帰り道
出発の朝、湖のほとりの倉庫の前は、荷馬車と人でごった返していた。
商隊長が荷の数を数えながら、あちこちに怒鳴っている。ひと月ぶんの商いで仕入れた干し魚の樽、湖藻の束、氷鱗魚の鱗を詰めた木箱。来たときよりも、荷馬車が一台増えていた。
「坊主、嬢ちゃん! 来たか!」
商隊長が、俺たちに気づいて手を上げた。
「湯が戻ったおかげで、商いが倍になった。湖の神様さまさまだな! 帰りも頼むぞ。狼が出たら、また勝手に転ばせてくれ」
「……あはは」
俺の乾いた笑いに、ネルがそっと目を逸らした。
そのとき、門のほうから蹄の音が聞こえてきた。
立派な鎧の四人組が、馬に乗って石畳を下りてくる。磨き上げた胸当てに、ギルドの紋の入った外套。王都から来たBランクのパーティだと、隣の漁師が小声で教えてくれた。
四人は湖のほとりで馬を止めると、湖をぐるりと見渡した。
湯けむりが、街じゅうから立ちのぼっている。湖の水面は青く澄んで、氷のかけらひとつ浮いていない。桟橋の上では、湖上市場の呼び込みの声がにぎやかに響いていた。
「……おい。熱喰らいは、どこだ」
先頭の大柄な男が、戸惑ったように呟いた。
ちょうど通りかかったポーラさんが、のんびりと頭を下げる。
「あらあ、遠いところをご苦労さまですう。でもねえ、もう、いないんですよお」
「いない?」
「湖の神様が、鎮めてくださったんですって」
男たちは、顔を見合わせた。
それから、もう一度湖を見た。何度見ても、そこには湯けむりと青い水があるだけだった。
「俺の矢がな、実は――」
人だかりの中から、カインの声がした。
言い終わる前に、ドルフの大きな手がその口をふさいだ。
◇
荷を積み終えるまでのあいだに、見送りの人たちが集まってきた。
ゲルトさんは、網を肩に担いだまま来てくれた。継ぎはぎだった舟は、もうすっかり直ったらしい。
「嬢ちゃん。網、また頼むぞ」
「王都から来るの、五日かかるのよ」
「知っとる。だから、また来いって言ってんだ」
ゲルトさんは髭の奥で笑って、ネルの頭にぽんと手を置いた。
トーマスさんは少し離れたところで、黙って片手を上げただけだった。その後ろの崖の中腹からは、源泉の湯気がまっすぐに立ちのぼっていた。
焚き火の輪の三人は、もうしばらくこの街に残る。
「湯が戻ったら、仕事が一気に増えたからな。稼げるうちに稼いどく」
ドルフが、大きな手で俺の肩を叩いた。
「王都でまたな、リト、ネル」
「ネルちゃん!」
ティナが、ネルにぎゅっと抱きついた。
「温泉、一緒に入れてよかった! 尻尾ふわふわも、ちゃんと見れたし!」
「わ、忘れなさいよ、それは!」
ネルの尻尾が、ぶわっと膨らんだ。
カインが「ほら、それそれ」と指さして、ネルに思いきり睨まれていた。
最後に、マーサさんが来た。
いつもの前掛けをつけたまま、小さな包みを二つ抱えている。
「道中の弁当だよ。干し魚、多めに入れといたからね」
それから、前掛けのポケットから何かを取り出して、ネルの手に乗せた。
古い木の櫛だった。ネルが毎晩、尻尾を梳くのに借りていた櫛だ。
「持っていきな。あたしの尻尾じゃ、使い道がないからねえ」
ネルは、櫛を両手で持ったまま動かなかった。
狐耳が、ゆっくりと伏せられていく。
「……マーサさん」
「なんだい」
「あたし、また来る。絶対、また来るから」
マーサさんは、皺だらけの手でネルの手を包んだ。
「来なくていいよ。……なんて、言うわけないだろ。足湯、熱くして待ってるよ」
ネルは何も言わずに、マーサさんに抱きついた。
マーサさんの小さな背中を、俺は少し離れたところから見ていた。
「それとね、リトくん」
ネルの頭越しに、マーサさんが俺を見た。
「銀色の髪のお客さんから、言づてだよ。『王都で、また』だってさ。夜明け前に、北の門から出てったって」
「……そうですか」
あの人らしい、と思った。
北の山へ、また戻ったのだろう。
荷馬車が、ゆっくりと動きだした。
石畳の坂を上りかけたところで、細い路地の奥に、半地下の工房の扉が見えた。扉が、拳ひとつぶんだけ開いている。
通り過ぎるとき、その隙間から低い声がした。
「ガンツによろしく言っとけ」
それだけだった。
扉は、それきり閉まった。
◇
坂をのぼりきった丘の上で、商隊長が馬を止めた。
「おい、見てみろ」
振り返ると、湖都ミルヴェールが眼下に広がっていた。
街じゅうが、白かった。
屋根という屋根から湯けむりが立ちのぼって、白い家々をすっぽりと包んでいる。屋根なんて、ほとんど見えない。湖の青い水面の上にも、薄い湯けむりがゆらゆらと漂っていた。
「これだよ、これ。これが、ミルヴェールだ」
商隊長が、満足そうに頷いた。
ネルが荷台から身を乗り出して、じっと街を見つめていた。
来たときは、この丘から見た湯けむりは、街の半分だけだった。
「……きれいね」
ネルが、ぽつりと言った。
「ああ」
「マーサさんの宿、どこだかわかんないわね。湯けむりで」
「真っ白だからな」
ネルは、しばらく黙っていた。
それから、荷袋の中に手を入れた。布の包みを確かめて、また手を離す。ボルグさんがくれた、星鉄の塊。出発してから、もう三回目だった。
「そんなに確かめなくても、なくならないぞ」
「わかってるわよ。……わかってるけど」
荷馬車が丘を下りはじめて、湯けむりの街は、ゆっくりと丘の向こうに隠れていった。
◇◆◇
帰りの道は、行きよりもずっと静かだった。
狼も出なかった。三日目の夜、焚き火の番を交代したとき、ネルが毛布にくるまったまま話しかけてきた。
「ねえ、リト」
「なんだ」
「あの主の素材って、売ったらいくらになったのかしら」
「なんだよ、急に」
「だって、Aランクよ。鱗一枚でも、きっと高いわよ。あの大きさなら、何百枚もあったわよね」
ネルは、毛布の中で指を折りはじめた。
「鱗が何百枚。牙も、角もあったし。それに、あの芯のところの魔石。ばあちゃんの店なんか、十回くらい買えたんじゃない?」
「湖の底だぞ。それに、取れたって売れないだろ」
「なんでよ」
「一枚なら、岸で拾ったで済む。何百枚も持ちこんだら、拾ったじゃ通らない。Eランクの二人組が、どうやって主から剥がしたんだって話になる」
ネルは、指を折ったまま固まった。
「……わかってるわよ」
毛布が、もぞもぞと動いた。
「わかってるけど!」
焚き火の向こうで、商隊の誰かが寝言を言った。
俺は、湖の底へ沈んでいった白い巨体を思い出していた。今もあの冷たい深みに眠っているのだろう。誰にも見つからずに。
「……ねえ」
しばらくして、ネルがまた口を開いた。
「でも、もらったわよね。報酬」
「星鉄か」
「それもだけど」
ネルは、毛布から顔を半分だけ出して、夜空を見上げた。
「マーサさんの足湯。熱いやつ」
「……ああ」
「あれ、あたしたちのお給料よね」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
俺は答えのかわりに、薪を一本くべた。
◇◆◇
五日目の昼、王都の城壁が見えた。
北門をくぐると、石畳の道に乾いた落ち葉が舞っていた。出発したときはまだ青かった街路樹が、すっかり色を変えている。吐く息が、少しだけ白かった。
商隊長に報酬を受け取って礼を言うと、俺たちは真っ先に職人通りへ向かった。
ガンツ親方の工房は、出発の日と何も変わっていなかった。
炉の火。鉄を打つ音。煤だらけの壁。親方は、俺たちを見ても槌を止めなかった。
「帰ったか」
「ただいま、親方」
ネルが、荷袋から布の包みを取り出した。
作業台の上に置いて、そっと布を開く。
鶏の卵ほどの、鈍い銀色の塊。その奥で、青白い光がかすかに脈打っていた。
親方の槌が、止まった。
太い指で塊をつまみ上げて、炉の明かりにかざす。目を細めて、ぐるりと回す。指の腹で、表面をゆっくりとなぞる。長い時間がたってから、親方はぼそりと言った。
「足りん」
ネルが、吹き出した。
「なにがおかしい」
「だって、ボルグさんとおんなじこと言うんだもの」
親方は、むっつりと黙りこんだ。
それから、もう一度塊を光にかざした。
「……混ぜ物の抜き方が、きれいすぎる。あの偏屈め、腕は落ちとらんな」
その声は、少しだけ嬉しそうだった。
「二本目は、打てる?」
「これだけじゃ、芯にしかならん。だが、芯がなけりゃ、何も始まらん」
親方は、塊を布にくるみなおして、工房の奥の棚にしまった。鍵のかかる、小さな棚だった。
「残りの星鉄は、どこで手に入りますか」
俺が尋ねると、親方は炉の前に戻って、また槌を握った。
「心当たりは、もう一か所ある」
一度だけ、鉄を打つ。
「……が、今のお前らには遠い」
それきり、親方は何も言わなかった。
炉の火が、赤々と燃えていた。
◇
眠り羊亭の扉を開けると、焼き饅頭の匂いがした。
「おや」
帳場の奥から、女将さんが顔を出した。前掛けで手を拭きながら、俺たちの顔を順番に見る。
「おかえり。部屋、空けといたよ」
「ただいま、女将さん」
「ただいま!」
それだけだった。
どこへ行っていたのかも、何があったのかも、女将さんは聞かなかった。旅立つ前に焼き饅頭を持たせてくれたときと、同じ顔だった。
二階の部屋は、出ていったときのままだった。
窓辺の小さな机も、少し傾いた寝台も。窓を開けると、王都の屋根の向こうに、ギルドの鐘楼が見えた。討伐祭の夜、ネルが初めて花火を見た場所だ。
廊下の向こうで、扉の開く音がした。
「リト。荷物置いたら、ギルド行くわよ。ミリアさんに温泉の話、するんだから」
ネルは、もうマーサさんの櫛を胸元にしまっていた。
旅の埃を払う間もなく、階段を駆け下りていく。
「ちょっと待て、俺はまだ靴も」
「遅い!」
階段の下で、女将さんが小さく笑う声がした。
◇
ギルドの扉を開けると、懐かしい喧騒が押し寄せてきた。
ホールの奥のカウンターで、栗色の髪の受付嬢が顔を上げた。俺たちに気づいたとたん、その顔がぱっと明るくなる。
「リトくん! ネルちゃん! おかえりなさい!」
「ただいま、ミリアさん」
「無事でよかったです。ポーラちゃんから手紙が来て、ずっと気になってたんですよ。湖が大変なことになってるって」
ミリアさんは、カウンターから身を乗り出した。
「それで、温泉はどうでした? ちゃんと入れました?」
「入れたわ! すっごく熱かった!」
ネルが、待ってましたとばかりに話しはじめた。
マーサさんの宿の足湯のこと。湖上市場の湯菓子のこと。尻尾が湯気でふわふわになったこと。ミリアさんは、うんうんと頷きながら、楽しそうに聞いていた。
主のことは、一言も話さなかった。
話せなかった。
「よかったです。……そういえば」
ミリアさんが、ふと首を傾げた。
「北の湖で、神様が魔物を鎮めたって噂、もうこっちにも届いてるんですよ。天から光の柱が降りたって。お二人、何か見ました?」
ネルの尻尾が、ぴたりと止まった。
「……ぜんぜん。薬草を採りに行ってたから」
「薬草?」
「そう、薬草。北の葦原まで」
ミリアさんは、じっとネルの顔を見た。
それから、俺の顔を見た。
「……そうですか」
にっこりと笑う。
その笑顔が、ほんの少しだけ長かった。
「それと、これ。ポーラちゃんから、お二人宛てに届いてます」
ミリアさんが、カウンターの下から小さな革袋を二つ取り出した。
「岸辺で拾った鱗の、買い取り代だそうです。届けたときは何の鱗かわからなかったけど、あとで湖の主のものだってわかったんですって。Aランクの魔物の鱗なんてめったに手に入らないから、ギルドで買い取ることになったそうですよ。見つけた五人で分けて、焚き火の輪さんの分は向こうで渡したって」
ネルが、袋の口を開けた。
中で、大銀貨が二枚光っていた。
「……に、二枚? 大銀貨が?」
「お一人、二枚です」
「鱗、一枚で……?」
ネルの手が、震えはじめた。
それから、ゆっくりと俺のほうを向いた。
「……リト。何百枚って、言ったわよね」
「湖の底だ」
「わかってるわよ! わかってるけど!」
ネルは革袋を胸に抱えたまま、カウンターに額をつけた。
ミリアさんが、不思議そうに首を傾げていた。
「ミルヴェールのお仕事、ポーラちゃんの記録と一緒に、全部こちらで数えておきますね。網の繕いに、湯守の手伝いに、湯道の点検。それと、往復の護衛」
ミリアさんは、帳面をめくりもせずに、指を折った。【記帳】のスキルだ。一度書いた記録は、全部覚えている。
「……うん。D昇格試験の受験資格まで、あと少しですよ」
「試験?」
ネルの狐耳が、ぴんと立った。
「Dからは、試験があるんです。護衛も討伐も、人の命を預かるお仕事が増えますから。条件を満たしたら、ギルドの試験官が実際の依頼についていって、お二人の動きを見るんです」
「あと少しって、どれくらい?」
「このまま王都の依頼をこなしていけば、冬の終わりくらいには届くと思います」
ネルの尻尾が、ぶんぶんと揺れはじめた。
「Dになったら、報酬も上がるのよね!?」
「上がりますよ。討伐依頼なら、一件で銀貨何枚も」
「リト!」
ネルが、俺の袖を引っぱった。目がきらきらしている。
俺は、苦笑いしながら頷いた。
地道に依頼をこなして、ランクを上げる。目立たずに。それなら、俺たちのやり方だ。
そのとき、背中に視線を感じた。
振り返る。
ホールの隅の柱の陰に、見慣れない男が立っていた。
年は四十を過ぎたくらい。くたびれた灰色の外套に、腰には使いこんだ短剣が一本。どこにでもいそうな冒険者の格好だった。
ただ、目だけが違った。
その目が、まっすぐに俺を見ていた。ネルでもなく、ミリアさんでもなく、俺だけを。
目が合ったのは、ほんの一瞬だった。
男は、何事もなかったように視線を外すと、ホールの人混みの中へ消えていった。
背中が、ひやりと冷えた。
「リト?」
ネルが、俺の顔を覗きこんだ。
「……いや。なんでもない」
ホールの窓の外で、冷たい風が落ち葉を巻き上げていた。
王都に、冬が近づいていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
第四章「湖都ミルヴェール」はこれで完結です。次回から第五章が始まります。
引き続きよろしくお願いします!!




