中層区の石畳の通りに、膝の下くらいまで雪が積もっている。店の前を一軒ずつ掻いて、通りの端に山を作っていく。木の板をつけた雪かき棒を押すたびに、腕がじんと痺れた。

ネルは通りの反対側で、同じように雪を掻いていた。息が白い。狐耳が、寒さで少し伏せている。


(……泡を使えば、一瞬なんだけどな)


雪の下に薄く滑り泡を敷けば、雪の塊ごとすうっと通りの端まで滑らせられる。たぶん、一刻もかからずに終わる。

でも、それをやったら「雪がひとりでに滑っていった」と噂になる。


俺は、黙って雪かき棒を押した。

父さんとの五年の稽古で、体力だけは自信がある。こういう地味な仕事は、嫌いじゃなかった。


昼過ぎ、通りの端の坂道で声がした。


「おっと、と――」


荷車を引いた老人が、凍った石畳で足を滑らせていた。荷車が傾いて、積んであった樽が転がり落ちそうになる。

俺は雪かき棒を放り出して走った。


指先が勝手に動きかけた。

泡を一つ、樽の下に――


(……違う)


指を握りこんで、そのまま両手で樽を受け止めた。重い。腕が軋んで、膝が雪に沈む。それでも、どうにか樽を荷台に押し戻した。


「すまねえな、坊主。助かった」


「いえ。気をつけてください。ここ、凍ってますから」


老人は何度も頭を下げて、坂をゆっくり上っていった。

しびれた腕をさすっていると、ネルが雪を蹴りながら近づいてきた。


「今の、使いかけたでしょ」


「……見てたのか」


「見てなくてもわかるわよ。あんた、指がぴくってなるもの」


ネルは、俺が放り出した雪かき棒を拾って差し出した。


「でも、使わなかった。えらいじゃない」


「シェイラさんみたいなこと言うなよ」


「なっ……真似してないわよ!」


ネルの尻尾が、雪をばさりと払った。


夕方、雪かきを終えて報告に回ると、通りの角の菓子屋の主人が店から出てきた。

見覚えのある店だった。夜明け前に行列に並んで、蜂蜜焼き菓子の最後の一つを銀髪の誰かと取り合った、あの店だ。


「ご苦労さん。これ、持っていきな」


主人が渡してくれたのは、紙に包んだ焼き菓子のかけらだった。焼いているうちに割れてしまって、売り物にならなかったものだという。蜂蜜の甘い匂いがした。

ネルが、包みを受け取ったまま固まっていた。


「これ……あの蜂蜜焼き菓子?」


「割れちまったやつだけどな。味は同じだ」


ネルは包みを大事そうに胸に抱えて、主人に何度も礼を言った。

店を離れてから、ネルはそっと包みの中を覗いた。それから、にやりと笑った。


「シェイラに自慢してやろ」


「次に会うの、いつになるかわからないぞ」


「だから、言うだけよ。食べちゃうけど」


包みの中のかけらを、ネルは二つに分けた。同じ大きさになるように、何度も見比べて。

片方を、黙って俺に差し出した。



◇


夜、宿の裏の薪置き場で、俺は泡を一つ浮かべた。


拳ほどの大きさの、透明な泡。中に水を閉じこめて、揺らさないように、少しずつ冷やしていく。

雪はもう止んでいた。月の光が、積もった雪を青白く照らしている。


(……一)


ミルヴェールでシェイラさんに聞かれたとき、俺は「今は二十くらい」と答えた。

アラクネの女王と戦ったときは、三十かかった。ネルとシェイラさんが、その三十を命がけで稼いでくれた。


(……十八、……十九、……二十)


泡の中の水が、しんと静まった。

指先で弾く。小さな白い花が、音もなく薪の上に咲いた。


「今の、早かった?」


背中から声がした。

振り返ると、ネルが毛布を頭からかぶって、勝手口の段差に座っていた。いつからいたのか、まったく気づかなかった。


「寒いだろ。中にいろよ」


「平気よ。……で、早かったの?」


「二十。前と同じだ」


俺はもう一度、泡を浮かべた。今度は、もっと早く冷やしてみる。

(……八、……九)

十を数える前に、泡が震えた。中の水が揺れて、ぱちんと弾ける。ただの水が、薪の上にぽたぽたと落ちた。


「失敗ね」


「急ぐと、揺れるんだ。揺れたら、凍らない」


もう一度。また弾ける。もう一度。今度は十五まで持ったが、やはり揺れた。

ネルは何も言わずに、毛布の中から見ていた。


「ねえ」


五回目の失敗のあとで、ネルが口を開いた。


「それ、十まで縮めたら、なにができるの」


「ネルが稼ぐ時間が、半分になる」


ネルは、しばらく黙っていた。

毛布が、もぞもぞと動いた。


「別に。稼ぐの、嫌いじゃないけど」


「知ってる」


「……でも、半分になったら、そのぶん楽ね」


それきりネルは毛布に顔を埋めて、何も言わなかった。

尻尾の先だけが、毛布の端からはみ出して、ゆっくりと揺れていた。


俺は、六つ目の泡を浮かべた。



◇


同じ夜。ギルドの二階、ギルドマスターの部屋には、まだ明かりが灯っていた。


岩を削ったような大きな体を椅子に沈めて、ギルドマスターは窓の外を見ていた。雪の上がった王都の屋根が、月明かりに白く浮かんでいる。

机の上には、帳面が一冊開いてあった。ミリアの几帳面な字で、一つのパーティの記録が並んでいる。


仄(ほの)かな灯(ともしび)。


「わざわざ呼んでおいて、だんまりか」


窓際の壁にもたれていた男が、口を開いた。

くたびれた灰色の外套に、使いこんだ短剣が一本。どこにでもいそうな冒険者の格好をした、四十過ぎの男だった。


「来てくれて助かった、ヴァルト。冬は試験の申しこみが増える。試験官が足りん」


「それは聞いた」


ヴァルトと呼ばれた男は、壁から背を離して机に近づいた。帳面を指先で一枚めくる。


「で、こいつらは」


「Eランクの二人組だ。春の終わりに登録して、もうすぐDの受験資格に届く」


「早いな」


「依頼の数だけは、真面目にこなしている。それ以外は、何も目立たん」


ギルドマスターは、そこで言葉を切った。


目立たない。

それは本当だった。記録のどこを見ても、目立つことは何一つ書かれていない。雪かき、薬草採り、網の繕い、護衛。


ただ、記録に書かれていない日がある。

東の森の巣が討たれた日、二人は依頼を何一つ受けていなかった。シェイラの報告書の協力者の欄は、空白のままだった。

そして今度は、二人が滞在していた北の湖で、神様が魔物を鎮めたという。


「昨日の昼、ホールの隅から見ていた」


ヴァルトが帳面を閉じた。


「人の多いホールだ。俺はいつも通り、気配を殺して立っていた。誰も俺に気づかなかった。受付の娘も、暖炉の前の連中もな」


「それで」


「坊主のほうが、振り返った」


ギルドマスターは、何も言わなかった。


「俺の視線に気づいて振り返ったEランクは、初めてだ。Bランクでも、気づく奴はそういない」


ヴァルトは窓の外に目をやった。

雪明かりの向こうに、下層区の屋根が低く連なっている。


「試験、俺に回してくれ」


「お前が、Eランクの試験をか」


「Eランクのままでいる理由を、この目で見てみたい」


ギルドマスターは、長いあいだ黙っていた。

それから、太い指で帳面を引き寄せ、引き出しの中にしまった。かつて一枚の報告書をしまったのと、同じ引き出しだった。


「好きにしろ」


ヴァルトは小さく頷くと、灰色の外套を翻して部屋を出ていった。

足音は、一つもしなかった。


ギルドマスターは、もう一度窓の外を見た。

月明かりの下で、王都はしんと静まり返っていた。


冬が、始まろうとしていた。




ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

第五章「冬の王都」、開幕です。地道にランクを上げたいリトとネルの前に、新たな曲者が現れました!!なんと!!

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