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北の葦原へ


「とっておき?」


ネルが、俺の顔を覗き込んだ。

窓から差しこむ朝の光が、机の上の水差しをきらきらと照らしている。


「光を集める泡だ」


俺は、机の上の小さな光の点を指さした。


「火じゃない。熱でもない。光を一点に集めて、撃つ。……あいつは熱を食べるけど、光は食べられない。届いた瞬間に、熱になるから」


「そんなこと、できるの?」


「できる。村にいたころから、こっそり練習してた」


ネルは、目をぱちぱちと瞬かせた。それから、むっと唇を尖らせる。


「……なんで、今まで黙ってたのよ」


「使う場所がなかったんだ。それに、ちょっと条件がある」


俺は、指を一本立てた。


「一つ。太陽がいる。夜や雲の下じゃ使えない」


もう一本。


「二つ。本気で撃てるのは、一回だけだ。全力で撃ったら、たぶん俺はしばらく立てない」


ネルの狐耳が、ぴくりと動いた。


「一回だけ……」


「ああ。でも、当たれば」


俺は、窓の外の湖を見た。真ん中の白い濁りが、朝日の中で鈍く光っている。


「当たれば、あいつの鎧ごと届く」


ネルは、しばらく黙っていた。

膝の上で、紅糸の柄を握ったり離したりしている。やがて顔を上げると、琥珀色の瞳でまっすぐに俺を見た。


「じゃあ、あたしが見つける」


「何を」


「あいつの芯。どこに撃てばいいのか」


ネルは、紅糸の柄をとんと指で叩いた。


「綻びの線ってね、全部ばらばらに走ってるわけじゃないの。生き物なら、線はみんな一つの場所に向かって集まってる。たくさんの糸を、一つに結んでる結び目みたいなとこ。……そこが、その生き物の芯なの。今まで見てきた魔物は、みんなそうだった」


「見えるか? あんなでかい奴の」


「見る」


ネルは、きっぱりと言った。


「あたしが見つける。あんたは、それを撃つ。……一回で、当てなさいよ」


「……ああ」



◇


作戦は、その場で決めた。


あいつは、熱を追う。昨日の朝、俺が流した熱い泡を追って、岸から離れていった。

だから、熱い泡をおとりにして、あいつを街から遠ざける。湖の北の端。雪解けの川が流れこむ葦原の沖。街から何キロも離れていて、人は誰も住んでいない。


「北の端まで、どれくらいかかるの?」


「湖沿いに歩いて、二時間くらいだと思う。トーマスさんが、昔は葦を刈りに行ってたって言ってた」


夜明けに、おびき出す。

それから、日が高くなるまで、あいつを引きつけて逃げ回る。

本気の一発を撃つのは、昼前。太陽がいちばん強くなるころ。


「昼前まで、逃げ回るの?」


「ああ」


「……あの化け物から?」


「ああ」


ネルは、天井を仰いだ。


「無茶苦茶ね」


「知ってる」


「……でも、やるのよね」


「やる」


ネルは、大きく息を吐いた。それから、ふっと口元をゆるめた。


「わかった。あたしも、やる」



◇


その日の午後は、いつもどおりトーマスさんの手伝いに行った。

急に姿を見せなくなれば、誰かに怪しまれるかもしれない。いつもどおりにしているのが、いちばん目立たない。


東の宿屋通りは、昨日よりもさらに静かになっていた。

宿の入口に、貼り紙が増えている。


『湯止めのため、しばらく休みます』

『湯が戻るまで、日帰りの湯はお断りします』


大きな温泉宿の前で、宿の主人らしい男が、ぼんやりと空を見上げていた。湯けむりの立たない屋根を。


トーマスさんの薪割りは、もう半分も必要なかった。湯を沸かすための薪じゃない。湯がぬるくなりすぎた湯船を、少しでも温めるための薪だった。それも、もうすぐいらなくなる。


「……今日は、ここまででいい」


トーマスさんは、半分残った薪の山を見て、ぼそりと言った。


「明日は、来なくていい。……あさっても、たぶんな」


依頼書に完了の印を押す手が、少しだけ震えていた。



◇


ギルドへ戻る途中、東の岸に避難した漁師たちの小屋の前を通った。


ゲルトさんが、壊れた舟の板を一枚ずつ並べていた。毛布を肩にかけたまま、太い指で板の傷を確かめている。顔色は、昨日よりずっとよくなっていた。


「ゲルトさん、もう起きて平気なの?」


ネルが駆け寄ると、ゲルトさんは髭の奥でにやりと笑った。


「寝てたって、舟は直らねえからな。使える板を選り分けてんだ。湖が元に戻ったら、すぐに漕ぎ出せるようにな」


「戻ったら……」


「戻るさ。この湖はな、何百年もこの街を食わせてきたんだ。そう簡単に死ぬもんか」


ゲルトさんは、湖のほうを見た。白い濁りの広がる、真ん中のほうを。

それから、ネルの頭にぽんと手を置いた。


「舟ができたら、網もいる。約束、忘れんなよ」


「……忘れないわよ」


ネルは、少しだけうつむいて答えた。


「あさってには、繕いに来るから。網、用意しといて」


「あさって? 気が早えな」


ゲルトさんは笑った。

ネルも、つられたように少しだけ笑った。その尻尾が、ゆっくりと揺れていた。



◇


ギルドに報酬を受け取りに行くと、焚き火の輪の三人がカウンターの前にいた。


「よう、リト、ネル」


カインが、片手を上げた。

いつもの軽い調子だったけれど、どこか元気がない。


「俺たち、相談してたんだ。このまま湯が止まったら、王都に戻ろうかってな」


「戻るの?」


ネルが、目を丸くした。


「漁ができなきゃ、氷鱗魚の鱗も集まらねえ。湯が止まれば、宿屋通りの仕事もなくなる。……稼げない街に、いつまでもいられねえからな」


ドルフが、困ったように頭をかいた。


「まあ、すぐってわけじゃないけどな。あと何日か、様子を見てからだ」


ティナは、黙ってネルの袖をつかんでいた。

それから、しょんぼりと二つ結びの髪を揺らした。


「……せっかく、ネルちゃんと温泉入れると思ったのに」


「え?」


「だって、ミルヴェールの温泉だよ? ネルちゃんと一緒に入って、尻尾がふわふわになるとこ、見たかったの」


「な、なによそれ……!」


ネルの尻尾が、ぶわっと膨らんだ。

ティナは、それを見て、少しだけ笑った。けれど、その笑顔はすぐにしぼんでしまった。


「……湯、戻るといいね」


「……うん」


ネルは、小さく頷いた。

それから、ほんの一瞬だけ、俺のほうを見た。


(……戻すさ)


俺は、心の中だけで答えた。



◇


その夜、マーサさんに、明日のことを話した。


「明日は朝早くから、北の葦原へ薬草を採りに行ってきます。帰りは、夕方になるかもしれません」


「北の葦原? ずいぶん遠くまで行くんだねえ」


マーサさんは、帳場で帳面をつけていた手を止めて、俺たちを見た。


「湯守の仕事も、もうおしまいでしょう? だから、ちょっと遠出してみようかって」


ネルが、少し早口で付け加えた。

嘘をつくのは、慣れていない。尻尾が、落ち着きなく揺れている。


マーサさんは、しばらく俺たちの顔を見ていた。

それから、帳場の奥の棚に手を伸ばした。


「ちょうどよかった。これ、持っていきな」


棚から下ろされたのは、毛糸で編んだ手袋だった。

二組。片方は焦げ茶色で、もう片方は赤茶色。指の先までしっかりと編みこまれた、分厚い手袋だった。


「足湯が冷えてから、夜が長くてねえ。暇つぶしに編んでたんだよ。北の葦原は、湖の風がまともに当たるから冷えるからね」


赤茶色のほうを、ネルの手に乗せる。


「ネルちゃんのは、髪の色に合わせてみたんだよ」


ネルは、手袋を両手で持ったまま、動かなかった。

狐耳が、ゆっくりと伏せられていく。


「……あ、ありがと」


「いいんだよ。……無理するんじゃないよ」


マーサさんは、それだけ言って、また帳面に目を落とした。


俺は、焦げ茶色の手袋をはめてみた。

ぴったりだった。手のひらの中が、じんわりと温かかった。



◇


部屋に戻っても、なかなか眠れなかった。


壁の向こうから、ネルが寝返りを打つ音が聞こえる。

しばらくして、扉が小さく叩かれた。


「……起きてるわよね」


「起きてる」


ネルは、マーサさんの櫛を手に持って、部屋に入ってきた。窓辺に腰を下ろすと、自分の尻尾を膝に乗せて、ゆっくりと梳きはじめる。

俺も、その隣に座った。

湖は、今夜も黒い鏡のように静まり返っていた。


「……ねえ、リト」


櫛を動かしながら、ネルが言った。


「明日、うまくいってもさ。誰にも言えないのよね。あたしたちがやったって」


「言えないな」


「マーサさんにも、ゲルトさんにも、トーマスさんにも」


「ああ」


ネルは、櫛を止めた。

それから、少しだけ笑った。


「……別に、いいの。名乗れなくても」


琥珀色の瞳が、湖を映していた。


「湯けむりが戻れば、それでいい。マーサさんの足湯が、また熱くなれば。……それで、いいの」


俺は、しばらく何も言えなかった。


目立ちたくない。

誰にも、この力を知られたくない。

村を出たときから、ずっとそう思ってきた。今も、その気持ちは変わらない。


でも。


「……俺もさ」


湖の、白い濁りを見つめた。


「この街の湯けむりを、見てみたいんだ。丘の上から見たとき、半分しか立ってなかっただろ。本当は、街じゅう真っ白になるんだって、商隊長が言ってた」


「……うん」


「それを、見てみたい」


ネルは、また櫛を動かしはじめた。

しばらくして、ぽつりと言った。


「シェイラさんに怒られるときは、一緒ね」


「……ああ。一緒だ」


窓の外で、夜が静かに更けていった。



◇◆◇



まだ暗いうちに、俺たちは宿を出ようとした。


足音を忍ばせて階段を下りると、厨房に明かりがついていた。

鍋の煮える音。ふわりと漂ってくる、干し魚の粥の匂い。


「おや、早いねえ」


マーサさんが、厨房から顔を出した。いつもの前掛け。爺さんが最初に買ってくれた、ネルが繕った前掛けだ。


「薬草採りだろう? ちょうど粥ができたところだよ。食べていきな」


いつもと同じ声だった。

マーサさんは、毎朝誰よりも早く起きて、粥を炊く。俺たちが来る前から、きっとずっとそうしてきたのだろう。


二人で、帳場の机に並んで粥をすすった。

干し魚の塩気が、冷えた体の芯まで染みていく。ネルの椀には、いつもどおり、干し魚が少しだけ多く入っていた。


「ごちそうさまでした」


「はいよ。気をつけてお行き」


マーサさんは、厨房から手を振った。

扉を開けると、夜明け前の冷たい風が吹きこんできた。



◇


湖沿いの道を、北へ歩いた。


街の灯りは、すぐに背中の向こうへ遠ざかった。左手には黒い湖。右手には、霜をかぶった草原と、低い丘。空には、まだ星が残っていた。

マーサさんの手袋のおかげで、指先は温かかった。


ネルは、ずっと黙って歩いていた。ときどき、手袋をはめた自分の手を、ぎゅっと握ったり開いたりしている。


「……怖いか」


「怖いわよ。当たり前でしょ」


ネルは、前を向いたまま答えた。


「でも、アラクネの巣に比べたら、まだましよ。今度は、どこにいるのか最初からわかってるもの」


「それは、そうだな」


「それに」


ネルは、手袋の指先を見つめた。


「この手袋、あったかいから。……たぶん、大丈夫」


湖の上を、冷たい風が渡っていった。

桟橋の端で絡めたシェイラさんの小指の冷たさを、少しだけ思い出した。


一時間ほど歩くと、道は細くなり、やがて途切れた。その先は、背の高い枯れた葦が、どこまでも続いていた。

葦をかき分けながら、さらに歩く。足元の土が、だんだんぬかるんでいく。


やがて、葦の向こうから、水の流れる音が聞こえてきた。


雪解けの川だった。北の山から流れ下ってきた川が、ここで湖に注ぎこんでいる。川の水は、湖よりもさらに冷たそうに見えた。


葦原の端に立つと、目の前に、湖が広がっていた。


北の端の湖面は、岸から沖まで、白く凍りついていた。

主が通ったのだ。川を下ってきて、湖に入ったときに。氷は、ところどころ盛り上がって、割れて、また凍りついていた。巨大な何かが、這いずっていった跡のように。


振り返っても、街は見えなかった。

湖の向こうの、ずっと遠く。丘の陰に隠れて、灯りひとつ見えない。


「……ここなら」


ネルが、白い息を吐いた。


「ああ。ここなら、誰にも見られない」


東の空が、白みはじめていた。

山の稜線が、少しずつ浮かび上がってくる。もうすぐ、夜が明ける。


俺は、凍った湖の縁に立った。

右手を、湖の真ん中のほうへ向ける。


指先に、泡を作る。中に湯を閉じ込めて、種火をひとかけら。膜を厚くして、熱が逃げないようにする。昨日、岸辺で流したのと同じ、熱い泡。


一つ。

二つ。

三つ。


氷の割れ目から、黒い水面へ。

泡を、そっと湖の真ん中へ向けて流した。


それから、待った。


息が白い。

ネルが、紅糸の柄に手をかけたまま、じっと湖の向こうを見つめている。

夜明け前の湖は、恐ろしいほど静かだった。


どれくらい、待っただろう。


遠く、湖の真ん中の、白い濁りの中で。

青白い光が、ぽつりと灯った。


その光が、ゆっくりと。

本当にゆっくりと。


こちらを、向いた。


「……来るぞ」


俺は、かすれた声で言った。


ネルが、紅糸を鞘から抜き放った。

青白い刃の縁が、夜明け前の薄闇の中で、星のように光った。




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