湖都の暮らし
次の日も、俺たちはゲルトさんの漁師小屋にいた。
ネルは小屋の裏で網の山の前に座り込み、俺はゲルトさんの舟で綱を引く。昨日と同じ段取りだ。
網には今日も底牙が何匹もかかっていて、そのたびに新しい穴が開いた。けれど小屋に戻るころには、昨日の破れ網の山がほとんど片づいていた。
「嬢ちゃん、この調子なら三日で山が消えるぞ」
「消えたら、次は何を繕えばいいの?」
「心配すんな。底牙がいる限り、網は毎日破れる」
ゲルトさんは笑いながら、依頼書に完了の印を押した。
◇
ギルド支部のカウンターで依頼書を出すと、ポーラさんがくすっと笑った。
「はあい、お疲れさま。リトくんは銀貨一枚ねえ」
俺の前に、銀貨が一枚置かれた。
「それで、ネルちゃんは銀貨一枚と……大銅貨五枚」
「えっ?」
ネルの前には、銀貨の横に大銅貨が五枚並んでいた。
「ゲルトさんがねえ、名指しの依頼を出すときに言ってたのよお。嬢ちゃんの分には色をつけてくれ、『嬢ちゃんの腕に』ですって」
ネルの狐耳が、ぴんと立った。尻尾がぶわっと膨らんで、それから左右にぶんぶんと揺れはじめる。
「……俺は?」
「リトくんは、そのままねえ」
ポーラさんは、にこにこと笑ったまま答えた。
「網を引くのは誰でもできるけど、あの繕いはネルちゃんにしかできないって、ゲルトさんが言ってたわあ」
「……まあ、それはそうですけど」
俺が肩を落とすと、ネルが大銅貨を一枚ずつ指でつまんで、革袋にしまいはじめた。わざとゆっくりと。
「一枚、二枚、三枚……」
「数えなくていいだろ」
「腕に、ですって。腕に」
ネルは、ギルドを出てからもしばらく得意顔のままだった。
◇
午後は、東の宿屋通りで湯守の手伝いをした。
まだ湯が湧いている宿のひとつが、人手を探していたのだ。湯守というのは、温泉の湯船や湯の通り道の世話をする仕事らしい。
湯守のおじさんは、無口で背の曲がった人だった。俺たちを見るなり、裏庭の薪の山と、湯船の掃除道具を指さした。
「薪は、あれ全部。湯船は、湯を抜いたら苔を落とす。以上」
ネルが湯船に、俺が薪の山に向かった。
斧を振り下ろすと、乾いた音を立てて薪が二つに割れる。村にいたころは、毎朝これをやっていた。体に染みついた日課だ。
割って、積んで、また割って。気がつくと、薪の山は半分ほどになっていた。
「……おい」
いつの間にか、湯守のおじさんが後ろに立っていた。割った薪を一本拾い上げて、断面をじっと見ている。
「どこで覚えた」
「村で、毎朝やってたので」
「ふん」
おじさんはそれだけ言って、薪を山に戻した。
帰りぎわに、依頼書へ完了の印を押しながら、ぼそりと付け加えた。
「明日も来い。薪は、毎日減る」
「……はい」
ネルが、横でにやにやと笑っていた。
「よかったじゃない。あんたにも名指しよ」
「色はついてないけどな」
◇
ミルヴェールに来て、数日が過ぎた。
朝はゲルトさんの網。午後は湯守の薪割りと湯船の掃除。夕方にギルドで報酬をもらって、マーサさんの宿に帰る。
同じことの繰り返しだったけれど、少しずつ街の人に顔を覚えられていった。湖上市場の饅頭屋のおばさんは、俺たちを見ると一個おまけしてくれるようになった。漁師小屋の子どもたちは、ネルの尻尾を見ると追いかけてくるようになった。
ギルドでは、焚き火の輪の三人ともよく顔を合わせた。
「聞いてくれよ、リト! 今日は氷鱗魚の群れを三つも見つけたんだぜ!」
カインが、銀貨の袋をじゃらじゃらと鳴らしてみせた。
「湖の上を、群れが通るとな、鱗が光るんだ。三百歩先からでも丸見えよ。この街は、俺の【鷹の目】のためにあるようなもんだな!」
「見つけたのはカインでも、獲ったのはドルフだけどね」
ティナが、すかさず言った。ドルフが、照れくさそうに頭をかく。
「網を引くのは、力仕事だからな」
それからティナは、ネルの袖を引っ張って、カウンターの隅へ連れていった。
「ネルちゃん、聞いて。この街の薬草屋ね、湖藻の干したのが王都の半値なの」
「半値!?」
「でもね、北通りの店は、昼過ぎに行くともっと下がるの。あと、魚の干物は――」
二人は、また額を寄せ合って、ひそひそと話しはじめた。ネルの尻尾が、ぶんぶんと揺れている。
ドルフが、俺の隣で苦笑いした。
「あいつら、旅先でもこれか」
「たぶん、王都に戻っても、これです」
「違いねえ」
◇
ギルドの帰り道、湖上市場の桟橋を通ると、いつも甘い匂いが漂ってくる屋台があった。
湯けむりの立つ蒸し籠の中に、白くて丸い菓子が並んでいる。温泉の湯気で蒸した、ミルヴェールの名物の湯菓子らしい。皮はふわふわで、中には湖のほとりで採れる木の実の甘い餡が詰まっているのだという。
ネルは、その前を通るたびに足を止めた。
「……一個、大銅貨一枚」
「高いな」
「高いわよね」
ネルは、じっと蒸し籠を見つめた。尻尾が、ゆらゆらと揺れている。
それから、ぶんぶんと首を振って、桟橋を歩き出した。
「だめ。今日の上乗せは、貯金に回すの」
「えらいな」
「えらいでしょ」
そう言いながら、ネルは三歩ごとに振り返っていた。
屋台のおばさんが、くすくすと笑いながら手を振っている。湯菓子の湯気が、夕暮れの桟橋にふわりと流れていった。
◇
マーサさんの宿の夜は、静かだった。
客は俺たち二人だけで、夕食のあとは、マーサさんが帳場で帳面をつける音と、暖炉の薪がはぜる音しか聞こえない。
ある夜、ネルが帳場の隅に掛けてあった古い前掛けを、じっと見ていた。
洗いざらしの布の裾が、擦り切れてほつれている。宿の入口の暖簾も、端の縫い目が裂けかけていた。
「……マーサさん、もう寝たかしら」
「さっき、部屋に戻ったみたいだぞ」
ネルは小さく頷くと、腰の小袋から針と糸を取り出した。
前掛けを膝に広げて、暖炉の明かりの下で針を動かしはじめる。琥珀色の瞳が、ほつれた糸の上をなぞっていく。その手つきは、網を繕うときよりもずっとやわらかかった。
「頼まれてないのに」
「いいの。毎朝、粥のおかわりもらってるし」
ネルは、顔も上げずに言った。
それから暖簾も外して、裂けかけた縫い目を一針ずつ縫い直していった。俺は、暖炉の火が消えないように、ときどき薪をくべながら、その手元を眺めていた。
◇◆◇
翌朝。
一階に下りると、マーサさんが帳場の前に立ったまま、前掛けを両手で広げていた。
裾のほつれは、どこにもなかった。縫い目は細かく揃っていて、どこを繕ったのかもわからないくらいだ。入口の暖簾も、元の場所にきちんと掛け直されている。
「……ネルちゃんかい」
マーサさんが、振り返らずに言った。
ネルは、俺の後ろでもじもじと尻尾を揺らしていた。
「べ、別に。ついでよ、ついで」
マーサさんは、前掛けをそっと胸に当てた。
それから、ゆっくりとネルのほうへ向き直った。皺だらけの顔が、くしゃりとほころんでいた。
「ありがとうねえ。これ、爺さんが最初に買ってくれた前掛けなんだよ。もう繕いようがないと思ってた」
マーサさんは、帳場の引き出しから、古い木の櫛を一本取り出した。
飴色に磨かれた、目の細かい櫛だった。
「ネルちゃん、ちょっと座りな」
「え?」
「お礼だよ。ほら、尻尾こっちに向けて」
ネルは戸惑いながら、帳場の前の椅子にちょこんと座った。マーサさんがその後ろに回って、ネルの尻尾をそっと手に取る。
櫛が、ふさふさの毛並みをゆっくりと梳いていく。根元から、毛先へ。何度も、何度も。湖の風で絡まっていた毛が、少しずつほどけて、つやを取り戻していった。
ネルは、黙ってされるままになっていた。
狐耳が、少しずつ下がっていく。目が、とろんと細くなる。
「……ばあちゃんも」
ネルが、ぽつりと言った。
「ばあちゃんも、こうやって梳いてくれたの。小さいころ、毎晩」
「そうかい」
マーサさんは、手を止めずに答えた。
「いいおばあちゃんだったんだねえ」
「……うん」
ネルの声は、少しだけ震えていた。
俺は黙って、窓の外の湖を見ていた。朝霧の向こうで、細い湯けむりが一筋、ゆっくりと立ちのぼっていた。
その日から、マーサさんの朝の粥は、ネルの椀だけ干し魚が少し多くなった。
◇
ミルヴェールに来て、六日目。
その日は、焚き火の輪と一緒に、氷鱗魚の鱗集めの依頼を受けた。
ゲルトさんの網が片づいて、ネルの手が空いたのだ。カインが【鷹の目】で群れを見つけ、ドルフが網を引き、俺とネルとティナが獲れた魚から鱗を剥がす。氷鱗魚の鱗は、薄くて透き通っていて、光にかざすと氷のかけらのようにきらめいた。
剥がすのは、もちろんネルがいちばん速かった。
ナイフの刃先を鱗の付け根にすっと当てるだけで、一枚も割らずに、つるりと外れていく。ティナが、目を丸くして見ていた。
「ネルちゃん、それ、どうやってるの?」
「慣れよ、慣れ。荷物持ちのころから、剥ぎ取りばっかりやらされてたから」
ネルは、ちらりと俺のほうを見てから答えた。
本当は、鱗の付け根に走る綻びの線が見えている。けれどそれは、二人だけの秘密だ。ネルの表向きのスキルは、布のほつれが見えるだけ。
ティナは「すごーい」と素直に感心していた。
昼過ぎ、岸辺で休んでいるときだった。
「……ん?」
カインが、湖沿いの道のほうを見て、目を細めた。
「なんだ、あれ。岸の石の間に、白いのが光ってる」
「どこだよ」
「あっちだ。二百歩くらい先。氷のかけらかな。いや、それにしちゃ形が変だ」
カインが指さす先には、灰色の石が転がる岸辺が続いているだけだった。俺の目には、何も見えない。
みんなで、そこまで歩いていった。
石と石の間に、それは挟まっていた。
白い板のようなものだった。
大きさは、俺の手のひらよりも、ひと回り大きい。表面はなめらかで、ゆるやかな弧を描いている。縁は、何かに引き剥がされたようにぎざぎざに欠けていた。
「……鱗?」
ネルが、呟いた。
確かに、形は鱗だった。
氷鱗魚の鱗をそのまま何十倍にも大きくしたような、白く分厚い鱗。そして、その表面には、うっすらと霜がついていた。
俺は、そっと手を伸ばして拾い上げた。
(……冷たい)
底牙を手に取ったときと同じ。いや、それよりもずっと冷たい。指先が、一瞬で痺れた。
昼の日差しが、真上から照りつけている。それなのに、鱗の表面の霜は、少しも溶けていなかった。
「なんだ、こりゃ……」
ドルフが、喉の奥で唸った。
「氷鱗魚の鱗じゃねえな。でかすぎる」
「こんな大きさの鱗の魚、いるの……?」
ティナが、不安そうにドルフの袖をつかんだ。
カインは、さっきまでの軽い調子をすっかり引っ込めて、湖の沖をじっと見つめていた。
俺は、鱗を手にしたまま、あたりを見回した。
湖沿いの細い道。少し先に、マーサさんの宿の屋根が見える。
(……ここ)
ミルヴェールに着いた最初の夜。
宿の窓から見た、岸辺の薄氷。地の底からの唸り声のあとに、白い亀裂が走っていった、その場所。亀裂は、ちょうどこのあたりの岸から、沖へ向かって延びていた。
あの夜、氷を割って、ここまで来た何かがいたのだとしたら。
◇
鱗は、ギルドへ持ち込んだ。
ポーラさんは、布に包まれたそれを見たとたん、丸い眼鏡の奥で目を見開いた。
「……これ、どこで?」
「湖の西の、岸辺です。街外れの」
ポーラさんは、布の上から鱗にそっと指を触れた。冷たさに驚いたように、すぐに手を引っ込める。いつもののんびりした口調が、少しだけ硬くなっていた。
「こんな大きな鱗の魚、この湖にはいないはずよお。少なくとも、ギルドの記録には一つもない」
「じゃあ、これは……」
ティナが言いかけて、口をつぐんだ。
誰も、その先を言わなかった。言わなくても、みんな同じことを考えていた。
湖の底にいる、大きな何か。
白霜の主。
ポーラさんは、鱗を布で丁寧に包み直すと、カウンターの奥へ運んでいった。
「調べてもらうわね。届けてくれて、ありがとう。……報酬は出せないけど、ごめんなさいねえ」
それから、ポーラさんは戻ってきて、小さくため息をついた。
「本当はねえ、王都のギルドに応援をお願いしてるの。Bランク以上のパーティを寄こしてください、って」
「来てくれるんですか」
「それがねえ。今はどこも手が足りなくて、早くてもひと月はかかるって返事だったのよお」
ポーラさんは、窓の外の湖へ目を向けた。夕日に染まった水面の、真ん中のあたりだけが白く濁っている。
「ひと月……。東の源泉、それまで持つかしらねえ」
誰も、答えられなかった。
(……Eランクの仕事じゃない)
ギルドの赤い依頼書の前で、そう思ったはずだった。
マーサさんの足湯のぬるさ。ゲルトさんの破れた網。湯守のおじさんの、薪を見る目。
この街で過ごした六日間が、手のひらに残った鱗の冷たさと一緒に、胸の奥でじっと動かずにいた。




