冷えていく源泉
翌朝のギルド支部は、いつもよりずっと騒がしかった。
掲示板の前に、冒険者だけでなく街の人まで集まっている。宿の前掛けをしたままの女の人。湯桶を抱えた男。みんな同じ一枚の紙を見上げて、ひそひそと何かを話していた。
『東の源泉の湯道の点検・掃除 急募 一人一日銀貨二枚』
いつもの湯守の手伝いの、倍の報酬だった。
「湯道が詰まってるんじゃないかって話なのよお」
カウンターの向こうで、ポーラさんが困ったように頬に手を当てた。今日は眼鏡が少しずれている。朝からずっと、街の人の相手をしているらしい。
「源泉から湯を引いてる石の管にねえ、苔や石が詰まると、湯の勢いが落ちることがあるの。昔にも何度かあったから、みんなそうであってほしいって思ってるのよ」
「そうであってほしい、ですか」
「ええ。……そうじゃなかったら、困るでしょう?」
ポーラさんは、それ以上は言わなかった。
それから、一枚の依頼書をカウンターに置いた。
「それでねえ、湯守のトーマスさんから、リトくんを名指しで。ネルちゃんも一緒にどうぞって」
「トーマスさん?」
「あら、知らなかった? あなたたちがお世話になってる、東の湯守のおじさんよお」
そういえば、名前を聞いたことがなかった。あのおじさんは、薪の山を指さして「以上」と言うだけの人だったから。
「受けます」
俺が依頼書を受け取ると、ネルが隣で小さく頷いた。
昨夜のマーサさんの青い顔が、まだ頭から離れなかった。
◇
東の源泉は、湖の東の崖の中腹にあった。
宿屋通りの裏から、岩を削った細い階段をのぼっていく。下を見ると、湖が一面に広がっていた。朝日を受けた水面の、真ん中のあたりだけが白く濁っている。
(……湖には、近づかない)
シェイラさんとの約束を、胸の中で繰り返す。
ここは崖の上の洞だ。湖じゃない。
階段をのぼりきった先に、トーマスさんが待っていた。
背中の曲がった、無口な人。けれど今日は、その顔がいつもよりずっと険しかった。腰に縄を巻き、手には油を染み込ませた松明を持っている。
「来たか」
「おはようございます、トーマスさん」
「……名前、聞いたのか」
「ポーラさんから」
「ふん」
トーマスさんはそれだけ言って、岩肌にぽっかりと開いた洞の入口へ向き直った。
入口からは、白い湯気がゆっくりと流れ出していた。けれど、その量はいつもよりずっと少ない。湯気の向こうに、洞の暗がりがうっすらと見えている。
「中は、湯道が三本に分かれとる。それぞれ宿屋通りへ湯を流しとる。まず湯道を見て、詰まりがあれば取る。それで済めば、それでいい」
「済まなかったら?」
ネルが尋ねると、トーマスさんは松明に火をつけながら答えた。
「奥まで行く」
◇
洞の中は、入口のあたりだけ温かかった。
湯気がこもって、壁の岩がしっとりと濡れている。足元の溝を、湯が細く流れていた。これが湯道だ。石を削って作った溝が、洞の奥から入口へ向かって、三本に分かれて延びている。
「詰まってる?」
ネルが、湯道の溝を覗き込んだ。
琥珀色の瞳が、溝に沿ってすうっと滑っていく。
「……ううん。石も苔も、何も引っかかってない。きれいなもんよ」
トーマスさんも、溝の底に手を差し入れて、指先で確かめた。しばらく探ってから、黙って首を振る。
湯の通り道には、何も詰まっていなかった。
「なら、奥だ」
三人で、湯道をさかのぼって奥へ進んだ。
松明の炎が、濡れた岩肌に揺れる影を落とす。奥へ進むにつれて、少しずつ空気が変わっていった。
湯気が、薄くなっていく。
吐く息が、白くなっていく。
「……寒い」
ネルが、外套の襟をかき合わせた。
温泉の湧く洞のはずだった。奥へ行けば行くほど、熱くなるはずの場所だ。なのに、まるで冬の朝の外を歩いているみたいだった。
岩肌に、白いものが見えた。
松明を近づけると、それは霜だった。濡れていたはずの岩の表面が、うっすらと凍りついている。
トーマスさんが、足を止めた。
皺だらけの手で、霜のついた岩肌にそっと触れる。
「……四十年だ」
ぽつりと、トーマスさんが言った。
「この洞の湯を守って、四十年になる。冬でも、この洞の中だけは汗が出るほど熱かった。……霜なんぞ、見たことがない」
その声は、かすかに震えていた。
◇
洞のいちばん奥は、丸く開けた岩の部屋になっていた。
天井は高く、松明の光が届かない。部屋の真ん中に、大きな湯だまりがあった。岩をくり抜いたような丸い池で、ここから湧いた湯が三本の湯道へ流れていくのだという。
「本当なら、ここは近づけん。湯気で前が見えんし、湯は手を入れたら火傷するほど熱い」
トーマスさんが、松明を湯だまりにかざした。
湯気は、ほとんど立っていなかった。
そして、湯だまりの水面には、薄い氷が張っていた。
「……うそ」
ネルが、かすれた声で呟いた。
氷は、湯だまりの縁から真ん中へ向かって、花びらのように広がっていた。真ん中のあたりだけが、まだ凍らずに黒い水面をのぞかせている。そこから、ほんのわずかに湯気がのぼっていた。
最後の、温かい場所。
それも、もう小さくなりかけていた。
ネルが、湯だまりの縁にしゃがみ込んだ。
氷の表面を、じっと見つめる。それから、トーマスさんに聞こえないくらいの小さな声で、俺に囁いた。
「リト。……氷の中に、線が見える」
「線?」
「細い線がいっぱい。でも、みんな同じほうを向いてるの」
ネルは、湯だまりの底を指さした。
「下。……みんな、下に向かってる。底の、もっと下」
俺は、トーマスさんのほうを振り返った。
トーマスさんは、部屋の入口近くで、凍った湯道の溝を松明で照らしていた。こちらには背を向けている。
(……今なら)
指先に、小さな泡をひとつ作る。中に種火をひとかけら閉じ込めて、湯だまりの真ん中の、まだ凍っていない黒い水面へ、そっと落とした。
泡は、水面に触れたとたんに沈んでいった。
火の色が、下へ引かれるように流れていく。橙から黄色へ。黄色から白へ。
数える間もなかった。
火は、ほとんど一瞬で消えた。足湯で試したときよりも、ずっと速い。
(……ここのほうが、近いんだ)
熱を食べている何かに。
この湯だまりの底の、さらに下にいる何かに。
「トーマスさん」
俺は、できるだけ普通の声で尋ねた。
「この湯だまりの底って、どこにつながってるんですか」
トーマスさんは、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……言い伝えではな」
松明の炎が、ぱちりと爆ぜた。
「この湯だまりの底は、岩の割れ目を通って、湖の底とつながっとる。星が落ちた、その場所にな。星の熱が割れ目を伝ってのぼってきて、ここで湯になって湧く。……爺さんの、そのまた爺さんの代から、そう言われとる」
◇
そのときだった。
湯だまりの底が、ぼんやりと光った。
青白い光だった。
まだ凍っていない真ん中の水面の、ずっと下。岩の割れ目の、そのまた奥のほうで、冷たい光がゆっくりと揺れている。
「……なに、あれ」
ネルが、俺の袖をつかんだ。
トーマスさんも、松明を握ったまま動かなくなった。
光の中を、何かが横切っていった。
白かった。
とても長かった。
最初に見えたのは、鱗だった。岸辺で拾った、あの白い鱗。それと同じものが、びっしりと並んで、霜をまとってゆっくりと流れていく。
次に見えたのは、その鱗の列の、果てしない長さだった。
流れていく。
まだ、流れていく。
どれだけ待っても、尾が見えなかった。
心臓の音が、耳の奥でうるさく鳴っていた。息を吸うのも忘れていた。
底の、そのまた底を、巨大な何かがゆっくりと泳いでいく。湖の底から、この湯だまりの真下まで。
……ぉぉ……ん……
あの唸り声が、聞こえた。
ミルヴェールに着いた最初の夜、宿の窓辺で聞いたのと同じ声。けれど今は、ずっと近い。足の裏から、膝から、腹の底まで、岩を伝って響いてくる。
ぴしり。
湯だまりの氷が、鳴った。
ぴし、ぴし、ぴしぴしぴしっ。
氷が、一気に広がった。
縁から真ん中へ。まだ黒く残っていた最後の水面が、見る見るうちに白く塗りつぶされていく。
最後の湯気が、ふっと消えた。
洞の中の空気が、一瞬で冷えた。
壁の霜が、ざわりと音を立てて厚くなる。松明の炎が、何かに吸われるように細く縮んだ。
「――出るぞ!」
トーマスさんが叫んだ。
その声で、ようやく体が動いた。ネルの手をつかんで、湯道沿いに入口へ走る。背中のほうで、氷のきしむ音が、どこまでも追いかけてくるような気がした。
◇
洞の外に転がり出ると、朝の光がまぶしかった。
トーマスさんが、岩の階段の上にへたり込んだ。肩で大きく息をしている。松明は、いつの間にか消えていた。
ネルは俺の手を握ったまま、まだ放そうとしなかった。その手が、小さく震えていた。
「……見た、か」
トーマスさんが、かすれた声で言った。
「見ました」
「なら、いい。……儂の見間違いじゃ、なかったんだな」
トーマスさんは、洞の入口を振り返った。
さっきまで細く流れ出していた湯気が、もう一筋も出ていなかった。
「詰まりなんぞ、なかった」
トーマスさんは、ぼそりと言った。
「湯が、食われとる。……あと七日。いや、五日持つかどうかだ」
五日。
昨日、マーサさんは「十日も持たない」と言っていた。それが、一晩で半分になった。
俺は、崖の下の湖を見下ろした。
朝日に光る水面の、真ん中の白い濁り。その下に、さっき見た白い鱗の列が、今もゆっくりと流れているのだろう。
ボルグさんの言葉を、思い出した。
湖の底には、まだ星の塊が眠っている。星が落ちた、その場所に。
(……星の熱を、食べてるんだ)
湖の底の、星の熱を。
湯だまりへのぼってくるはずだった熱を、その途中で全部。
「……リト」
ネルが、俺の手を握ったまま、小さな声で言った。
「シェイラさん、間に合わないよね」
帰りに寄る、とシェイラさんは言った。北の山の向こうで、何かが動いている。通り道に、村がいくつもある。それを片づけてから戻ってくるのに、五日で済むとは思えなかった。
王都からの応援は、ひと月後。
俺は、何も答えられなかった。
◇
昼過ぎ、トーマスさんと一緒にギルド支部へ報告に行った。
トーマスさんの話を聞くうちに、ポーラさんの丸い頬から、少しずつ血の気が引いていった。いつものんびりしている口元が、きゅっと引き結ばれる。
話が終わると、ポーラさんは黙って奥の部屋へ入っていった。しばらくして戻ってきたときには、手に一枚の紙を持っていた。
『本日より、湖の真ん中への舟の乗り入れを禁ずる ミルヴェール支部』
ポーラさんは、それを掲示板の赤い依頼書の隣に貼りつけた。
「ギルドマスターがねえ、王都にもう一度早馬を出すって。……でも、応援が早くなるかどうかは、わからないの」
ポーラさんは、俺たちのほうを見て、眉を下げた。
「報酬は、ちゃんと払うわね。銀貨二枚ずつ。……怖い思いさせて、ごめんなさいねえ」
カウンターの向こうで、ギルドにいた冒険者たちが顔を見合わせていた。焚き火の輪の三人もいた。カインは珍しく黙り込み、ドルフは腕を組んで掲示板を睨み、ティナは不安そうにドルフの袖をつかんでいた。
誰も、赤い依頼書に手を伸ばさなかった。
Bランク以上。この支部には、その資格のある冒険者が一人もいない。
◇
その夜。
マーサさんの宿の裏で、俺とネルは足湯の縁に並んで座っていた。
足湯から、湯けむりが立っていなかった。
石で囲んだ湯船には、ぬるい水が溜まっているだけだった。足を浸しても、もう温かいとは感じない。ただ、冷たくないというだけの水だった。
帳場の裏口が開いて、マーサさんが出てきた。
何も言わずに、足湯の縁にしゃがみ込む。皺だらけの手で、湯船の石をゆっくりと撫でた。何度も、何度も。爺さんが最初に買ってくれた前掛けを、胸に当てていたときと同じ手つきだった。
「……星の湯も、ここまでかねえ」
マーサさんは、それだけ言って、宿の中へ戻っていった。
小さな背中が、いつもよりずっと小さく見えた。
ネルは、黙って足湯の水を見つめていた。
尻尾が、ぺたりと地面に垂れていた。
俺は、湖の真ん中の白い濁りを見つめた。
月明かりの下で、それは昨夜よりもまた少し広がっていた。
約束した。
湖には近づかない。シェイラさんが戻ってくるまで。
Eランクの冒険者として、それが正しいことだ。わかっている。
わかっているのに。
(……約束、したんだけどな)
膝の上で、拳を握った。
指先が、少しだけ冷たかった。




