熱を喰らう主
鐘の音を背中に聞きながら、俺とネルは湖沿いの道を駆けた。
夜明け前の空は、まだ群青色だった。吐く息が白い。石畳の凍った道で何度も足を取られそうになりながら、西の岸を目指す。
街のあちこちで、窓に明かりがともりはじめていた。扉が開き、寝間着のまま外へ飛び出してくる人がいる。誰もが西のほうを見ていた。
漁師小屋の並ぶ岸が見えてきたとき、俺は思わず足を止めた。
岸辺の湖面が、白く光っていた。
氷だった。昨日までは岸辺に薄く張っているだけだった氷が、今は沖まで分厚く広がっている。その氷の真ん中が、大きく割れていた。
そして、その割れ目から。
白い山のようなものが、そびえ立っていた。
◇
それは、竜だった。
水の竜。湖の底に棲む、蛇のように長い体の竜。
けれど、その体は鱗ではなく、白く濁った氷の鎧に覆われていた。分厚い氷の板が何枚も重なり合って、首から背中へ、鎧のように連なっている。鎧の継ぎ目からは、岸で拾ったあの白い鱗が覗いていた。
首だけで、漁師小屋の屋根よりも高い。
頭は荷馬車ほどもあった。その頭の両側で、青白い目が二つ、冷たく光っている。
白霜の主。
熱喰らい。
「……っ」
ネルが、俺の袖をつかんだ。その指が震えていた。
主が、ゆっくりと口を開いた。
白い息が、吐き出される。それは霧のように岸辺へ流れていき、触れたものを片っ端から凍らせていった。干してあった網が、白く固まる。小屋の軒先から、つららが一瞬で伸びる。
岸辺のあちこちに、火鉢が置いてあった。
網が凍りつかないように、漁師たちが夜通し焚いていた火だ。その炎が、主の息に触れたとたん、ふっと消えた。
一つ。
また一つ。
炎が消えるたびに、そこから細い湯気のようなものが立ちのぼり、主の口の中へ吸い込まれていく。
(……熱を、食べてる)
火鉢の熱に引き寄せられて、上がってきたんだ。
◇
「ゲルトの舟が!」
誰かの叫び声がした。
岸から少し離れた氷の割れ目のそばで、小さな舟が持ち上げられていた。主の体の下から、氷ごと突き上げられている。舟の上で、髭もじゃの大男が必死に縁にしがみついていた。
ゲルトさんだ。
舟が、傾いた。
ゲルトさんの体が、宙に放り出される。割れた氷の間の、黒い水の中へ。
「ゲルトさんっ!」
ネルが叫んだ。
岸辺には、もう冒険者たちが集まっていた。剣や槍を構えた男たち。弓を引き絞る女。その中に、焚き火の輪の三人の姿もあった。
「放て!」
誰かの号令で、矢が一斉に放たれた。
けれど、矢は主の氷の鎧に当たって、乾いた音を立てて弾かれた。一本も、刺さらない。
「なら、これでどうだ!」
杖を構えた魔法使いの男が、声を張り上げた。
「フレイム!」
杖の先から、拳ほどの火の玉が放たれた。
まっすぐに主の顔へ向かって飛んでいく。
けれど、火の玉は届かなかった。
主の顔の、まだ何歩も手前で。火の玉はみるみる小さくなり、色を失い、ふっと消えた。最後に残った細い湯気が、主の口へ吸い込まれていく。
「……嘘だろ」
魔法使いの男が、杖を握ったまま立ち尽くした。
◇
「ドルフ! ゲルトさんだ!」
カインが叫んだ。
荷車の上に飛び乗って、湖を見渡している。
「割れ目の左! 網に足を絡めとられてる! 沈むぞ!」
「おうよ!」
ドルフが、氷の上へ飛び出した。
分厚い氷がみしりと鳴る。それでもドルフは止まらなかった。割れ目の縁に這いつくばって、黒い水の中に太い腕を突っ込む。
「つかまえた!」
ドルフの腕が、ゲルトさんの外套の襟をつかんでいた。けれど、引き上げられない。ゲルトさんの足に、ひっくり返った舟の網が絡みついている。その網が舟ごと水の底へ引きずり込まれて、ゲルトさんの体を下へ引っ張っていた。
「くそっ、重てえ! 網が切れねえ!」
ドルフの顔が、真っ赤になっていた。
【怪力】でも、網と舟と水の重さをまとめて引き上げることはできない。
ネルが、氷の上へ駆け出した。
「ネル!」
「網なら、あたしの仕事でしょ!」
ネルは割れ目の縁に滑り込むと、腰の紅糸を抜き放った。
青白い刃の縁が、夜明け前の薄闇の中で星のように光る。
ネルは、黒い水の中に刃を差し入れた。
ほんの一瞬。琥珀色の瞳が、水の中の網をなぞる。
――ぴっ。
網が、断たれた。
ゲルトさんの足に絡みついていた網が、まとめて解き放たれる。
「今!」
「うおおおっ!」
ドルフが、ゲルトさんの体を一気に氷の上へ引きずり上げた。
ゲルトさんは、氷の上にぐったりと横たわった。髭も髪も、白く凍りついている。唇が紫色だった。
「ティナ!」
「わかってる!」
ティナが、ゲルトさんのそばに膝をついた。小さな両手を、凍えた胸の上にかざす。
淡い緑色の光が、ふわりとにじみ出した。
「……しっかりして、ゲルトさん!」
光が、ゲルトさんの体を包み込む。紫色だった唇に、少しずつ赤みが戻ってくる。
やがて、ゲルトさんが、げほっと水を吐いた。
「……生きてる」
ネルが、紅糸を握ったまま、へなへなとその場に座り込んだ。
◇
けれど、主はまだそこにいた。
岸辺の火鉢を、全部食べ終えたのだろう。主は首をめぐらせて、岸のほうを見た。
青白い目が、集まった人々を見下ろす。
(……まずい)
人の体も、温かい。
主が、ゆっくりと首を岸へ伸ばしはじめた。白い息が、岸辺に向かって流れてくる。息に触れた冒険者が、悲鳴を上げて後ずさった。その手の剣に、霜がびっしりとついている。
「下がれ! みんな下がれ!」
誰かが叫ぶ。
けれど、凍った岸辺で足がもつれて、うまく逃げられない。
「目だ!」
カインが、荷車の上で弓を引き絞っていた。
「鎧のないとこなら、通るはずだ!」
【鷹の目】が、青白い目の一点を捉える。
カインの指が、弦を放した。
矢は、まっすぐに飛んだ。
主の左目の、すぐ下。氷の鎧の、ほんのわずかな隙間に。
突き刺さった。
主が、首をのけぞらせた。
……ぉぉぉおおん、と。地の底から響くような咆哮が、湖じゅうを震わせた。氷が、岸から沖までびしびしと鳴る。
「刺さった! 刺さったぞ!」
カインが叫んだ。
けれど、主は倒れなかった。首を振って矢を振り落とすと、怒ったように、ふたたび岸へ首を伸ばしてきた。
今度は、さっきよりも速い。
◇
俺は、人の群れの後ろへ下がった。
誰もが主を見ている。悲鳴と怒号の中で、誰も俺のことなんか見ていない。
(……熱を、追うんだろ)
右手を、湖の沖へ向けた。
指先に、泡を作る。
中に湯を閉じ込めて、種火をひとかけら。膜を厚くして、熱が逃げないようにする。湯気をたっぷり含んだ、熱い泡。
一つ。二つ。三つ。
氷の割れ目の、黒い水面すれすれを。
泡を、そっと沖へ流した。
夜明け前の薄闇の中で、小さな泡なんて誰の目にも見えない。けれど、熱の塊だ。
主の首が、ぴたりと止まった。
青白い目が、ゆっくりと沖のほうへ動いた。
岸に集まった人間たちより、もっと熱いものが、沖にある。
主の首が、岸から離れた。
泡を追って、沖へ向きを変える。
四つ。五つ。
俺は、泡を流し続けた。少しずつ遠くへ。湖の真ん中のほうへ。
主の巨大な体が、氷を割りながら沖へ進んでいく。
やがて、その頭が水面の下へ沈んだ。白い氷の鎧が、首から背中へと、次々に黒い水の中へ消えていく。
最後に、長い尾が一度だけ水面を打った。
それきり、湖は静かになった。
割れた氷の間で、黒い水がゆっくりと揺れていた。
岸辺に残ったのは、消えた火鉢と、凍りついた網と、壊れた舟と。それから、白い息を吐きながら立ち尽くす人々だけだった。
「……行った、のか?」
誰かが、かすれた声で呟いた。
「沖のほうへ、戻ってったぞ」
「なんで急に……」
「カインの矢が、効いたんじゃないか?」
岸辺のあちこちで、そんな声が上がりはじめた。
カインが、荷車の上で弓を握ったまま、ぽかんと口を開けていた。
(……そういうことにしておいてくれ)
俺は、冷えきった指先を外套の中で握りしめた。
◇
夜が、明けた。
西の岸の舟は、ほとんど壊されていた。ゲルトさんの舟も、ひっくり返ったまま氷に挟まっている。けが人も、何人も出ていた。凍傷を負った漁師たちを、ティナが一人ずつ手当てして回っていた。
ポーラさんが、ギルドの職員たちを連れて駆けつけてきた。眼鏡がずれたまま、真っ青な顔で岸辺を見回している。
「西の岸の人は、みんな東の宿屋通りへ移ってもらいます! 火鉢は、もう焚かないで! 主は、熱を追ってくるみたいだから!」
ポーラさんの声が、震えていた。
ゲルトさんは、毛布にくるまれて、漁師小屋の壁にもたれていた。
顔色はまだ悪かったけれど、目はしっかりしていた。ネルが近づくと、ゲルトさんは髭の奥で、かすかに笑った。
「……嬢ちゃんか」
「ゲルトさん」
「網、切ってくれたのは、嬢ちゃんだろう」
ネルは、黙って頷いた。
「繕いだけじゃなく、切るほうもうまいとはな」
ゲルトさんは、毛布の中から太い手を出して、ネルの頭をわしわしと撫でた。
「ありがとよ。……命の礼は、何で払えばいい」
「……また、網を繕わせて」
ネルは、うつむいたまま答えた。
「舟、また作るんでしょ。そしたら、網もいるでしょ」
ゲルトさんは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、声を出さずに笑った。
「……ああ。頼むぜ」
◇
漁師小屋の軒下で、焚き火の輪の三人が座り込んでいた。
ドルフの袖は、肘までびしょ濡れで、白く凍りついていた。ティナは、何人もの漁師を手当てしたせいで、肩で息をしている。カインだけが、弓を膝に抱えて、まだどこか呆けた顔をしていた。
「……俺の矢、ほんとに効いたのかな」
カインが、ぽつりと言った。
「効いたんじゃないか。刺さったのは、カインの矢だけだったし」
俺がそう言うと、カインは少しだけ顔を上げた。それから、照れくさそうに鼻の頭をかいた。
「へへっ。……まあな。【鷹の目】のカイン様だからな」
「調子に乗らないの」
ティナが、カインの脇腹を肘で小突いた。けれど、その顔は少しだけ笑っていた。
ドルフが、ネルのほうを見た。
「嬢ちゃん。網、助かったぜ。あのままじゃ、俺まで引きずり込まれてた」
「……ドルフが引っ張ってくれなきゃ、切ったって意味なかったわよ」
ネルは、ふいっと顔を背けた。
ドルフは、凍りついた袖のまま、大きな手でネルの頭をぽんと叩いた。
「一人じゃ無理でも、輪になりゃなんとかなる。……な?」
北の街道の焚き火の夜に、ドルフが話していたことだ。
ネルの尻尾が、小さく揺れていた。
◇
マーサさんの宿に戻ったのは、朝日がすっかりのぼってからだった。
二階の俺の部屋で、ネルと向かい合って座った。
窓から、朝の光が差しこんでいる。湖の真ん中の白い濁りは、今朝の騒ぎのあとで、また少し広がっていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ゲルトさんの紫色の唇。
凍りついた網。壊れた舟。
主の、青白い目。
人の体も、温かい。
あいつは、火鉢の熱を食べ尽くしたあと、岸に集まった人間のほうを見た。
「……ネル」
俺は、口を開いた。
「約束、破る」
ネルは、驚かなかった。
ただ、まっすぐに俺を見て、小さく頷いた。
「うん」
それだけだった。
桟橋の端で、シェイラさんと小指を絡めた。あの指は、湖の水でまだ冷たかった。
帰りに寄る。私が見る。それまで、湖には近づかないで。
(……ごめんなさい、シェイラさん)
けれど、シェイラさんが戻ってくるころには、もう遅い。
あと四日で、東の源泉は止まる。そうなれば、この街の湯は全部消える。それまでの間に、また誰かが凍えた湖に落ちるかもしれない。
「で、どうするの」
ネルが、膝を抱えたまま聞いた。
「あの化け物、矢も弾くし、火も食べちゃうのよ。あんたのブラストバブルだって、中に火を入れるんでしょ。届く前に、食べられちゃうんじゃない?」
「……たぶんな」
水蒸気爆発。時限爆破。
俺の泡の技は、どれも火を使う。熱を使う。
熱を食べる相手には、どれも届く前に吸われてしまう。氷の泡なら吸われないけれど、全身を氷で覆った相手を凍らせたって、意味がない。
(熱を奪われる前に、熱になるもの……)
考え込んで、窓の外を見た。
朝日が、窓辺に置いた水差しを照らしていた。
ガラスの水差しの中の水が、きらきらと光っている。その光が、水を通り抜けて、机の上に小さな白い点を結んでいた。
小さな、まぶしい光の点。
俺は、何気なく、その光の点に指先を置いた。
(……温かい)
机の木が、そこだけ、ほんのりと温まっていた。
火じゃない。
熱でもない。
ただの光が、水を通って、一点に集まっただけ。
それなのに、温かい。
「……リト?」
ネルが、首をかしげた。
俺は、光の点を見つめたまま、動けなかった。
(……光、か)
前世で見たアニメを、思い出した。
手のひらから、まっすぐな光の線を撃ち出す主人公。子どものころ、虫眼鏡で黒い紙を焦がして遊んだこと。
泡の膜で、あれができないか。
村の裏山で、こっそり何度も試した。
だから、一つだけ。
膜の厚みと曲がり方をぎりぎりまで整えて、光を一点に集めるためだけに作った泡がある。
誰にも見せたことはない。ネルにさえ。
太陽がなければ使えないし、本気で撃てば目立ちすぎる。使う日なんて、来ないと思っていた。
「……ネル」
「なに?」
「とっておきが、一つある」
ネルの狐耳が、ぴんと立った。
窓の外では、朝日が湖の上に昇っていた。
凍った湖面が、その光を受けて、白く、まぶしく輝いていた。




