湖の底の星
翌朝、俺とネルはボルグさんの工房の扉を叩いた。
「やかましい。開いとる」
前と同じ返事だった。
半地下の工房に下りると、ボルグさんは炉の前で背中を丸めて、何かの細工をいじっていた。片目に分厚いレンズ。顔も上げない。
「ボルグさん。……昨日、東の源泉の洞に入りました」
ボルグさんの手が、止まった。
俺は、洞で見たことを話した。
霜に覆われた岩肌。薄氷の張った湯だまり。氷の底の青白い光と、その中を流れていった、尾の見えない白い鱗の列。トーマスさんが言った「五日」のことも。
ボルグさんは、最後まで一度も口を挟まなかった。
話が終わると、レンズを押し上げて、太い指で白い髭をしごいた。
「……熱を食う魔物、か」
低い声だった。
「なら、ここは御馳走だろうよ。この湖の底からは、地の底の熱がずっとのぼってきとる。星が落ちてから、ずっとな」
「どこから、来たんでしょう」
「さあな。だが、湖に入る川は一本しかない。北の山から下りてくる、雪解けの川だ。水に棲む魔物なら、あの川を下ってきたんだろう。……山の向こうから、な」
北の山の、向こう。
桟橋の端で、シェイラさんが話していたことを思い出した。強い魔物が、どこかから迷い出てきて、ほかの魔物を押し出している。その足跡が、北の山の向こうへ続いていた。
(……あれも、その一匹なのか)
ネルも同じことを考えたらしい。黙って、俺の顔を見上げていた。
◇
「それで、坊主」
ボルグさんが、じろりと俺を見た。
「湯だまりは、凍っとったんだな。底まで」
「はい。湯気も、もう出ていませんでした」
ボルグさんは、しばらく黙っていた。
それから、作業台の引き出しを開けて、古びた紙の束を取り出した。黄ばんだ紙に、かすれた線で何かの図が描いてある。
「儂の爺さんが描いたもんだ」
紙を広げると、それは洞の中の図だった。入口から三本の湯道。奥の湯だまり。そして、その湯だまりのさらに奥へ、細い線が一本延びていた。線の先に、小さな丸と、星の印が描いてある。
「……星の、印?」
ネルが、紙を覗き込んだ。
「星の祠だ」
ボルグさんは、星の印を太い指でとんと叩いた。
「湯だまりの奥に、湯の湧き出す通り道がある。それをさかのぼった先に、昔の人が星を祀った祠がある。爺さんの、そのまた爺さんの代の話だ」
「行ったことは、あるんですか」
「ない」
ボルグさんは、ばっさりと言った。
「行けんのだ。その通り道は、いつも煮えたぎった湯で満ちとる。湧いたばかりの湯だ。手を入れたら、指が煮える。儂は若いころ、何度もあの湯だまりの前まで行った。だが、湯気で前も見えん。一歩も入れなかった」
ボルグさんは、紙の上の星の印を見つめた。
「八十年だ。一度でいいから、見てみたかった」
工房の中が、しんと静かになった。
炉の火が、ぱちりと爆ぜる。
「……でも、今は」
ネルが、小さな声で言った。
「今は、湯が冷えてる。凍ってるくらい」
ボルグさんは、何も答えなかった。
けれど、その太い指が、紙の端をぎゅっと握りしめていた。
「今を逃したら、二度と行けん」
やがて、ボルグさんがぽつりと言った。
「湯が戻れば、通り道はまた煮え湯で埋まる。湯が戻らなけりゃ、この街は終わる。……どっちにしても、今しかない」
それから、ボルグさんは顔を上げて、まっすぐに俺を見た。
「坊主。連れていけ」
◇
トーマスさんは、ボルグさんの顔を見るなり、露骨に眉をしかめた。
「……爺さん。あんた、まだあの話を諦めとらんかったのか」
「諦めるもんか。お前の親父にも、何度も頼んだ」
「知っとる。親父は毎回断っとった」
「だから、今度はお前に頼んどる」
二人は、しばらく睨み合っていた。
トーマスさんが先に目を逸らして、大きくため息をついた。
「……昨日の今日だぞ。あの影が、また出るかもしれん」
「わかっとる」
「年寄りが、ぽっくりいっても知らんぞ」
「お前に言われたくない」
トーマスさんは、もう一度ため息をついた。それから、腰の縄を締め直して、松明を二本手に取った。
「……湯守として、湯の通り道を見ておく。それだけだ」
崖の階段をのぼりながら、俺は湖を見下ろした。
真ん中の白い濁りが、昨日よりもまた少し広がっている。
(……湖には、近づかない)
ここは崖の上の洞だ。湖じゃない。
そう自分に言い聞かせながら、俺は胸の奥の小さな引っかかりを、見ないふりをした。
◇
洞の中は、昨日よりもさらに冷えていた。
入口のあたりにも、もう湯気はない。三本の湯道は、どれも底に薄い氷が張っていた。
奥の湯だまりは、一面が白く凍りついていた。
ボルグさんは、その縁に立って、しばらく黙って見下ろしていた。それから、皺だらけの手をそっと氷の上に置いた。
「……煮え湯の湯だまりが、氷か」
声が、かすかに震えていた。
湯だまりの奥の岩壁に、人がやっと通れるくらいの穴が開いていた。
これが、湯の湧き出す通り道だ。穴の縁の岩は、何百年も熱い湯に洗われて、つるつるに磨かれている。白く固まった湯の花が、氷の膜をかぶって光っていた。
トーマスさんが、松明を穴の中にかざした。
「……本当に、湯がない」
穴の底には、足首ほどの深さの水が流れていた。冷たい水だった。触れると、指先がじんと痛くなる。
「行くぞ」
ボルグさんが、真っ先に穴へ足を踏み入れた。
通り道は、ゆるやかに下りながら奥へ延びていた。
天井は低く、ボルグさん以外は背中を丸めないと頭がつかえる。足元の冷たい水が、ぱしゃぱしゃと音を立てた。壁も天井も、湯に削られて波のような模様がついている。
ネルが、俺のすぐ後ろで小さく呟いた。
「……線が、いっぱい」
振り返ると、ネルは壁の岩を見つめていた。琥珀色の瞳が、すうっと細められている。
「昨日の氷と同じ。全部、下を向いてる」
俺は、黙って頷いた。
前を行くトーマスさんとボルグさんには、聞こえていないようだった。
◇
通り道の先は、ふいに開けた。
小さな岩の部屋だった。
天井は低く、四人が入ればいっぱいになるくらいの広さ。けれど、その壁を見たとたん、誰も口をきけなくなった。
壁一面に、彫り物があった。
空から、尾を引いて落ちてくる星。
星が落ちた湖から、立ちのぼる湯けむり。
湯けむりのまわりで、手を取り合って踊る人々。
何百年も前に、誰かが一つずつ刻んだものだ。湯気に洗われて角が丸くなっているけれど、線ははっきりと残っていた。
部屋の奥には、平たい石を積んだ小さな祭壇があった。その上に、苔むした石の器がいくつも並んでいる。昔の人が、何かを供えていたのだろう。
「……星の、祠」
ボルグさんが、かすれた声で呟いた。
松明の明かりが、皺だらけの横顔を照らしている。その目が、子どものように見開かれていた。
「爺さん。……本当に、あったぞ」
誰に言うともなく、ボルグさんはそう言った。
◇
部屋の真ん中の床に、丸い穴が開いていた。
井戸のような、深い縦穴だった。縁から覗き込むと、ずっと下まで続いているのがわかる。本当なら、ここから煮えたぎった湯が噴き上がっていたのだろう。
今、その縦穴の水面は、白く凍りついていた。
「この穴の底が、湖の底だ」
トーマスさんが、低い声で言った。
「言い伝えではな。星が落ちた、その場所に通じとる」
俺は、縦穴の縁にしゃがみ込んで、氷の下を覗いた。
松明の明かりが、氷を透かして、縦穴の岩壁を照らす。
そのとき、見えた。
氷の下の、岩壁に。
青白い光が、ぽつり、ぽつりと瞬いていた。
一つや二つじゃない。
縦穴の壁に沿って、下へ下へと、数えきれないほどの小さな光が、夜空の星のように散らばっている。
「……っ」
ネルが、息を呑んだ。
腰の紅糸の柄を、ぎゅっと握りしめている。
その光は、紅糸の刃の縁と同じ色をしていた。
「星鉄だ」
ボルグさんの声が、震えていた。
縦穴の縁に両膝をついて、氷に顔を近づける。レンズを押し上げた目が、青白い光を一つずつ追っていた。
「岩に、星鉄が混じっとる。……落ちた星が砕けて、この縦穴の壁に食い込んだんだ。あれだけあれば」
ボルグさんは、言葉を切った。
それから、絞り出すように続けた。
「……二本目どころか、十本でも打てる」
けれど、その光は氷の下にあった。
厚い氷の、さらに下。暗い縦穴の、手の届かない深さ。氷を割ったところで、指が凍りつくような冷たい水の中に潜らなければ、指先も届かない。
ネルは、何も言わなかった。
ただ、紅糸の柄を握ったまま、青白い光をじっと見下ろしていた。
◇
そのときだった。
縦穴のずっと下が、ぼんやりと光った。
青白い光。
昨日、湯だまりの底で見たのと同じ光が、縦穴の奥からゆっくりとのぼってくる。
「……来る」
トーマスさんが、松明を握り直した。
光は、縦穴の底のさらに向こうを、横切っていった。
白い鱗の列が、ゆっくりと流れていく。昨日と同じ。どこまでも、尾が見えない。
そして、その光が通り過ぎるたびに。
氷が、ぴしぴしと音を立てて厚くなった。
白い霜が、氷の中を下から這いのぼってくる。縦穴の壁の星鉄の瞬きが、一つ、また一つと、その霜の向こうに埋もれていく。
縦穴から、刺すような冷気が噴き上がってきた。松明の炎が、また細く縮んだ。
……ぉぉ……ん……
あの唸り声が、縦穴の底から響いてきた。
岩の部屋全体が、低く震えた。祭壇の上の石の器が、かたかたと鳴る。
「出るぞ!」
トーマスさんが叫んだ。
ボルグさんは、縦穴の縁に膝をついたまま動かなかった。俺はその腕をつかんで、引き起こした。驚くほど重い体だった。
「爺さん、立て!」
トーマスさんが反対の腕をつかむ。
二人がかりで、ボルグさんを通り道へ引きずり込んだ。ネルが先頭に立って、松明で足元を照らす。
背中のほうで、唸り声がもう一度響いた。
冷たい水を蹴立てて、俺たちは通り道を駆けのぼった。
◇
洞の外に出ると、昼の光が目に刺さった。
ボルグさんは、崖の階段の上に座り込んで、しばらく何も言わなかった。
樽のように太い肩が、大きく上下している。
やがて、ボルグさんが口を開いた。
「……見たか、坊主」
「見ました」
「あいつが通っただけで、縦穴が底まで凍りついた。地の底からのぼってくるはずの熱を、通り道ごと全部食っとる」
ボルグさんは、湖のほうへ目を向けた。
「あいつがいる限り、熱はのぼってこん。そして、熱がのぼってくる限り、あいつはここから離れん。……ここは、あいつにとって、食っても食っても尽きん御馳走の皿だ」
「主が、いなくなったら」
俺は、尋ねた。
「主がいなくなったら、湯は戻るんですか」
ボルグさんは、少しだけ俺の顔を見つめた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「戻る。地の底の熱は、星が落ちてから千年、一度も絶えたことがない。食うやつさえいなくなりゃ、また、のぼってくる」
戻る。
主さえ、いなくなれば。
トーマスさんが、黙って洞の入口を見つめていた。湯気の消えた、冷たい暗がりを。
「……あと、五日だ」
トーマスさんが、ぽつりと言った。
「五日たったら、東の宿は全部、湯を止める。湯守の仕事も、そこまでだ」
◇
その夜。
マーサさんの宿の二階で、俺は眠れずに窓辺に座っていた。
湖は、月明かりの下で黒い鏡のように静まり返っている。真ん中の白い濁りだけが、ぼんやりと浮かんで見えた。
扉が、小さく叩かれた。
「……起きてる?」
ネルだった。
外套を肩に羽織って、廊下に立っている。尻尾が、落ち着きなく揺れていた。
「眠れないのか」
「あんたもでしょ」
ネルは部屋に入ってくると、俺の隣の窓辺に腰を下ろした。
しばらく、二人で黙って湖を見ていた。
「……言っとくけど」
ネルが、湖を見つめたまま口を開いた。
「あたし、星鉄が欲しいから言ってるんじゃないからね」
「まだ、何も言ってないだろ」
「言おうとしてたの」
ネルは、膝を抱えた。
「マーサさんの足湯。ゲルトさんの網。トーマスさんの洞。……ばあちゃんの店がなくなったとき、あたし、何にもできなかった。見てるだけだった」
琥珀色の瞳に、月明かりが映っていた。
「綻びは、見つけたらすぐに繕え。ほっといたら、広がるだけだから」
ばあちゃんの口癖だった。
アラクネの巣へ向かう前の夜にも、ネルはこの言葉を口にした。
「……わかってる」
俺は、湖の白い濁りを見つめた。
「でも、シェイラさんと約束した」
「うん。……わかってる」
ネルは、それ以上何も言わなかった。
俺も、何も言えなかった。
約束。
目立たないこと。Eランクの冒険者であること。
それから、この街の人たちの顔。
窓の外で、夜が静かに更けていった。
◇◆◇
まだ暗いうちに、俺は目を覚ました。
窓辺で、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。肩に、ネルの外套がかかっていた。ネルの姿は、もう部屋にはなかった。
――カン、カン、カン、カン!
鐘の音が、夜明け前の街に響き渡った。
けたたましく、何度も何度も。
窓の外を見る。
湖の西の岸。漁師小屋の並ぶほうで、松明の明かりがいくつも揺れていた。人の叫び声が、風に乗って届いてくる。
「リト!」
廊下から、ネルの声がした。
扉が勢いよく開く。ネルは、もう紅糸を腰に下げていた。顔が青い。
「西の岸よ! ゲルトさんたちの舟が――!」
鐘の音は、まだ鳴りやまなかった。




