湯けむりが戻る日
足が動くようになったのは、日が少し傾いてからだった。
葦の上で、いつの間にか眠っていたらしい。目を開けると、ネルが隣で膝を抱えて、まだ湿った尻尾を日に当てていた。立ち上がろうとしたら膝が笑って、ネルが黙って肩を貸してくれた。
湖沿いの道を、ゆっくりと南へ戻った。来るときは二時間だった道が、倍くらいかかった。途中で三回休んで、そのたびにネルに「重い」と文句を言われた。
丘を越えたのは、日が山の端にかかるころだった。
「リト」
ネルが、足を止めた。
夕日に染まった屋根の連なりと、その向こうの湖。東の宿屋通りのあたりから、白いものが一本、細くのぼっていた。
湯けむりだった。
見ているうちに、隣の屋根からもう一本。少し離れたところから、また一本。風が吹けばすぐにちぎれてしまいそうな頼りない筋が、夕暮れの空へ一本ずつ増えていく。
「戻ってる」
ネルの声が、震えていた。
「ほんとに、戻ってる」
「ああ」
それしか言えなかった。
ネルの肩につかまったまま、しばらく二人で丘の上に立っていた。
◇
街に入ると、通りがざわついていた。
誰もが足を止めて、屋根の上を見上げている。湯けむりを指さして跳びはねる子どもがいて、店先で手を合わせている年寄りがいた。すれ違った漁師たちの話し声が、耳に飛びこんでくる。
「見張り台の衛兵が見たんだと。北の端に、天から光が降りたって」
「光?」
「そのあと、でっかい湯けむりの柱が立ったってよ。湖の神様だよ。怒りを鎮めてくださったんだ」
ネルが、俺の肩につかまる手にぎゅっと力を込めた。
俺は下を向いて、外套の襟を少しだけ立てた。
マーサさんは、宿の前で箒を持ったまま、東の空を見上げていた。俺たちに気づくと、目を丸くする。
「おや、おかえり。……まあ、どうしたんだい。泥だらけじゃないか」
「ぬかるみで、転んじゃって」
ネルが、早口で答えた。
「二人そろって?」
「二人そろって」
マーサさんは、しばらく俺たちを見ていた。俺の肩にかかったネルの腕と、溶けて乾いてぐしゃぐしゃになったネルの髪を。
「薬草は、採れたのかい」
ネルの尻尾が、ぴたりと止まった。
二人とも、手ぶらだった。
「それが、その……ぜんぜん、見つからなくて」
「そうかい」
マーサさんは、それ以上何も聞かなかった。
箒を壁に立てかけて、裏のほうへ顎をしゃくる。
「見てごらん。昼過ぎからね、うちの足湯にも湯気が戻ってきたんだよ。まだぬるいけど、刻ごとに温かくなってる」
裏口から覗くと、石の足湯の上に、白い湯気がうっすらと揺れていた。
ネルが、そっと指を浸した。
「……ぬるい」
「明日には、もっと熱くなるさ」
マーサさんは笑って、厨房へ向かった。
「粥、温めなおすからね。今日は干し魚、多めに入れとくよ」
帳場の机で粥をすすっているうちに、瞼が重くなった。
最後に覚えているのは、ネルの「熱いやつは、明日ね」という声と、椀を取り上げる誰かの手だった。
◇◆◇
目が覚めたら、昼近かった。
体じゅうが重い。魔力は少しずつ戻ってきているけれど、泡を一つ作るのにも気合いがいる。階段を下りると、ネルが帳場で腕を組んで待っていた。
「遅い。ゲルトさんの網、今日って約束したでしょ」
「……そうだった」
西の岸の漁師小屋は、半分ほど人が戻っていた。
ゲルトさんは、継ぎはぎの舟の横に網を広げて待っていた。ネルの顔を見るなり、髭の奥でにやりと笑う。
「嬢ちゃん、ほんとに来たな」
「来るって言ったでしょ」
ネルは網の前にしゃがみこむと、すぐに手を動かしはじめた。指先が迷わずほつれを見つけて、一本ずつ繕っていく。俺は、言われるままに網の端を押さえた。
「湖の真ん中の濁りがな、今朝には消えとった」
ゲルトさんが、湖を見ながら言った。
「今朝、岸の水に手を入れてみたらな、ぬるかった。主が来る前と同じだ。……神様だか何だか知らねえが、礼を言いてえもんだ」
ネルの手が、一瞬だけ止まった。
「……きっと、届いてるわよ」
それだけ言って、また手を動かす。
ゲルトさんは「そうか」と頷いて、それ以上は何も言わなかった。
◇
日当を受け取りにギルドへ行くと、中が妙ににぎやかだった。
人だかりの真ん中に、カインがいた。
漁師や宿の主人たちに囲まれて、背中を叩かれている。
「あんたの矢が効いてたんだろ? 目の下に刺さったってやつがよ」
「いや、まあ……効いてなかったとは、言えねえけどよ」
カインは、困ったように頭をかいた。けれど、口元がゆるんでいる。
「目の下に刺さっただけだろ。あいつ、ぴんぴんして沈んでったじゃねえか」
ドルフが、腕を組んで苦笑いした。
「わかってるって。……でも、ちょっとくらい夢見たっていいだろ」
カインは天井を仰いで、それから、ふっと真面目な顔になった。
「神様ってのは、ほんとにいるのかもな。A級になったら、会えたりすんのかね」
その横を、小さな影が駆け抜けてきた。
「ネルちゃん!」
ティナが、ネルに飛びついた。二つ結びの髪が、ぴょんと跳ねる。
「湯、戻ったよ! 王都に帰らなくていいって!」
「わ、わかってるわよ。見ればわかるでしょ」
「だから、温泉! 一緒に入ろうね! 尻尾ふわふわになるとこ、見せてね!」
「な、なんでそこにこだわるのよ!」
ネルの尻尾が、ぶわっと膨らんだ。
ドルフが声をあげて笑い、カインもつられて笑った。俺も、少しだけ笑った。
◇
その夜、マーサさんの足湯は熱かった。
ネルが、勢いよく足を入れた。
「あつっ!」
すぐに引っこめて、それから、そろそろと足先を浸しなおす。
湯けむりが、もうもうと立ちのぼっていた。向かいに座った俺の顔が、白くかすむくらいに。
「熱いやつ、だな」
「……熱いやつね」
ネルは、湯けむりの中で目を細めた。
尻尾が湯気を吸って、みるみるふくらんでいく。毛の一本一本が、ふわふわと空気をはらんでいた。
「ティナに見せなくていいのか」
「見せない。絶対に」
ネルは、ふくらんだ尻尾をぎゅっと抱えこんだ。
◇◆◇
翌朝、崖の階段の上で、トーマスさんが待っていた。
洞の入口から、白い湯気が噴き出している。トーマスさんは、その湯気を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「四十年、湯を守ってきた」
ぽつりと、トーマスさんが言った。
「湯の音を聞いて泣いたのは、初めてだ」
目のふちが、赤かった。
隣に立ったボルグさんが、わざとらしく咳払いをした。
「泣くのは後にしろ。今日が最後だぞ」
湯だまりは、もう凍っていなかった。
湯気の向こうで、ぬるい湯が静かに揺れている。奥の通り道にも、足首ほどの湯が流れていた。前に来たときの、指が痛くなるような冷たさはない。
「刻ごとに、熱くなっとる」
ボルグさんが、湯に手を浸して言った。
「明日には、ここはまた煮え湯だ。儂らが入れるのは、今日が最後になる」
祠の縦穴は、氷がすっかり溶けていた。
ぬるい湯の水面が、松明の明かりを揺らしている。その下の岩壁に、青白い光がぽつりぽつりと瞬いていた。
ボルグさんは、縦穴の縁に腹ばいになった。
鑿と小さな槌を手に、湯の中へ腕を突っこむ。
「坊主、帯をつかんどれ。落ちたら、儂は浮かん」
言われるままに、ボルグさんの革帯を両手でつかんだ。驚くほど重い。ネルが反対側から松明をかざし、トーマスさんが湯の熱さを確かめている。
こつん、こつん、と湯の中で槌の音がした。
ボルグさんが腕を引き上げるたびに、指の間に青白いかけらが光っている。小指の爪ほどのものが一つ。麦の粒ほどのものが、いくつか。
「爺さん、そろそろ手が煮えるぞ」
「まだだ」
湯気が、だんだん濃くなっていく。ボルグさんの腕は、肘のあたりまで赤くなっていた。それでも、槌の音は止まらなかった。
「爺さん!」
トーマスさんが声を荒らげたところで、ボルグさんはようやく腕を引き抜いた。
真っ赤な手のひらに、青白いかけらがひと握り。縦穴の壁に眠っているもののほんの一部だった。
ボルグさんは、湯気の向こうの縦穴を、しばらく見下ろしていた。
「……千年ぶりに、人が見た」
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「それで、十分だ」
◇
次の日の夕方、ボルグさんの工房に呼ばれた。
作業台の上に、小さな塊が置いてあった。
鶏の卵ほどの大きさ。鈍い銀色の肌の奥で、青白い光がかすかに脈打っている。紅糸の刃の縁と、同じ色だった。
「混ぜ物は抜いた。ガンツなら、これで打てる」
ボルグさんは、塊を布にくるんで、ネルの手に乗せた。
「足りん。……だが、始まりにはなる」
ネルは、布の包みを両手で抱えた。
小さいのに、ずしりと重い。そう顔に書いてあった。
「ありがとう、ボルグさん」
「礼はガンツに言え。打つのはあいつだ」
ボルグさんは背を向けて、炉の火をいじりはじめた。
俺たちが工房の扉に手をかけたとき、背中越しに、低い声がした。
「北の端で、天から光が降りたそうだな」
足が、止まった。
「儂は、何も聞いとらん」
炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
「何も見とらんし、何も知らん。……ただ、湯が戻った。それだけだ」
ボルグさんは、最後まで振り返らなかった。
◇
その夜、シェイラはミルヴェールの北門をくぐった。
門の衛兵が、聞かれもしないのに話してくれた。湖の北の端で、天から光の柱が降りたこと。そのあと、湯けむりの柱が空まで立ったこと。湖の神様が、怒りを鎮めたこと。
シェイラは黙って頷いて、湯けむりで白くかすむ通りを歩いた。
東の宿屋通りの、いちばん大きな宿。
夜も更けて、湖を見下ろす露天の湯には、ほかに誰もいなかった。
月が、出ていた。
湯けむりが、ゆっくりと夜空へのぼっていく。月明かりがそれを銀色に染めて、湯の面にやわらかな光を落としていた。
シェイラは、髪をほどいた。
銀の髪が、褐色の肩にこぼれる。湯に身を沈めると、熱が指先から体の芯へ、じわりと染みていった。北の山で凍えきった体が、少しずつほどけていく。
細く、長く、息を吐いた。
湯の中で、髪がゆらりと広がる。月の光を吸って、水の中の銀糸のようにきらめいた。濡れた首筋を、湯の雫がひとすじ伝い落ちていく。湯けむりの向こうで、紫の瞳がとろりと細められた。
誰も見ていない。見ていたなら、きっと息をするのも忘れただろう。
シェイラは、湯に指先を浸した。
すうっと、音が消えた。
湯の揺れる音も、遠くの宿の笑い声も、夜風の音も。
音のない世界の底へ、耳を澄ます。
……とくん、という脈は、もう聞こえなかった。
かわりに、ずっと深いところから、何かがのぼってくる。大きくて、ゆっくりで、あたたかいもの。眠っている者の寝息のように、静かに、絶え間なく。
音を、戻した。
湯けむりの向こうに、湖が黒く広がっていた。
北の端は、丘の陰でここからは見えない。
熱を食べる魔物。
火は、届く前に食べられる。氷では、凍らせることもできない。
天から降りた、光の柱。
シェイラは、湯の面に映る月を見つめた。
晴れていた日。
霧の上の、太陽。
それから、桟橋の端で小指を絡めた、二つの顔。
シェイラは、湯に肩まで沈んで、月を見上げた。
湯けむりが、その横顔を静かに隠していった。
◇◆◇
翌朝、宿の表の扉を開けたら、長椅子に銀髪のダークエルフが座っていた。
「ひゃあっ!?」
ネルが、俺の背中に飛びついた。
シェイラは、膝の上に紙袋を抱えていた。湯気の立つ、湯菓子の袋。湖上市場の屋台も、今朝から店を開けたらしい。
「シェ、シェイラさん……」
「おはよう」
シェイラは、いつもと同じ顔で俺たちを見た。
それから、紙袋を少しだけ持ち上げた。
「……約束、破ったね」
ネルの尻尾が、ぴんと固まった。
俺は、一歩前に出て頭を下げた。
「すみません。俺が決めました」
「違う! あたしも決めたの!」
ネルが、俺の横に並んだ。
「怒られるときは一緒って、決めてたんだから。だから、怒るならあたしも一緒に怒って!」
シェイラは、しばらく黙っていた。
紫の瞳が、俺とネルを順番に見る。俺の目の下のくまと、ネルの赤く充血した目を。
「……怒ってない」
ネルの肩から、力が抜けた。
「少しだけ、怒ってる」
また、固まった。
シェイラは、ほんの少しだけ目を細めた。
「でも、二人とも、無事だった。……それで、いい」
それから、紙袋の口を開けた。
長椅子の上に、湯菓子を一つずつ並べていく。今度は、三列。
右に一つ。真ん中に一つ。左に一つ。
「……今日は、三つに分ける」
ネルは、並んでいく湯菓子をじっと見ていた。
やがて、ぷいとそっぽを向いた。
「……ほんとに、ずるいわよ、あんた」
尻尾が、ぶんぶんと揺れていた。
◇
裏の足湯に、三人で並んで腰かけた。
湯は熱くて、湯けむりがもうもうと立っている。シェイラも長靴を脱いで、褐色の足をそっと湯に浸した。ネルは、両手で湯菓子を持ってかじっていた。ふわふわの皮の中から、木の実の甘い餡があふれてくる。
「約束のお代、これで払ったわよ」
「うん。……確かに」
シェイラは、湯菓子をゆっくりとかじった。
それから、ふと俺のほうを向いた。
「リト」
「はい」
「どんな技?」
湯菓子が、喉につかえた。
ネルが、横で小さく吹き出す。
「えっと……それは、その」
「……晴れた日に」
シェイラは、湖のほうへ目を向けた。
「今度、見せて」
俺は、湯菓子を持ったまま固まった。
晴れた日。まだ、何も話していないのに。
ネルが、こらえきれずに笑い出した。湯けむりの中で、ふわふわの尻尾が揺れていた。
顔を上げると、宿の裏の垣根の向こうに、街が見えた。
屋根という屋根から、湯けむりが立ちのぼっていた。
東の宿屋通りも、西の漁師小屋のあたりも。石畳の下の水路からも、白い湯気がゆらゆらと揺れている。朝日を受けて、街じゅうが真っ白にかすんでいた。
丘の上から初めてこの街を見た日、湯けむりは半分しか立っていなかった。
本当は、街じゅう真っ白になるんだ。商隊長は、そう言っていた。
(……これが、見たかったんだ)
湯の熱さが、足の先からじんわりと染みてくる。
隣でネルが、湯菓子の最後のひとかけらを口に放りこんだ。
「あんたたち」
裏口から、マーサさんが顔を出した。
「ギルドのポーラさんから、言づてだよ。帰りの商隊、出発の日が決まったって」




