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凍る湖の上で


青白い光が、氷の下を近づいてくる。


湖の真ん中から、まっすぐにこちらへ。

氷の下の暗がりを、ゆっくりと、けれど確かに。光が近づくにつれて、足元の氷がみしみしと低く鳴りはじめた。


「……速くない?」


ネルが、紅糸を構えたまま囁いた。


「熱い泡を三つも流したからな。腹が減ってるんだろ」


「冗談言ってる場合じゃないでしょ!」


光は、俺たちが立っている岸辺の手前で止まった。

おとりの泡を流した、氷の割れ目の真下だ。


一瞬、すべての音が消えた。


それから。


――ばきぃっ!


氷が、内側から爆ぜた。

白い破片が、雨のように降ってくる。砕けた氷の真ん中から、巨大な首がせり上がった。


白霜の主。


近い。

昨日の朝、西の岸から見上げたときとは、比べものにならないほど近い。数十歩も離れていない。氷の鎧の一枚一枚に刻まれた、細かいひびまで見えた。鎧の継ぎ目からのぞく白い鱗。荷馬車ほどもある頭。その両側で、青白い目が二つ、俺たちを見下ろしていた。


冷気が、肌を刺した。


息を吸っただけで、喉の奥が凍りつきそうだった。まつげに、白い霜がつく。外套の襟が、ぱりぱりと音を立てて固まっていく。

主のまわりにいるだけで、体の熱が吸い取られていく。


(……手が)


指先だけは、温かかった。

マーサさんの手袋が、冷気を防いでくれている。焦げ茶色の毛糸の中で、指がちゃんと動く。


隣で、ネルも赤茶色の手袋をはめた手で、紅糸の柄を握り直していた。



◇


主が、口を開いた。


おとりの泡を、一つ、二つ、三つ。白い息と一緒に吸い込んで、熱を食べる。

それから、青白い目が、ゆっくりと俺たちのほうを向いた。


もっと熱いものが、そこにある。


「……来るわよ」


「わかってる。……ネル、今は逃げるぞ」


撃つのは、昼前だ。

東の山の上には、まだ太陽が顔を出したばかり。こんな弱い光じゃ、あの鎧は貫けない。


それまで、ここで、あいつを引きつけ続ける。

逃げ回りながら。


主の首が、ぐっと縮んだ。

蛇が、獲物に飛びかかる前のように。


「今だ!」


俺はネルの手をつかんで、凍った湖の上へ飛び出した。

同時に、足元に泡を敷く。米粒よりも小さな、弾む泡を何十個も。


滑り泡(スリップバブル)。


いつもは、敵を転ばせるための泡だ。

でも、自分たちが乗れば。


二人の体が、氷の上をつるりと滑り出した。


「ちょっ――!?」


ネルの悲鳴が、風に流れていく。

背中のほうで、主の頭が、さっきまで俺たちがいた場所の氷を叩き割った。轟音。氷の破片が、背中に降り注ぐ。


けれど、俺たちはもう、そこにいなかった。


「速い速い速い速いっ! リト、これ、どうやって止まるのよ!?」


「止まらない!」


「はあっ!?」


「止まったら、食われる!」


滑り泡を、次々に足元へ敷いていく。氷の上を、そりのように滑っていく。右へ、左へ。凍った湖面の盛り上がりを避けて。

ネルが、俺の腕にしがみついていた。尻尾が、風を受けて真横になびいている。


「あ、あんた、これ、いつ練習したのよ!?」


「今!」


「最低っ!」


背中で、また氷が砕ける音がした。

主が、追ってきている。



◇


逃げては、止まる。

止まっては、泡を流す。


俺は、熱い泡を一つだけ、主の鼻先へ流した。主がそれを追って首を向ける。そのあいだに、少しだけ距離を取る。また主がこちらを向いたら、滑って逃げる。


それを、何度も繰り返した。


泡は、ぎりぎりまで節約した。

おとりの泡は、小さく。滑り泡は、必要な分だけ。

全力の一発のために、魔力を残しておかなければならない。今ここで使い切ったら、昼前に何もできなくなる。


だから、泡が足りないときは、ネルが動いた。


主が、白い息を吐いた。

霧のような冷気が、地面を這うように押し寄せてくる。触れたものを、片っ端から凍らせる息。


「リト、下がって!」


ネルが、俺の前に飛び出した。

紅糸を、足元の氷に突き立てる。


琥珀色の瞳が、氷の表面をなぞった。

二つ数えるほどの、ほんのわずかな間。


――ぴっ。


紅糸が、氷の上を一直線に走った。

次の瞬間、俺たちが立っていた氷が、まわりから切り離された。畳二枚ほどの、氷の板。その板が、割れ目の黒い水の上で、ぐらりと揺れる。


「つかまって!」


ネルが、紅糸の柄で氷の縁を思いきり突いた。

氷の板が、すうっと水の上を滑り出す。白い息が、さっきまで俺たちがいた場所を、真っ白に凍らせていった。


ほんの、数歩の差だった。


「……っ、はあ」


ネルが、氷の板の上にへたり込んだ。


「綻び、氷にも、あるのね……」


「助かった」


「お礼は、あとで湯菓子でいいわよ」


「この状況で、それ言うか」


「言うわよ。生きて帰って、食べるんだから」


ネルは、ふんと鼻を鳴らした。

けれど、その手は、紅糸の柄を握ったまま小さく震えていた。



◇


氷の板を岸寄りの厚い氷に寄せて、二人で飛び移った。


そのとき、主の姿が消えていることに気づいた。


さっきまで霧の向こうにそびえていた白い首が、どこにもない。割れ目の黒い水面が、ゆらゆらと揺れているだけだった。


「……潜った?」


ネルが、あたりを見回した。

湖が、しんと静まり返った。風の音も、氷のきしむ音も、何も聞こえない。


足の裏が、冷たくなった。


氷を通して、真下から。

骨の芯まで凍りつくような冷気が、じわりとのぼってくる。


(……下だ)


「ネル、跳べ!」


叫んだのと、足元の氷が砕けたのは、ほとんど同時だった。


ネルは、横へ跳んでいた。

俺は、一瞬遅れた。


砕けた氷の間から、主の頭が突き上がってくる。足場が消えて、体が宙に浮いた。その下には、黒い水。


(――落ちる)


とっさに、足元へ泡を作った。

膜をぎりぎりまで硬くした、板のような泡。それを一枚、二枚、三枚。水面の上に、階段のように並べる。


一枚目を踏む。

二枚目を蹴る。


三枚目の泡を踏み台にして、俺は氷の縁へ転がり込んだ。

片足だけ、膝まで水に浸かっていた。


「リト!」


ネルが、俺の腕をつかんで引きずり上げた。

濡れた足が、たちまち白く凍りついていく。ズボンの布が、板のように固まった。


「ばかっ、だから下がってって……!」


「……大丈夫だ。足は、動く」


嘘じゃなかった。

感覚はほとんどなかったけれど、足はまだ動いた。マーサさんの手袋をはめた手で、凍った膝を何度もさする。


主の頭は、また霧の向こうへ持ち上がっていた。

青白い目が、こちらを探している。


(……泡を、三つも使った)


全力の一発のための魔力が、また少し減った。

俺は、奥歯を噛みしめた。



◇


日が、少しずつ高くなっていった。


けれど、湖の上は明るくならなかった。


主のまわりに、白い霧が立ちこめていた。

主が吐く冷たい息が、湖の上の空気を冷やして、凍った霧になる。霧は、湖面の上の、低いところにだけ溜まっていた。主が動くたびに、霧はどんどん濃くなっていく。


霧の向こうで、太陽は白くぼやけた円盤にしか見えなかった。


(……これじゃ、足りない)


俺は、何度も空を見上げた。

霧の上の空は、青く晴れている。太陽の光は、霧の上までは届いている。けれど、霧の中までは、薄い光しか落ちてこない。


(霧の上なら)


レンズを、霧の上まで浮かべればいい。

そこで光を集めて、霧の中へ撃ち下ろす。


できる。

たぶん。


(あとは、太陽の高さだ)


もっと高く。

もっと強く。

昼前。いちばん光が強くなる、そのときまで。


「リト、ねえ、見て」


氷の陰で息を整えていると、ネルが自分の尻尾を持ち上げてみせた。

ふさふさの赤茶の毛が、先のほうから真っ白に凍りついていた。まるで、筆の先に白い絵の具をつけたみたいに。


「……尻尾、凍ってる」


「凍ってるわよ! 毛の一本一本まで、ぱりぱりなの!」


ネルは、凍った尻尾の先を手袋で握りしめて、恨めしそうに主のほうを睨んだ。


「帰ったら、マーサさんの足湯で絶対に溶かすんだから。……熱いやつで」


「ああ。熱いやつでな」


俺は、少しだけ笑った。

笑うと、凍えた頬が引きつって痛かった。それでも、少しだけ体が軽くなった気がした。


霧は、湖の北の端をすっぽりと覆っていた。

岸の葦原も、もう見えない。きっと、街からはなおさらだ。何キロも向こうの丘の陰から、こんな霧の中が見えるはずもない。


誰にも、見られていない。

それだけが、今の救いだった。


その間にも、主は止まらなかった。

氷を割りながら、這い寄ってくる。首を振り回して、氷の破片を飛ばしてくる。ネルが、紅糸でそれを断ち切る。俺が、滑り泡で二人を運ぶ。


息が、上がっていた。

足が、重かった。


頭のどこかで、何度も同じ顔が浮かんでは消えた。

冷えた足湯の縁を撫でていた、マーサさんの皺だらけの手。舟の板を一枚ずつ選り分けていた、ゲルトさんの太い指。湯気の消えた洞を見つめていた、トーマスさんの背中。


それから、桟橋の端で絡めた、冷たい小指。


(……ごめんなさい、シェイラさん。もう少しだけ)


体の熱が、少しずつ奪われていく。手袋の中の指先は温かい。けれど、頬や耳はもう感覚がなかった。吐く息まで、すぐに凍りつく。



◇


「……見えない」


氷の板の陰に身をかがめて、ネルが呟いた。


ネルは、ずっと主を見ていた。

逃げながら。紅糸を振るいながら。ほんのわずかな隙を見つけては、琥珀色の瞳で、主の巨体をなぞっていた。


芯を、探すために。


「線は、見えるの。でも」


ネルは、目元を手袋の甲で押さえた。


「全部、水の中に向かってるの。首も、背中も、鎧の継ぎ目の線も。……全部、氷の下に潜っていっちゃう。どこで結ばれてるのか、見えない」


主の体の大半は、氷の下にあった。

首と、背中のほんの一部だけが、氷の割れ目から出ている。その下には、湖の暗い水の中に、どれほどの長さの体が続いているのか、わからない。


「それに……細いの」


ネルの声が、震えた。


「線が、すごく細いの。髪の毛より、細い。見えても、一瞬で消えちゃう。……アラクネの女王より、ずっと」


格上ほど、綻びは細く、一瞬しか見えない。

ネルの目元を押さえる手の、指の隙間から。涙がこぼれて、頬の上で白く凍りついていた。


「ネル、目は――」


「平気」


ネルは、手を離して顔を上げた。

赤く充血した目で、霧の向こうの主を睨む。


「まだ、見える。……でも、水の中じゃ無理。あいつの体を、上に出させないと」


上に。

氷の上に。水の外に。


俺は、空を見上げた。


霧の上で、太陽が、白く、強く光りはじめていた。

もうすぐ、昼だ。



◇


俺の魔力も、限界が近かった。


おとりの泡を、いくつ流しただろう。滑り泡を、いくつ敷いただろう。節約したつもりでも、体の奥が空っぽになりかけているのがわかる。

全力の一発のために、残しておいた分。それに手をつけたら、もう撃てない。


ネルの目も、限界だった。

体の熱も。


もう、これ以上は待てない。


「……ネル」


「なに」


「最後のおとりを、空に浮かべる」


ネルが、俺を見た。


「あいつは、熱を追う。おとりが高いところにあれば、あいつは首を伸ばす。首だけじゃ届かなければ、体ごと、水から上がってくる」


「……体を、出させるのね」


「ああ。そしたら、見えるか」


ネルは、霧の向こうの主を見つめた。

それから、こくりと頷いた。


「見る」


俺は、右手を空へ向けた。


指先に、泡を作る。

中に湯を閉じ込めて、種火を入れる。今度は、ひとかけらじゃない。残った魔力の、ほんの少しを注ぎこんで、熱い熱い泡にする。


それを、高く。

霧の中を、上へ、上へ。


主の目の前を通って、ずっと高いところまで。


主の首が、泡を追って、ぐうっと持ち上がった。


青白い目が、空を見上げる。首が伸びる。伸びる。けれど、届かない。

主の喉の奥から、低い唸り声が漏れた。


……ぉぉぉおおん。


氷が、鳴った。


主の首の付け根のまわりで、氷が大きく盛り上がった。ぴしぴしと、無数のひびが走る。

その下から、何かがせり上がってくる。


胸だった。


白い鎧に覆われた、分厚い胸。

それから、太い前脚。氷の縁に爪を立てて、主の巨体が、水の中から引きずり出されていく。


霧の中に、白い山がそびえ立った。


首だけで、小屋の屋根より高い。

その下に、胸と、前脚と、背中の半分。氷の鎧が、霧の中で鈍く光っている。湖の底から現れた、白い塔のようだった。


俺は、息を呑んだ。


隣で、ネルが、すうっと目を細めた。

琥珀色の瞳が、主の巨体を、首から胸へ、胸から腹へと、ゆっくりとなぞっていく。


髪の毛よりも細い、無数の線。

それが、白い鎧の下で、一つの場所へ向かって集まっていく。


「……見えた」


ネルが、かすれた声で言った。


霧の上で。

太陽が、いちばん高いところへ、のぼろうとしていた。




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