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泡の中の太陽


「どこだ」


ネルは、答えなかった。

琥珀色の瞳が、霧の中にそびえる白い巨体の上を、ゆっくりとなぞっていく。まばたきもしない。目の奥が焼けるように痛むはずなのに、赤く充血した目を一度も閉じなかった。


「……胸」


かすれた声が、ようやく落ちた。


「胸の真ん中! 首の付け根の、ちょっと下! 線が、みんなそこに集まってる!」


「分かった」


「でも」


ネルの声が、そこで詰まった。


「一番分厚いとこよ。鎧が、あそこだけ何重にもなってるの」


主の胸を見上げた。

首の付け根の少し下。白い氷の鎧が、そこだけ瘤のように盛り上がっている。ほかの場所の倍はある。三倍かもしれない。


(それでも)


「関係ない。鎧ごと、撃ち抜く」


ネルが、横目で俺を見た。凍りついた睫毛の下で、口の端がほんの少し上がった。


「……言ったわね」


「言った」


「外したら承知しないから」


「外さない。ネルが見つけた場所なら」


ネルは、ぷいと前を向いた。

耳の先が赤く見えたのは、寒さのせいだけではないと思う。たぶん。


「合図をくれ。芯が一番こっちを向いた瞬間に。それで、俺が撃つ」


「声で?」


「声で」


「分かった。でもあいつ、動くわよ。動くたびに、芯もずれる」


「ずれても待つ。ネルが『今』と言うまで、俺は絶対に撃たない」


ネルは、答えの代わりに紅糸を握り直した。

その背中が、もう主から目を離さないと言っていた。



◇


主は、まだ空を見上げていた。


霧の中に浮かべた、最後のおとりの泡。その熱を追って、長い首を伸ばしたまま、首をゆらゆらと左右に振っている。首が揺れるたびに、胸の瘤も大きく揺れた。


「右、右、……戻った。今、少し上がった」


ネルが、低い声で呟き続けている。

主の動きに合わせて、ネルの首も小さく動いた。芯の位置を、一瞬も見失わないように。


(ネルが、ずっと見ていてくれる)


なら、俺の仕事は一つだ。


右手を、空へ向けた。


(ここからは、一回きりだ)


指先に、魔力を集める。

さっきまでのおとりとは違う。一滴も残さない。体の奥に残っていたものを、全部、指の先へ引きずり出す。


泡が、生まれた。


湯呑みほどの大きさ。それが桶になり、荷馬車になる。膨らむたびに、体の中から何かが抜けていく。膝が、がくんと折れそうになった。


(まだだ。もっと大きく)


家ほどの大きさ。

膜の厚みを、ぎりぎりまで増していく。光を曲げるための、分厚くて、ゆがみのない膜。薄ければ光は散ってしまう。厚くしすぎれば、ただの氷の玉だ。


その泡を、空へ押し上げた。


霧の中を、上へ。上へ。

視界の端が、じわりとにじんだ。耳の奥で、血の音がうるさい。膝が笑って、震えが止まらない。それでも、泡は上げ続ける。


――霧を、抜けた。


見えなくても、分かった。

膜の外側に、光が触れる感触。冷たい霧とは違う、まっすぐで強い光。


次の瞬間、頭の上の霧が、ぱあっと白く光った。


霧の天井の、一か所だけが。

まるで、霧の上にもう一つの太陽が生まれたみたいに。白く、まぶしく、霧の底まで照らしながら。


「……なに、あれ」


ネルが、息を呑んだ。


家ほどの泡の中に、日差しが満ちていた。

薄い膜が、太陽の光を一粒も逃がさず抱え込んでいる。この泡は、俺の指先ひとつで、レンズになる。


最後のひと曲がりだけを、残して。

弓を引き絞ったまま、矢を放つ前の、あの一瞬のように。


(あとは、ネルの声だけだ)



◇


おとりの泡が、霧の中で、ぱちんと弾けた。


主の首が、止まった。

熱を失って、青白い目が迷うように宙を泳ぐ。それから、空の白い輝きに気づいた。


首が、ぐうっと反り返る。

光を、じっと見つめている。喉が、食べるものを探して、むなしく鳴った。


光は、熱じゃない。

食べられないものに、主はすぐ興味をなくした。


首が、ゆっくりと下りてきた。

光ではなく、地上へ。ずっと小さくて、でもずっと確かな温もりが、そこにある。凍えた俺たちの、手袋の中の指先。まだ消えていない、二つの熱。


「……来る」


ネルが、俺の前に立った。


「ネル、下がれ」


「下がらない」


「ここは危ない!」


「あんたは、動けないんでしょ」


その通りだった。

今、少しでも集中を切らしたら、泡が崩れる。魔力はもう一滴もない。逃げることも、足元に泡を敷くこともできない。


「あたしの後ろにいなさい。……あたしが、見てる」


主が、白い息を吐いた。


霧が、爆ぜた。

地面を這う冷気ではなく、壁のような真っ白な息が、ネルの正面にぶつかった。


ネルは、動かなかった。


紅糸を横一文字に振る。飛んできた氷の破片が、刃の前で二つに割れて左右へ散った。それでも、息は止まらない。ネルの外套が、ばきばきと音を立てて固まっていく。


髪が、凍った。

赤茶の髪の先が、白い針のように立っていく。尻尾が、根もとまで真っ白になる。まつげが重くなり、頬を伝った涙が、そのまま凍った。


それでも、ネルの目は、主の胸から離れなかった。


「……ネル」


「見えてる」


歯の隙間から押し出すような声だった。


「大丈夫。あたしには、見えてる」


マーサさんの手袋の中で、紅糸を握る指だけが、まだ動いていた。

凍りついた世界の中で、そこだけに、小さな温もりが残っている。


(頼む)


俺は、泡を支え続けた。

膝が折れそうだった。視界は、もうほとんど白い。ネルの背中だけが、はっきりと見えた。凍った赤茶の尻尾が、小さく震えていた。


(ネルが、ここに立っている)


なら、俺が先に折れるわけにはいかない。


主が、息を吐き切った。

そして、次の息を吸うために、首を高くもたげた。


長い首が、天を仰ぐ。

胸が、大きくふくらむ。白い鎧の盛り上がりが、霧の中で、まっすぐにこちらを向いた。


――今。


「そこ!」


ネルが、叫んだ。


俺は、最後のひと曲がりを、泡に与えた。


泡レンズ(ソーラーバブル)。


音は、なかった。


霧の上から、真っ白な光が降りた。

太く、まっすぐで、まぶしくて。霧を貫き、湖の上の冷気を貫き、主の胸の真ん中へ。


分厚い氷の鎧が、紙のように貫かれた。


光は、止まらなかった。

鎧を抜けて、白い鱗を抜けて、その奥の芯へ。ひと呼吸ぶんの、ほんの一瞬。霧の中に、一本の白い柱が立った。


そして、消えた。


一拍。


時間が、止まったようだった。


主は、動かなかった。

首を高くもたげたまま、胸のまんなかに、小さな穴をあけて。その穴の奥から、赤い光が、にじみだした。


じわり、と。

鎧の内側から、ひびが広がるように、赤い光が広がっていく。氷が、内側から赤く透けた。胸、首、背中、腹へ。


主の青白い目が、ゆっくりと、見開かれた。



◇


湯けむりの柱が、立った。


主の体から、熱があふれた。

今まで食べてきたもの。湖の底から吸い上げた、地の底の熱。冷えていった温泉の熱。凍らされた、ありとあらゆる熱。それが、芯を失って、一度に噴き出した。


白い蒸気が、霧を吹き飛ばした。

巨大な柱になって、空へ、空へ。霧を突き抜け、青い空まで立ちのぼる。熱い風が、俺とネルの顔を叩いた。凍っていたまつげが、ぱきぱきと溶けて落ちる。


主は、長い咆哮をあげた。


……ぉぉぉぉぉぉおおん。


地の底から響くような、長い長い声。

怒りではなかった。苦しみとも、少し違った。ただ、遠くへ、遠くへ流れていくような声だった。


氷の鎧が、がらがらと崩れていく。

巨体が、ゆっくりと傾いた。そして、湖の割れ目へ、ずるりと沈んでいった。


水柱が、一本立った。

それが、最後だった。


あとには、湯けむりだけが残った。

霧は晴れ、湖の上に、まっすぐな日差しが戻っていた。



◇


街の北の見張り台で、若い衛兵が目をこすった。


湖の北の端には、いつものように、白い霧が低く垂れこめていた。昼前の日差しを受けて、霧の上だけが、妙にまぶしい。


そのとき、光が降りた。


霧の上から霧の中へ、一本の白い線が、すっとまっすぐに。音もなく、まばたきひとつぶんだけ。


それから、少し遅れて。


霧が、割れた。

真っ白な柱が、湖の北の端から天へ向かって、ゆっくりと立ちのぼっていく。湯けむりだ。街じゅうが湯けむりで真っ白だったころの、あのあたたかそうな白い柱。


「……おい」


衛兵は、隣の老いた同僚の袖を引いた。


「おい、見ろ。……神様だ」


老人は、何も言わなかった。

ただ、帽子を取って、胸の前に当てた。



◇


湯けむりの柱は、細くなって、やがて空にほどけていった。


俺は、膝から崩れた。

膝、というより、全部が。立っていた感覚が、すとんと抜けて、気づいたら氷の上に仰向けに転がっていた。


空が、青かった。

雲ひとつない空のまんなかに、太陽が、ぽつんと浮かんでいる。


(……動けない)


指一本、動かなかった。魔力は空っぽで、泡のかけらも作れない。頭だけが、不思議とすっきりしていた。


「リト!」


ネルが、駆け寄ってきた。

凍っていた髪は半分ほど溶けて、ぐしゃぐしゃになっている。頬には、涙の跡が白く残っていた。


「生きてる? 生きてるわよね!?」


「……生きてる」


「撃ったあとに倒れるやつがあるか! あんたが倒れたら、あたし運べないじゃない!」


「ごめん」


「謝らなくていい、ばか!」


ネルが、俺の腕を引っぱった。

そのとき、足元で、ぴし、と音がした。


氷が、割れはじめていた。

主がいなくなって、湖が目を覚ましたみたいに、あちこちでひびが走っていく。氷の板が、ゆっくりと傾きはじめた。


(足場の泡を)


作ろうとした。

何も出なかった。指先に、何の手応えもない。


「リト、動かないで!」


ネルが、紅糸を氷に突き立てた。

琥珀色の瞳が、氷をなぞる。顔が、苦痛にゆがんだ。目の奥の痛みを、歯を食いしばって押し込める。


「……ここ」


紅糸が、氷の上を走った。

俺たちの乗った氷が、割れ目に沿って、ひとつの板に切り離される。ネルが、その縁を紅糸の柄で突いた。氷の板が、岸のほうへゆっくりと滑りはじめる。


「ネル、目が」


「うるさい。黙って、運ばれてなさい」


岸に着くまで、ネルは何度も、氷の縁を突いた。

板が、葦原の根もとにぶつかって止まる。ネルが、俺の外套の襟をつかんで、ずるずると引きずり上げた。


枯れた葦の上に、二人で倒れこんだ。


しばらく、どちらも何も言わなかった。

葦の穂が、風に揺れている。空では、鳥が一羽、ゆっくりと円を描いていた。


ぽた。


どこかで、水の落ちる音がした。

ぽた。ぽた。

横を見ると、ネルの尻尾の先から、水が滴っていた。白く凍っていた毛が、日差しの下で、少しずつ溶けている。


「尻尾、ぽたぽたしてる」


「うるさい」


ネルは、空を見上げたまま、小さく笑った。


「……ねえ。あの光、いつから使えたのよ」


「ずっと前から。村の裏山で、こっそり練習してた」


「あたしにも、黙ってたじゃない」


「太陽がないと使えないし、本気で撃つと目立ちすぎる。見せる場所がなかった」


「ふうん」


ネルは、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。


「……きれいだった。霧の上の、もう一個の太陽」


「見えたのか」


「見えるわよ。あんなにまぶしかったんだもの」


顔が、熱くなった気がした。

凍えた頬が、やっと感覚を取り戻しただけかもしれない。


「……帰ったら、足湯ね」


「熱いやつな」


「熱いやつよ」


湖のほうから、湯けむりのにおいが、かすかに流れてきた。

温かくて、湿っていて、少しだけ懐かしいにおい。


(……やったんだな、俺たち)


実感は、まだなかった。

ただ、空が、驚くほど高く、青かった。







ネル「ねえリト。あたしたち、Aランクの魔物を倒したのよね」

リト「まあな」

ネル「なのに、なんで今日の晩ごはん、粥なのよ」

リト「目立ちたくないからだろ」

ネル「……わかってるわよ。わかってるけど!」

シェイラ「……焼き菓子、いる?」

ネル「シェイラ銀行から引き出したい……」



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