偏屈なボルグ
ミルヴェールで迎えた最初の朝は、窓の外が真っ白だった。
湯けむりではなく、湖から立ちのぼる朝霧だ。冷えた湖の上に、薄い霧が綿のように広がっている。
一階に下りると、マーサさんが鍋をかき回していた。
「おはよう。よく眠れたかい」
「はい。おかげさまで」
出てきた粥には、湖でとれる小さな干し魚がほぐして入っていた。ほんのり塩気があって、体の芯から温まる。
ネルが一口すすって、ぱっと顔を上げた。
「美味しい……!」
「そうかい、そうかい。おかわりもあるよ」
ネルの尻尾が、椅子の後ろでゆらゆらと揺れていた。
眠り羊亭の女将さんの麦粥も美味しかったけれど、この粥もいい。旅先の朝ごはんというのは、それだけで少し特別な気がした。
「で、今日はどこへ行くんだい」
「漁師さんの手伝いです。網の繕いと、漁の手伝いの依頼を受けようと思って」
「ああ、ゲルトのところだね。あそこは今、破れた網が山になってるはずだよ」
マーサさんは、空になった俺たちの椀に、黙って粥をよそい足した。
「あの男は口は悪いけど、根は優しいからね。怒鳴られても気にしなさんな」
◇
ギルドで依頼を受けて、湖の西のほとりへ向かった。
岸に沿って、古い漁師小屋がいくつも並んでいる。軒先には干し網がかかり、浜には小さな舟が何艘も引き上げられていた。けれど、舟を出す支度をしている漁師はほとんどいない。
いちばん大きな小屋の前で、髭もじゃの大男が網を広げていた。肩幅はドルフにも負けないくらいある。日に焼けた顔に、太い眉。
「ゲルトさんですか。ギルドの依頼で来ました」
声をかけると、大男はじろりとこちらを見た。
俺とネルの顔を順番に眺めて、鼻を鳴らす。
「なんだ、ガキが二人か。……まあいい、手が足りねえのは確かだ。来い」
ゲルトさんが顎で示した小屋の裏には、本当に破れた網が山になっていた。
一枚広げてみると、あちこちに拳ほどの穴が開いている。糸がずたずたに裂けて、ちぎれた端が毛羽立っていた。
「ひどい……」
ネルが、思わず呟いた。
「ここ半月ほど、毎日これだ。網を入れるたびに、どこかしら食い破られる」
「食い破られる?」
「底の魚だよ」
ゲルトさんは、忌々しそうに湖を睨んだ。
「湖の底のほうにしか棲まねえはずの魚どもが、浅いとこまで上がってきやがる。歯が鋭くて、網にかかると暴れて食い破るんだ。おまけに普段の魚は、そいつらに追われてどっかへ逃げちまった」
「どうして、底の魚が上がってくるんですか」
「白霜の主に、底から追い立てられてるんだろうよ」
ゲルトさんは、吐き捨てるように言った。
「湖の底が、どんどん冷えてるんだ。冷たいとこじゃ、魚だって生きていけねえ。だから上へ逃げてくる。……主ってのが魔物なのか神様なのか知らねえが、迷惑な話だ」
◇
仕事は二手に分かれた。
ネルは小屋に残って網の繕い。俺はゲルトさんの舟に乗って、網を引き上げる手伝いだ。
「嬢ちゃん、繕いはできるのか? 漁網は服とは勝手が違うぞ」
「平気よ。ばあちゃんが仕立て屋だったから」
ネルは、網の山の前にちょこんと座り込んだ。
腰の小袋から太い針と糸を取り出すと、破れた網を膝の上に広げる。琥珀色の瞳が、網の上をすうっと滑った。
それから、ネルの手が動き始めた。
破れ目の端の糸を拾って、結んで、次の目へ。針がくぐるたびに、ちぎれた網目がひとつずつ元の形に戻っていく。迷いがなかった。どこから手をつければいちばん早く塞がるのか、最初からわかっているみたいだった。
ゲルトさんが、ぽかんと口を開けた。
「……おい。もう一枚終わったのか」
「まだ半分よ。ここ、もう一つ破れてるから」
ネルは顔も上げずに、網の端を指さした。
ゲルトさんがそこを覗き込むと、確かに網目が一つ、根元から切れかけていた。外から見ただけでは、まずわからない傷だ。
「嬢ちゃん、よく見つけたな」
「【綻び】。ほつれが見えるスキルなの」
ネルは、少しだけ得意げに言った。
ほつれが見える。表向きのネルのスキルは、それだけだ。ここで使うぶんには、何も隠す必要はない。
「ははっ、こいつはいい! 網繕いのためにあるようなスキルじゃねえか!」
ゲルトさんが、ネルの背中をばしんと叩いた。ネルは前につんのめりながら、それでも尻尾をぶんぶんと揺らしていた。
◇
ゲルトさんの舟は、湖の西の浅瀬をゆっくりと進んだ。
櫂を漕ぐのはゲルトさんで、俺は舳先で網の綱を握る役だった。朝霧はもう晴れていて、水面は空の青を映している。けれど、舟べりから手を入れてみると、水は指が痺れるほど冷たかった。
「ここらで上げるぞ。引け、坊主!」
「はい!」
綱を引くと、ずしりと重い手応えがあった。
二人がかりで網をたぐり寄せる。水面に網が上がってくるにつれて、銀色の魚が何匹も跳ねているのが見えた。
その中に、一匹だけ、黒い魚が混じっていた。
細長い体に、灰色のまだら模様。口元から、針のように細い歯がのぞいている。そいつは網の中で身をくねらせると、網目にがぶりと噛みついた。
ぶつり、と糸の切れる音がした。
「出やがったな!」
ゲルトさんが、舟底の棍棒をつかんで振り下ろした。
ごつん、と鈍い音。黒い魚はぴくりと震えて、動かなくなった。網には、また拳ほどの穴が開いていた。
「これが底牙だ。普段なら、湖の真ん中の深いところにしかいねえ」
ゲルトさんは、底牙を網から外して舟底に放った。
俺はそれを、そっと手に取ってみた。
(……冷たい)
さっきまで生きて暴れていたとは思えないほど、冷えきっていた。
鱗の表面だけじゃない。身の奥まで、まるで氷室から出してきたばかりのように冷たい。指先から体温が吸い取られていく気がして、俺は思わず手を離した。
「底は、こんなに冷たいんですか」
「ああ。前はこうじゃなかった」
ゲルトさんは、湖の真ん中のほうへ目を向けた。
遠くの水面は、ほかよりも少しだけ白っぽく濁って見えた。
「この湖はな、底のほうが温かかったんだ。星の湯が湧いてるからな。冬に湖の表が凍っても、底はぬくい。だから魚も冬を越せた。……それが、ひと月前から逆になっちまった」
「湖の真ん中には、行かないんですか」
「行くもんか」
ゲルトさんは、きっぱりと首を振った。
「真ん中に舟を出した若いのが、三人ひっくり返された。下から、何かでかいのに持ち上げられたって言ってた。……あそこはもう、主の縄張りだ」
舟べりを、冷たい風が吹き抜けていった。
俺は黙って、白く濁った湖の真ん中を見つめていた。
◇
昼過ぎに、仕事が一段落した。
ネルが繕った網は、なんと十二枚。ゲルトさんは目を丸くして、俺たちの依頼書に完了の印を押してくれた。
「明日も来い。ギルドには、お前らを名指しで頼んどく」
「名指しなら、少し色をつけてくれてもいいのよ」
「ちゃっかりしてやがる」
ゲルトさんは、髭の奥でにやりと笑った。
ギルド支部に戻って依頼書を出すと、ポーラさんが丸い眼鏡の奥で目を細めた。
「はあい、お疲れさま。一人銀貨一枚ずつねえ」
カウンターに、銀貨が二枚並んだ。ネルがそれを大事そうに革袋へしまう。
「それとねえ、さっきゲルトさんの使いの子が来て、明日もあなたたちを頼みたいって。あの人が名指しなんて、珍しいのよお」
ネルの尻尾が、ぴんと立った。
ギルドを出て、俺たちは街の職人通りへ向かった。
ネルの胸元の革袋には、ガンツ親方から預かった手紙が入っている。
「ボルグさんって、どんな人なのかしら」
「親方は、偏屈な爺さんって言ってたな」
「親方に偏屈って言われるって、相当よね」
ネルが、少しだけ不安そうに狐耳を伏せた。
◇
職人通りは、湖から少し離れた坂の途中にあった。
石造りの工房が軒を連ねていて、あちこちから槌の音や、鉋を引く音が聞こえてくる。ガラス細工の店、銀細工の店、革細工の店。どこも、店先に品物を並べて客を待っていた。
その一番奥。坂のどん詰まりに、半分地面に埋まったような工房があった。
石段を三つ下りた先に、黒ずんだ木の扉。そこに、板切れが一枚打ちつけてある。
『冷やかし、お断り』
「……ここ、よね」
「ここだな」
ネルと顔を見合わせてから、扉を叩いた。
返事はない。もう一度叩くと、中から低い、しわがれた声がした。
「やかましい。開いとる」
扉を押すと、むっとするほど暖かい空気が流れ出してきた。
狭い工房だった。壁一面の棚に、見たこともない道具がぎっしりと並んでいる。奥の小さな炉で、赤い火がちろちろと燃えていた。
炉の前の作業台に、背の低い老人が座っていた。
俺の胸くらいまでしかない背丈。けれど肩と腕は、樽のように太い。白い髭が胸まで伸びていて、太い指で何かの細工をいじっていた。片目に、分厚いレンズを嵌めている。
ドワーフだ。
「……客か。何の用だ」
老人は、顔も上げずに言った。
「王都のガンツ親方から、手紙を預かってきました」
ネルが、革袋から手紙を取り出して差し出した。
老人の手が、ぴたりと止まった。それからようやく顔を上げて、レンズ越しにネルを見た。
「ガンツだと?」
老人は手紙をひったくるように受け取ると、封蝋を太い指で割った。
しばらく黙って読んでいたが、やがて、ふん、と鼻を鳴らした。
「あの鼻たれ小僧が。相変わらず字が汚い」
「鼻たれ……」
ガンツ親方は、王都でも名の知れた鍛冶職人だ。その親方を鼻たれ小僧と呼ぶなんて。
ボルグさんは手紙を作業台に放り出すと、ネルに向かって太い手を突き出した。
「見せてみろ」
「え?」
「剣だ。その腰のやつだろうが。手紙に書いてある」
ネルは慌てて、紅糸を鞘ごと腰から外した。
ボルグさんはそれを受け取ると、ゆっくりと鞘から抜いた。
炉の火に、刃をかざす。
青白い刃の縁が、星のように光った。
その瞬間、ボルグさんの目の色が変わった。
レンズを押し上げて、刃に顔を近づける。刃の縁を、根元から切っ先まで、舐めるように見ていく。ひっくり返して、反対側も。柄を握り、重さを確かめるように手首を返す。
工房の中が、しんと静まり返った。炉の火がぱちりと爆ぜる音だけが響く。
長い沈黙のあと、ボルグさんが口を開いた。
「……星鉄だな。それも、混ぜ物のない」
声が、さっきまでとは違っていた。
「この星鉄、どこで手に入れた」
「ばあちゃんの、形見なの」
ネルは、まっすぐにボルグさんを見て答えた。
「ばあちゃんが使ってた裁ち鋏と、ナイフ。どっちも星鉄だったの。それを、ガンツ親方に頼んで、一本の剣に打ち直してもらったの」
「ふん」
ボルグさんは、刃をもう一度炉の火にかざした。
「ガンツめ。星鉄の癖を殺さずに、よく鋼と馴染ませとる。腕は落ちとらんようだな」
それは、たぶん、この人なりの最大の褒め言葉なんだろう。
ネルの尻尾が、そわそわと揺れ始めた。
「その剣、名前は」
「紅糸」
「べにいと、か」
ボルグさんは、刃を鞘に納めてネルに返した。それから、作業台の引き出しを開けて、小さな布の包みを取り出した。
「これを見てみろ」
包みを開くと、中には小指の先ほどの、黒い小石が一つ入っていた。
炉の火を受けて、その表面がちらりと青白く光る。紅糸の刃と、同じ光だ。
「星鉄……?」
「儂が若い頃に、湖の浅瀬で拾ったもんだ。今のこの街に残っとる星鉄は、たぶんこれだけだろうよ」
ボルグさんは、小石を指先でつまみ上げた。
「この街には、言い伝えがある。昔々、この湖に星が落ちた。星の落ちた場所は地の底まで熱くなって、そこから湯が湧いた。それが、ミルヴェールの温泉の始まりだ」
「星の湯……」
ネルが、マーサさんの言葉を繰り返した。
「ほう、知っとるのか。そうだ。星鉄は、その落ちた星のかけらだと言われとる。儂がガキの頃は、浅瀬を探せばこういう小石がたまに見つかった。だが、もうとっくに拾い尽くされた」
ボルグさんは、小石を包みに戻した。
「ガンツの手紙には、いずれお前さんが紅糸の二本目を打ちたがるだろう、と書いてあった。鋏は二枚の刃で一つ。紅糸の片割れだ、とな」
ネルが、はっと息を呑んだ。
「この星鉄、分けてもらえるの?」
「分けたところで、何にもならん」
ボルグさんは、ばっさりと言い切った。
「紅糸と同じ長さの剣をもう一本打つなら、この小石の百倍はいる。そんな星鉄は、もうどこの市場にも出回っとらん。それに、星鉄は掘り出したままじゃ使い物にならん。混ぜ物を抜いて、鋼として打てる塊にせにゃならん。……それができる職人は、今はもう儂くらいのもんだ」
ガンツ親方が、星鉄のことなら自分よりボルグさんのほうが詳しいと言っていたのは、そういうことだったのか。
ネルの狐耳が、しょんぼりと伏せられた。
「……ただ」
ボルグさんは、作業台の向こうの小さな窓に目を向けた。
窓の外に、湖の水面がわずかに見えていた。
「湖の底には、まだ星の塊が眠っとる、と言われとる。星が落ちた、その場所にな。誰も取りに行けんだけだ。底は深いし、冷たい。……今は、なおさらだ」
ボルグさんは、ネルのほうへ向き直った。
「二本目が欲しけりゃ、星鉄を持ってこい。ガンツが打てる塊にしてやる。話はそれからだ」
ネルは、しばらく黙っていた。
それから、紅糸の柄をぎゅっと握りしめて、こくりと頷いた。
「……覚えとく」
「ふん。せいぜい覚えとけ」
ボルグさんは、また作業台の細工に向き直った。
もう話は終わりだ、という背中だった。俺たちは頭を下げて、工房を出ようとした。
扉に手をかけたとき、背中越しに、ボルグさんの低い声が聞こえた。
「……星の熱が冷めるなんぞ、儂は八十年生きてきて、聞いたこともない」
振り返ると、ボルグさんは手を止めて、窓の外の湖を睨んでいた。
炉の火に照らされたその横顔は、さっきよりも、ずっと険しかった。
◇
その夜。
マーサさんの宿の足湯に、俺は一人で座っていた。
ネルはもう部屋に引き上げている。一日じゅう網を繕っていたせいで、さすがに目が疲れたらしい。
湖は、昨夜と同じように黒い鏡になっていた。足湯から立ちのぼる湯けむりも、昨夜と同じように細い。
足を浸すと、やっぱりぬるかった。
ゲルトさんの話が、頭から離れなかった。
氷みたいに冷えきった底の魚。湖の底のほうが温かかった、という話。それが、ひと月前から逆になった。
ボルグさんの最後の一言も。星の熱が冷めるなんて、聞いたこともない。
そして、昨夜の湯けむり。
風もないのに、何かに吸い込まれるように消えた、あの湯けむり。
(……確かめてみるか)
あたりを見回して、誰もいないことを確かめた。
宿の窓はどこも暗い。マーサさんも、もう寝ているはずだ。
足湯の縁にしゃがんで、指先に小さな泡をひとつ作る。中に種火をひとかけら閉じ込めて、膜を少しだけ厚くした。湯の中に沈めれば、しばらくはほんのりと温かいまま漂うはずの泡だ。
そっと、湯に沈める。
泡の中の小さな火が、ゆらりと揺れた。
それから、まるで下から細い糸で引かれたみたいに、火の色が足元のほうへ流れていく。
橙が、黄色に。黄色が、白に。
(……一)
数え終わる前に、火は消えていた。
残った泡は、湯の中だというのに、指で触れると冷たかった。
もう一度、作る。今度は種火を三つ。
結果は同じだった。泡の中の熱が、湯の底のさらに下へ、吸い込まれていく。
(……熱が、食われてる?)
背筋に、冷たいものが走った。
湖の底が冷えたのは、ただ寒くなったからじゃない。
誰かが、熱を食べている。星の湯の熱も、湖の底の熱も、俺の泡の熱さえも。
湖の、ずっと下のほうで。
何かが、腹を空かせているような気がした。




