湯けむりの再会
ミルヴェールに来て、七日目。
朝のうちにゲルトさんの網を片づけて、午後は湯守のおじさんの薪を割った。いつもと同じ一日だった。
けれど、どこか落ち着かなかった。昨日ギルドでポーラさんから聞いた話が、ずっと頭の隅に引っかかっている。王都からの応援は、早くてもひと月後。東の源泉が、それまで持つかどうか。
ネルも同じらしかった。網を繕う手は止まらなかったけれど、ときどき顔を上げて、湖の真ん中のほうをじっと見ていた。
夕方、ギルドで報酬を受け取った帰り道。
湖上市場の桟橋に差しかかったところで、ネルがぴたりと足を止めた。
「……決めた」
「何を」
「湯菓子。今日こそ、一個だけ買う」
ネルは、胸元の革袋をぎゅっと握りしめた。
「ゲルトさんの上乗せ、もう何日分もたまってるの。一個くらい、いいわよね。…なんか、今日は甘いものが食べたい気分なの」
「いいんじゃないか」
「でしょ!」
ネルの尻尾が、ぱっと持ち上がった。
二人で、いつもの屋台へ向かう。夕暮れの桟橋に、今日も湯けむりの立つ蒸し籠が並んで――。
並んで、いなかった。
蒸し籠は、どれも空っぽだった。屋台のおばさんが、申しわけなさそうに眉を下げている。
「あらあ、狐のお嬢ちゃん。ごめんねえ、今日はもう売り切れなのよ」
「う、売り切れ……?」
「さっきねえ、銀色の髪の、それはもう綺麗なお客さんが来てね。蒸し籠ひとつぶん、ぜんぶ買っていっちゃったの」
ネルの狐耳が、ぴくりと動いた。
尻尾の先が、ゆっくりと膨らんでいく。
「……銀色の、髪?」
「そうそう。肌がこう、褐色でね。耳がすうっと長くて。背が高くて、目が紫で。もう、この桟橋の漁師たちがみんな手を止めて見とれちゃって。あんな綺麗な人、あたし、生まれて初めて見たわよ」
おばさんは、うっとりと頬に手を当てた。
俺とネルは、ゆっくりと顔を見合わせた。
まさか。
いや、でも。そんな人、この世に一人しか――。
「これ、美味しいね」
すぐ隣から、静かな声がした。
「わっ!?」
「ひゃあっ!?」
俺とネルは、同時に跳び上がった。
いつの間にか、桟橋の手すりに、銀髪のダークエルフが腰かけていた。旅の砂埃をかぶった、黒い外套。膝の上には、湯菓子がぎっしり詰まった大きな紙袋。白くて丸い湯菓子を、両手で大事そうに持って、ゆっくりとかじっている。
「シェ、シェイラさん!?」
「……ん」
シェイラは、こくりと頷いた。
いつもと同じ、何を考えているのかわからない顔。けれど、湯菓子を食べる口元だけが、ほんの少しゆるんでいた。
「あ、あんた……」
ネルが、震える指でシェイラを指さした。
「あんた、ほんとにどこにでもいるわね!」
その声は、ぜんぜん怒っていなかった。
むしろ、尻尾がぶんぶんと揺れていた。
◇
湖上市場の桟橋は、夕暮れになると人が少なくなる。
いちばん先の、誰もいない桟橋の端まで歩いて、三人で並んで腰を下ろした。足の下で、冷たい湖の水がちゃぷちゃぷと揺れている。
「どうして、ミルヴェールに?」
俺が尋ねると、シェイラは湯菓子を飲み込んでから答えた。
「……北へ、行く途中」
「北?」
「王都の近くに、本来いないはずの魔物が出てた。街道の熊。東の丘の小鬼。東の沢の毒牙蜘蛛。……それから、アラクネの女王」
シェイラは、湖の向こうに連なる山々を、まっすぐに見つめた。夕日を浴びて、雪をかぶった峰が茜色に染まっている。
「強い魔物が、どこかから迷い出てきて、ほかの魔物を押し出してる。その足跡を、ずっと追ってた。……そしたら、北の山の向こうに続いてた」
「山の向こうって……」
「未開の地の、ほう」
ネルが、小さく息を呑んだ。
俺も、思わず膝の上で拳を握っていた。未開の地。五歳のころ、母さんの読み聞かせで知った場所。いつか、この目で見たいと思っている場所。
「山の向こうで、何かが動いてる。通り道に、村がいくつもある。……急がないと」
シェイラは、淡々と言った。
「だから、今夜、発つ」
「今夜!? 泊まらないの?」
「泊まらない。湯菓子を買いに、寄っただけ」
「……湯菓子を、買いに」
ネルが、呆れたように繰り返した。
「それと」
シェイラは、紫の瞳をちらりとこちらに向けた。
「王都を出る前に、ミリアに聞いた。……二人、ここにいるって」
それから、少しだけ首を傾げる。
「ミリアが、言ってた。『会ったら、二人に無理させないでくださいね』って」
「……ミリアさん」
俺は、思わず苦笑いした。
王都のギルドで、紹介状を渡してくれたときの顔が浮かぶ。帰ったら、温泉の感想を聞かせてくださいね。あの人は、きっと今も俺たちのことを心配してくれている。
◇
湯菓子を一つ食べ終えたところで、俺は口を開いた。
「シェイラさん。……話しておきたいことがあるんです」
あたりを見回す。桟橋の端には、俺たち三人しかいない。漁師たちは、もう岸の小屋に引き上げていた。
俺は、ミルヴェールに来てからのことを話した。
最初の夜、地の底から響いた唸り声。薄氷に走った亀裂と、吸い込まれるように消えた湯けむり。ゲルトさんの舟で手に取った、氷みたいに冷えきった底牙。
それから、マーサさんの宿の足湯で試した、泡のこと。
「泡に種火を閉じ込めて、湯に沈めたんです。普通なら、しばらくは温かいまま漂うはずなのに。……熱が、下へ吸い込まれていきました。あっという間に」
シェイラは、黙って聞いていた。
泡のことを話しても、驚いた顔はしない。この人は、アラクネの女王の巣で、俺の泡を全部見ている。
「それから、これくらいの鱗が、岸に落ちてました」
ネルが、両手で大きさを作ってみせた。
「真っ白で、霜がついてて。お昼のお日さまの下でも、ぜんぜん溶けなかったの」
シェイラは、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりと手袋を外すと、桟橋の端から身を乗り出して、湖の水に指先を浸した。
そのとき。
すうっと、音が消えた。
足元で揺れていた波の音が。遠くの漁師小屋から聞こえていた笑い声が。風が耳元をかすめる音さえも。
まるで、分厚い布を頭からかぶせられたように、あたりが静まり返った。
(……シェイラさんの、音を消す力)
アラクネの巣で、何度も見た力だ。
けれど今、その力は、俺たちを守るためじゃなく、何かを聞くために使われていた。
音のない世界の、その底で。
……とくん。
何かが、聞こえた。
……とくん。
とても遠い。とても低い。
耳で聞いているのか、桟橋の板を伝って体に響いているのか、わからない。けれど確かに、湖のずっと底から、何かがゆっくりと脈打っていた。
ネルが、俺の袖をぎゅっとつかんだ。
やがて、シェイラが指を水から引き上げた。
とたんに、波の音が戻ってきた。風の音も、遠くの笑い声も。何事もなかったように。
シェイラの指先は、赤くなっていた。ほんの少し浸しただけなのに、冷たさで。
「……底に、いる」
シェイラが、静かに言った。
「大きいの。……とても」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
シェイラは、湖の真ん中のほうを見つめたまま、しばらく黙っていた。紫の瞳が、白く濁った水面の一点から動かない。
本当は、今すぐにでも確かめに行きたいのだろう。
けれど、シェイラは小さく首を振った。
「……今は、行けない。北のほうが、急ぎ」
それから、俺とネルのほうへ向き直った。
「帰りに、寄る。私が見る」
紫の瞳が、まっすぐに俺を見た。
「それまで、湖には近づかないで」
「……はい」
「ネルも」
「わ、わかってるわよ」
「約束」
シェイラは、小指を一本、すっと差し出した。
俺とネルは、顔を見合わせた。それから、順番に、その細い小指に自分の小指を絡めた。シェイラの指は、まだ湖の水で冷たかった。
「……約束」
俺がそう言うと、シェイラは、ほんの少しだけ頷いた。
◇
「リト。ネル」
小指をほどいてから、シェイラが尋ねた。
「王都へは、いつ戻るの?」
「帰りの商隊の護衛を待ってるんです。あと三週間くらいです」
「……そう」
シェイラは、指を折って何かを数えた。
「じゃあ、間に合う」
それから、膝の上の紙袋を持ち上げた。
袋の中には、まだ湯菓子がたくさん残っている。シェイラは袋の口を開くと、中身を数えながら、一つずつ外へ出しはじめた。桟橋の板の上に、白くて丸い湯菓子が二列に並んでいく。
右に一つ。左に一つ。右に一つ。左に一つ。
「……何してるの?」
ネルが、きょとんとして尋ねた。
シェイラは、手を止めずに答えた。
「数えてる。ちょうど、半分にするから」
最後の一つを左の列に置くと、二つの列は、ぴったり同じ数になった。
シェイラは、左の列の湯菓子を紙袋に戻すと、その袋をネルの前に差し出した。
「……半分こ」
ネルの狐耳が、ぴんと立った。
「……え」
「前に、君が言った。焼き菓子を、半分こ」
シェイラは、首を傾げた。
「今度は、私の番」
ネルは、差し出された紙袋を見つめたまま、動かなかった。
王都の菓子屋の前で、最後の一つの焼き菓子を取り合った日。銀貨なんかいらないと言い張って、ネルが焼き菓子を二つに割った。あの日、ネルは大きいほうを自分の手に取った。
今、シェイラは、ちょうど半分を差し出していた。
「……覚えてたの」
「うん」
「……ずるいわよ、あんた」
ネルは、ぎゅっと紙袋を受け取った。
顔を伏せたまま、もう一度だけ、小さな声で言った。
「ほんとに、ずるい」
尻尾が、ぶんぶんと揺れていた。
本人は、気づいていないみたいだった。
「お代は?」
ネルが顔を上げて、少しだけ意地悪そうに尋ねた。あの日、シェイラが半分のお代を払ったように。
シェイラは、少し考えてから答えた。
「……帰りに、また一緒に食べて。それで、いい」
「……それなら、払ってあげる」
ネルが、ふいっとそっぽを向いた。
狐耳の先が、夕日の中でもわかるくらい赤くなっていた。
◇
日が暮れて、湖の向こうの山が黒い影になったころ。
俺とネルは、北門までシェイラを見送りに行った。
北門の外には、山へ向かう細い街道が延びている。月明かりの下で、その道は白く浮かび上がって見えた。
「気をつけてください」
「うん」
シェイラは、黒い外套の襟を立てた。
それから、ふと思い出したように振り返った。
「リト」
「はい」
「……氷の泡、まだ三十かかる?」
「今は、二十くらいです。稽古してるので」
シェイラは、少しだけ目を細めた。
「そう。……えらいね」
それだけ言って、シェイラは前を向いた。
「……またね」
銀の髪が、夜風にふわりと揺れて。
瞬きを、ひとつ。
その間に、シェイラの姿は街道のどこにもなくなっていた。足音ひとつ、残さずに。
「……行っちゃった」
ネルが、紙袋を抱えたまま呟いた。
「相変わらず、急な人だな」
「ほんとよ。湯菓子買いに寄っただけって、なによそれ」
ネルは、紙袋の中を覗き込んだ。それから、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「……でも、半分こしてくれた」
◇
マーサさんの宿に戻ると、帳場には誰もいなかった。
ネルが湯菓子を一つ取り出して、半分に割った。ちょうど同じ大きさに。片方を、俺に差し出す。
「はい。あんたの分」
「いいのか?」
「いいの。……半分こ、だから」
二人で裏の足湯に腰かけて、湯菓子をかじった。
ふわふわの皮の中から、木の実の甘い餡があふれてくる。冷めていても、ちゃんと美味しかった。
足湯は、昨日よりも、もう少しぬるくなっていた。
「約束、したもんね」
ネルが、湖を見つめたまま言った。
「……ああ」
湖には近づかない。シェイラさんが戻ってくるまで。
それでいい。それが、Eランクの冒険者として正しいことだ。
そう、思ったとき。
宿の表の扉が、乱暴に開く音がした。
ぱたぱたと、小さな足音が帳場を横切ってくる。振り返ると、マーサさんが、肩で息をしながら裏口に立っていた。外套を羽織ったまま。白髪がほつれて、顔が青い。
「マーサさん?」
「ああ、あんたたち。……ちょうどよかった」
マーサさんは、胸に手を当てて、震える声で言った。
「今、東の宿屋通りの寄り合いに行ってきたんだけどね。……東の源泉が、止まりかけてるって」
ネルの手から、食べかけの湯菓子がぽろりと落ちた。
「止まりかけてるって……ひと月は持つって、ポーラさんが」
「みんな、そう思ってたんだよ。でも、今日の昼から、湯の勢いががくんと落ちたって。湯守たちが言うには、このままじゃ十日も持たないって」
十日。
ひと月どころか、その三分の一だ。
マーサさんの肩越しに、夜の湖が見えた。
月明かりの下で、湖の真ん中の白い濁りが、昨夜よりも少しだけ広がっているような気がした。
足湯の湯けむりが、ふっと揺れて、細くなった。




