湯けむりの都
王都を出て五日目の昼、荷馬車は長い坂をのぼりきった。
丘の上から北を見下ろしたとたん、ネルが荷台から身を乗り出した。
「……わあ」
眼下に大きな湖が広がっていた。空をそのまま映したような青い水面が、遠くの雪山のふもとまで続いている。そのほとりに白い石造りの家々が寄り添うように建ち並び、屋根と屋根のあいだからは白い湯けむりがいくつも立ちのぼっていた。
湖都ミルヴェール。王都の北にある、水と温泉の街だ。
「すごい。本当に湯気が出てる」
「あれ全部、温泉なのか」
俺も思わず声をもらした。故郷の村にも王都にも、こんな景色はなかった。
先頭の荷馬車で商隊長が手綱を引いて馬を止めた。けれどその顔は少し曇っていた。
「……おかしいな」
「何がですか?」
「いつもなら、この丘から見ると街じゅう湯けむりで真っ白なんだ。屋根なんて、ほとんど見えやしねえ」
商隊長が太い眉を寄せる。前の荷馬車の屋根の上では、カインが額に手をかざしていた。
「……ほんとだ。湯けむりが立ってるのは、街の東半分だけだな。西のほうは、細いのがちょろちょろ出てるくらいだ」
【鷹の目】で見ているのだろう。カインの声から、さっきまでの浮かれた調子が消えていた。
「それと、岸のあたりが白く光ってる。あれ、氷じゃねえか?」
「氷?」
ティナが首をかしげた。
「まだ冬には早いよ。王都じゃ、霜だって降りてないのに」
「でも氷だ。湖の縁に、薄く張ってる」
丘を吹き上げてきた風が頬を撫でた。王都の秋風とは違う、肌の奥まで染みてくるような冷たさだった。
ネルが小さく身を震わせて、外套の襟をかき合わせる。
「温泉の街なのに、寒いわね」
「北だからな」
そう答えながら、俺は湖を見つめていた。青い水面の真ん中あたりが、ほんの少しだけ白く濁って見えた。
◇
坂を下りて門をくぐると、石畳の道がまっすぐ湖へ向かって延びていた。
商隊長の話では、この街の石畳の下には温泉の水路が通っていて、真冬でも道がほんのり温かいのだという。雪が積もってもすぐに溶けるので、ミルヴェールの子どもは雪だるまを作ったことがない。それが街の自慢らしい。
けれど荷馬車の車輪が踏む石畳は、ところどころ白く凍っていた。水路の蓋の隙間からは、湯気ではなく、ひやりとした冷気が漂ってくる。
ネルが荷台から降りて、そっと石畳を踏んだ。とたんに尻尾の毛がぶわっと逆立った。
「冷たっ! ちょっと、話が違うじゃない!」
「俺に言われても」
湖のほとりまで来ると、岸から湖の上へ長い木の桟橋がいくつも延びていて、その上に屋台がずらりと並んでいた。湖の上の市場だ。
魚を干す網に、色とりどりの布。湯けむりで蒸した饅頭の屋台。けれど半分ほどの屋台は布をかぶせたままで、呼び込みの声もまばらだった。桟橋の下の水面には、薄い氷が花びらのように浮かんでいる。
通りの角に、三階建ての立派な温泉宿があった。入り口には湯けむりの絵を彫った看板がかかっている。
その看板の下に、板切れが一枚打ちつけてあった。
『湯が戻るまで、しばらく休みます』
「……休み、だって」
ティナがぽつりと読み上げた。
よく見ると、通りのほかの宿にも、同じような板切れがいくつもかかっていた。
◇
商隊の荷を湖のほとりの倉庫へ運び込み終えたのは、夕方近くのことだった。
「よし、これで護衛は完了だ! みんな、ご苦労だったな!」
商隊長が、護衛の冒険者たちに一人ずつ報酬の袋を手渡していく。俺とネルの分は、銀貨が八枚ずつ。道中の食事は商隊持ちだったから、Eランクの護衛としては悪くない額だった。
「坊主、嬢ちゃん。帰りも、うちを使ってくれよ」
商隊長が俺の背中をばしんと叩いた。
「俺たちはひと月ほどこの街で商いをして、また王都へ戻る。そのときはギルドに声をかけるからな。お前らがいりゃあ、狼も勝手に転んでくれる!」
「……あはは」
俺は乾いた笑いでごまかした。隣でネルが、そっと目を逸らしている。
「俺たちも、しばらくはこの街で稼ぐつもりだ」
カインが、銀貨の袋を手の上で弾ませながら言った。
「湖の素材は、王都じゃ高く売れるからな。氷鱗魚の鱗とか、湖藻とか」
「宿は、どうするの?」
ネルが尋ねると、ティナが胸を張った。
「この街に、ドルフの遠い親戚がいるの。納屋を貸してもらえることになってるんだ。タダで!」
「タダ……」
ネルの狐耳がぴくりと動いた。羨ましそうな目をしているのが、横から見てもよくわかった。
「じゃあ、また会おうぜ! ギルドで顔を合わせることもあるだろ!」
「困ったことがあったら、いつでも呼んでね、ネルちゃん!」
焚き火の輪の三人は、手を振りながら湖沿いの道を歩いていった。
◇
ギルド支部は、湖のほとりに建っていた。
舟小屋をそのまま大きくしたような木造の建物で、壁には古い櫂や網が飾られている。扉を開けると、水草と古い木の匂いがした。
王都のギルド本部の何分の一もない広さだ。けれどカウンターの前には冒険者が何人も並んでいて、ざわざわと落ち着かない空気が漂っていた。
「はあい、次のかた、どうぞお」
順番が来ると、カウンターの向こうから、のんびりとした声がした。
ふくよかな体つきの、三十過ぎくらいの女性だった。丸い頬に丸い眼鏡。頭には、湖の水の色をした三角巾を巻いている。
「王都から来ました。これを」
ミリアさんの紹介状を差し出すと、女性は封を見て、ぱっと顔をほころばせた。
「あらあら、ミリアちゃんの字だわあ」
「ミリアさんを、ご存じなんですか?」
「ええ、ええ。ギルド職員の研修で、王都でひと月、同じ部屋だったのよお。あの子、夜中まで帳簿の勉強してて、えらい子でねえ」
女性は紹介状にゆっくりと目を通して、俺とネルの顔を交互に見比べた。
「リトくんと、ネルちゃん。パーティ名は、仄かな灯。ふふ、かわいい名前ねえ。私はポーラ。この支部の受付をしてます。よろしくねえ」
「よろしくお願いします」
「『二人とも、とってもいい子です。ネルちゃんの剥ぎ取りは、王都でいちばん綺麗です』……ですって。ミリアちゃんがこんなに褒めるなんて、珍しいわあ」
ネルの尻尾が、ぴんと立った。それから、そわそわと左右に揺れ始めた。
「それと最後に、『無理はさせないでください』ですって」
ポーラさんは紹介状をたたんで、ふうっと小さく息をついた。
「そうねえ。今のこの街だと、そう書きたくもなるわよねえ」
「何か、あったんですか」
「見たでしょう? 湯けむり」
ポーラさんは、窓の外の湖へ目を向けた。
「ひと月くらい前からねえ、温泉がだんだんぬるくなってきたの。西の源泉から順番に冷えて、今じゃ街の半分のお湯が水みたいになっちゃって。湖も、まだ秋なのに凍りはじめて」
「原因は、わかってないんですか」
「湖の底から、見たことない魔物が上がってくるようになったのよお。冷たい水を嫌って、底から逃げてきたみたいでねえ。漁師さんたちは困ってるし、温泉宿は閉めるしかないし」
ポーラさんは、カウンターの横の掲示板を指さした。
地元の依頼書が何枚も貼られていた。
『網の繕いと漁の手伝い 一人一日銀貨一枚』
『氷鱗魚の鱗 一枚につき大銅貨三枚』
『湯守の手伝い(湯船の掃除・薪割り) 一人一日銀貨一枚』
その真ん中に、一枚だけ赤い紙の依頼書があった。
『湖の主「熱喰らい」の調査・討伐 Bランク以上』
ギルドの判が押された、正式な依頼書だ。
その下の余白に、誰かが震えるような手書きの文字を書き足していた。
『白霜の主を、どうか鎮めてください』
「……しろしもの、ぬし?」
ネルが小さく読み上げた。
「街の人はねえ、そう呼んでるの。この湖には昔から神様が棲んでるって言い伝えがあってねえ。その神様が怒って、湖の底で冷たい息を吐いてるんだ、って。おばあちゃんたちなんかは、毎朝岸で手を合わせてるわ」
ポーラさんは、困ったように眉を下げた。
「ギルドとしては、湖の底に何か大きな魔物がいる、ってところまでしかわかってないの。調べに潜った冒険者さんも、冷たすぎて途中で戻ってきちゃって」
赤い依頼書を見上げる冒険者たちの顔は、どれも険しかった。Bランク以上。この支部にいるのは、見たところほとんどがDやEのプレートだ。
(……俺たちの仕事じゃない)
俺は赤い紙から目を逸らした。
ミリアさんとも約束した。俺たちはEランクで、ここへは護衛の仕事で来ただけだ。湖の魔物は、この街の冒険者か、Bランク以上の誰かが片づける。目立たずに地元の依頼をこなして、温泉に入って、王都に帰る。それでいい。
隣のネルも、黙って赤い紙を見つめていた。手書きの文字を、何度も目でなぞっているようだった。
「……リト」
「わかってる。俺たちは、俺たちにできる依頼をやろう」
「うん」
ネルは小さく頷いた。それから、掲示板の『網の繕い』の依頼書を、そっと指で押さえた。
「これ、あたし向きよね」
「ああ。明日、受けよう」
◇
ポーラさんに教わった宿屋通りは、湖の東側にあった。まだお湯が湧いている東側に、開いている宿が集まっているのだという。
最初に覗いたのは、通りでいちばん湯けむりの多い大きな温泉宿だった。
「お二人さまですね。一泊、お一人さま銀貨三枚になります」
「いっ……」
ネルの尻尾が、ぼわっと二倍に膨らんだ。
「一泊で銀貨三枚!? 護衛五日のお金が、三晩でなくなっちゃうじゃない!」
「ネル、声が大きい」
宿の人の笑顔が、少しだけ引きつっていた。俺はネルの腕を引っ張って、そそくさと宿を出た。
そのあと三軒ほど覗いたが、どこも似たような値段だった。お湯が出る宿に客が集まって、値が上がっているらしい。
(……強い魔物を倒しても、懐はいつもこれだ)
心の中でだけ、ため息をつく。Eランクの冒険者が温泉宿に何泊もできるはずがない。それが、俺たちの表の顔だった。
「……温泉って、お金持ちのものだったのね」
「温泉の街まで来て、温泉宿に泊まれないとはな」
ネルが、石畳の小石をつま先で蹴った。
◇
宿屋通りを外れて、湖沿いの細い道を歩いていく。
街の外れに、小さな宿がぽつんと建っていた。二階建ての古い木の宿で、軒先の看板は文字がかすれて読めない。けれど建物の裏手から、細い湯けむりが一筋、ゆらゆらと立ちのぼっていた。
「湯気、出てる」
「入ってみるか」
扉を開けると、からん、と乾いた鈴の音がした。
帳場の奥から、腰の曲がった小さなおばあさんがゆっくりと顔を出した。白髪をきっちりとまとめて、洗いざらしの前掛けをしている。
「おや、お客さんかい。珍しいねえ」
「二人で、しばらく泊まりたいんですけど。一泊、おいくらですか」
おそるおそる尋ねると、おばあさんは皺だらけの顔をくしゃりとほころばせた。
「二部屋で、一泊銀貨一枚。……と言いたいところだけど、しばらくってのは、どれくらいだい?」
「二、三週間くらいだと思います」
「なら大銅貨七枚でいいよ。朝の粥もつけたげる」
「……っ!」
ネルの尻尾が、ぶんっと大きく揺れた。
「いいの!?」
「いいもなにも。客がみんな東の大きい宿に行っちまって、閑古鳥が鳴いてるんだよ。泊まってくれるだけで、ありがたいさ」
おばあさんは、からからと笑った。
「あたしはマーサ。この宿を一人でやってる。爺さんが死んでからは、ずっと一人さ」
「ネルよ。こっちはリト」
「ネルちゃんに、リトくん。よろしくねえ」
マーサさんは、ネルの手を取ってぽんぽんと叩いた。
ネルは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。それから、マーサさんの皺だらけの手を、じっと見つめていた。
(……ばあちゃんの手を、思い出してるのかな)
ネルの横顔を見ながら、俺はそう思った。
「長旅で疲れたろう。裏に足湯があるから、浸かっといで。うちの湯は、まだ止まってないからね」
◇
宿の裏手には、石で囲んだ小さな足湯があった。
軒の下に木の腰掛けが並んでいて、座ると目の前に湖が広がっている。夕日が湖の向こうの山に沈みかけて、水面が茜色に染まっていた。
ネルはさっそく靴を脱いで、飛び込むように足を浸した。
「はあ、生き返る……」
そう言いかけて、ネルはぴたりと動きを止めた。
「……ぬるい」
「え?」
俺も足を浸してみた。確かに温かい。けれど温泉と聞いて想像していた熱さとは、ほど遠かった。ぬるめの風呂の、さらに少しぬるいくらいだ。
「ほんとだ。ぬるいな」
「温泉って、もっとこう、熱いものじゃないの?」
「前は、そうだったんだけどねえ」
いつの間にか、マーサさんが湯呑みを二つ載せた盆を持って、後ろに立っていた。
「前はこの足湯も、湯気で向こうの湖が見えないくらい熱かったんだよ。冬なんか雪の中で浸かってると、頭まで汗をかいてねえ」
マーサさんは湯気の薄い湯船を見下ろして、寂しそうに目を細めた。
「ひと月前から、毎日少しずつ冷えていく。東の源泉はまだ持ってるけど、このままじゃいつまで持つか」
「白霜の主の、せいなんですか」
俺が尋ねると、マーサさんは湖のほうへ目を向けた。
「さあねえ。若い者は魔物だって言うし、年寄りは神様が怒ってるって言う。あたしには、どっちだかわからないよ。……ただ、あたしの婆さんは言ってたねえ。この湖のお湯は、空から落ちてきた星がくれたもんだって。だからミルヴェールの湯は、昔は『星の湯』って呼ばれてたのさ」
「星……」
ネルが小さく呟いて、腰の紅糸の柄にそっと手を触れた。
空から落ちてきた鉄と言い伝えのある、星鉄の刃。ばあちゃんの裁ち鋏。
マーサさんはそれには気づかなかったらしい。湯呑みを俺たちの横に置くと、腰を叩きながら宿の中へ戻っていった。
「冷めないうちにお飲み。湯冷めするよ」
◇
その夜。
マーサさんの宿の二階の部屋は、狭いけれど清潔で、窓から湖が見えた。
隣の部屋からは、ネルの寝息が壁越しにかすかに聞こえてくる。旅の疲れが出たのだろう。夕食の粥を食べ終えるなり、ネルはすぐに部屋へ引っ込んでしまった。
俺は、なかなか寝つけなかった。
窓を少しだけ開けると、冷たい夜気が流れ込んでくる。空には細い月がかかっていて、月明かりに照らされた湖は、黒い鏡のように静まり返っていた。
岸辺の薄氷が、月の光を受けて白く光っている。宿の裏手の足湯からは、細い湯けむりがまっすぐに夜空へのぼっていた。
風も、音もない夜だった。
――そのとき。
足元から、何かが響いた。
……ぉぉ……ん……
低い。
とても低い、唸り声のような音だった。
耳で聞くというより、床板を伝って、足の裏から腹の底へ染みてくる。
窓枠を握る指に、力がこもった。
……ぉぉ……ぉ……ん……
音は、湖のほうから来ていた。
いや、湖の、ずっと下。地の底からだ。
ぴしり。
岸辺の薄氷に、白い亀裂が走った。
ぴし、ぴし、ぴしり。
亀裂は岸から沖へ向かって、細い糸のように延びていく。
月明かりの中で、氷の割れる乾いた音だけが、静かな湖面に響いた。
そして。
足湯から立ちのぼっていた湯けむりが――ふっと、消えた。
風もないのに。
まるで、何かに吸い込まれたみたいに。
ほんの数呼吸のあいだ。
それから湯けむりは、何事もなかったように、また細く立ちのぼりはじめた。
唸り声は、もう聞こえなかった。
(……今の、何だ?)
俺は窓の外の湖を見つめたまま、しばらく動けなかった。
湖は、また黒い鏡に戻っていた。
けれど窓から吹き込む夜気は、さっきよりも、ほんの少しだけ冷たくなっていた。




