北の街道
王都を出て、最初の朝。
がたごとと揺れる荷馬車の荷台で、俺とネルは、女将さんの焼き饅頭を頬張っていた。
ふっくらとした生地の中に、甘辛く煮た肉がぎっしり詰まっている。冷めてもまだ柔らかくて、ひと口かじるたびに、じんわりと味がしみ出してきた。
「……美味しい」
ネルが、目を細めて呟いた。尻尾が、荷台の上でゆらゆらと揺れている。
「女将さんの饅頭、こんなに美味しかったのね。宿の麦粥しか食べたことなかった」
「帰ったら、また頼もうな」
「うん」
北の街道は、王都の周りよりもずっと静かだった。
左右に広がる畑は、少しずつ草原に変わり、やがて背の高い草が風に揺れる、なだらかな丘陵になっていく。遠くには、白い雪をかぶった山々が、うっすらと霞んで見えた。
「おーい、坊主たち! 饅頭うまそうだな!」
前の荷馬車から、細身の青年が身を乗り出して手を振ってきた。
「ひとつくれよ!」
「やらないわよ!」
ネルが、饅頭を抱え込むようにして叫んだ。
「ちぇっ、ケチだなあ」
青年は、けらけらと笑った。
北門で一緒になった、三人組のEランクパーティ。王都の西の岩場で見かけた、あの三人だ。名前は『焚き火の輪』というらしい。出発してから、ずっとこの調子だった。
◇
昼の休憩のとき、焚き火の輪の三人が、俺たちの荷馬車のそばに集まってきた。
「改めて、自己紹介な。俺はカイン。スキルは【鷹の目】。三百歩先の鳥の羽の数まで見える」
細身の青年が、得意げに胸を張った。
日に焼けた顔に、人懐っこい笑み。どこか軽い雰囲気の男だった。
(……岩場でも、同じこと言ってたな)
俺は、心の中で小さく笑った。
隣のネルも、同じことを思い出したらしい。口元が、ほんの少しだけ引きつっていた。
「俺は、ドルフだ」
大柄な男が、のっそりと片手を上げた。
俺の倍はありそうな肩幅に、丸太のような腕。けれど、目元は優しく、どこか兄貴分のような落ち着きがあった。
「スキルは【怪力】。力仕事なら任せとけ」
「それから、あたしがティナ」
最後に、小柄な女の子が、ぺこりと頭を下げた。
ネルと同じくらいの背丈で、栗色の髪を二つに結んでいる。腰には、薬草や布が詰まった大きな鞄を下げていた。
「スキルは【手当て】。ちょっとした傷なら、すぐに治せるよ。……あと、このパーティのお財布は、全部あたしが握ってるから」
「お財布?」
ネルの狐耳が、ぴくりと動いた。
「だって、この二人に任せたら、一晩で全部飲み代になっちゃうんだもん」
ティナが、じとっとした目でカインとドルフを睨んだ。
カインが「人聞きの悪い」と口を尖らせ、ドルフが気まずそうに頭をかく。
「……ねえ、ティナ」
ネルが、少しだけ身を乗り出した。
「王都の西の市場の、薬草屋。あそこ、値切れる?」
「あ、あそこ? あそこはね、朝一番に行くと、前の日の売れ残りを半値にしてくれるの」
「ほんと!?」
「ほんと、ほんと。あと、東の市場の干し肉屋はね――」
二人は、あっという間に額を寄せ合って、ひそひそと値切りの話を始めた。
ネルの尻尾が、ぶんぶんと揺れている。こんなに楽しそうに話すネルを、俺は初めて見た気がした。
「……あいつら、気が合いそうだな」
ドルフが、苦笑いしながら俺の隣に腰を下ろした。
「財布を握ってる同士、か」
「ネルも、うちのお財布係みたいなものなので」
「ははっ。お互い、苦労するな」
ドルフは、大きな手で俺の背中を、ぽんと叩いた。
◇◆◇
旅に出て、三日目の夕暮れ。
商隊は、街道沿いの小さな草原で、野営の準備を始めていた。
荷馬車を円く並べて、その内側に焚き火を起こす。馬たちが、草を食みながら低く鼻を鳴らしていた。
「……おい」
荷馬車の屋根の上で見張りをしていたカインが、不意に、低い声を出した。
さっきまでの軽い調子は、どこにもなかった。
「西の丘。狼だ。…灰色狼が、八、いや十頭」
商隊長の顔色が、さっと変わった。
「数が多いな。……北の街道の狼は、群れで荷を狙ってくる。荷馬車を守れ! 馬を離すな!」
護衛の冒険者たちが、一斉に武器を手に取った。
俺も、父さんのナイフを抜く。ネルが、紅糸を鞘から抜き放った。青白い刃の縁が、夕日を受けて光る。
丘の向こうから、灰色の影が、次々と姿を現した。
大型の犬よりも、ひと回り大きい。痩せた体に、灰色の硬い毛並み。黄色い目が、夕闇の中でぎらぎらと光っていた。
「ドルフ!」
「おうよ!」
ドルフが、足元の岩を両手で掴んだ。
大人が二人がかりでも動かせなさそうな岩を、ひょいと持ち上げて、先頭の狼の群れへと放り投げる。
――ずしん!
岩が地面に落ちて、土煙が上がった。狼たちが、慌てて左右に散る。
けれど、狼たちは怯まなかった。
散った群れが、荷馬車の円の左右から、回り込むようにして一斉に駆け込んでくる。
「左からも来るぞ!」
カインが叫ぶ。
(……数が多い)
俺は、ナイフを構えたまま、素早く周りを見回した。
商隊の人たち。焚き火の輪の三人。ほかの護衛の冒険者たち。みんな、狼の群れに気を取られている。
(今なら、見られない)
俺は、背の高い草むらに、そっと指先を向けた。
――ぽん、ぽん、ぽん。
小さな泡を、いくつも、草の根元に放つ。
草むらに落ちた泡が、ぬるりと弾けて広がった。夕闇の草の陰では、泡なんて、誰の目にも見えない。
左から駆け込んできた狼たちが、草むらを踏んだ瞬間――。
「キャンッ!?」
足を取られて、次々と、もんどり打って転がった。
「今だ!」
その隙に、ネルが跳び出した。
紅糸が、青白い弧を描く。転がった狼の首元を、一頭、また一頭と、正確に断っていく。
右から回り込んだ狼たちには、ドルフが立ちはだかっていた。
飛びかかってきた狼の首根っこを、素手でがしっと掴んで、そのまま放り投げる。カインは、荷馬車の屋根の上から弓を引き、群れの後ろに控える狼を、次々と射抜いていた。
「なんだ、今日の狼、やけに転ぶな!」
カインが、弓を引きながら叫んだ。
「草が、夜露で濡れてるんじゃないのか!」
ドルフが、狼を放り投げながら答える。
(……そういうことにしておいてくれ)
俺は、心の中で手を合わせながら、また草むらに泡を放った。
やがて、群れの大将らしい、ひときわ大きな灰色狼が、低く唸って身を翻した。
残った狼たちが、それに続いて、丘の向こうへと逃げ去っていく。
「……追い払ったか」
商隊長が、大きく息を吐いた。
「怪我人は!?」
「ドルフが、ちょっと腕を噛まれてるよ!」
ティナが、ドルフの腕をぐいっと引っ張った。
太い腕に、狼の牙の跡がくっきりと残っていて、血がにじんでいる。
「こんなの、唾つけときゃ治る」
「治りません! ほら、腕出して!」
ティナが、ドルフの傷口に、小さな手のひらをかざした。
手のひらから、淡い緑色の光が、ふわりとにじみ出す。光が傷口を包み込むと、見る見るうちに血が止まり、牙の跡が、薄い赤い線になっていった。
「……すごい」
ネルが、思わず呟いた。
「【手当て】よ。深い傷は無理だけど、これくらいなら、すぐ」
ティナは、得意げに胸を張った。
それから、ネルの手元の紅糸に、ちらりと目を向ける。
「ネルちゃんこそ、すごいじゃない。狼の首、一太刀で落としてたもん」
「べ、別に。狼が、勝手に転んでくれたから」
ネルは、ちらりと俺のほうを見て、すぐに目を逸らした。
尻尾が、なんとも言えない形にくねっていた。
◇
その夜。
円く並べた荷馬車の内側で、焚き火が、ぱちぱちと音を立てて燃えていた。
狼の見張りは、交代で立てることになった。焚き火を囲んで、商隊の人たちも、冒険者たちも、思い思いに夕食をとっている。
俺とネルは、焚き火の輪の三人と、同じ火を囲んでいた。
「なあ、リト」
カインが、干し肉をかじりながら言った。
「お前らは、なんで冒険者になったんだ?」
「俺たちの夢、先に言っとくか。俺はな、いつかA級になって、王都のギルドの壁に名前を刻むんだ」
聞いてもいないのに、カインが勝手に話し始めた。
「A級になったら、みんなが俺の名前を知ってる。【鷹の目】のカイン様だ、ってな!」
「カインは、目立ちたいだけでしょ」
ティナが、呆れたように言った。
「ドルフは?」
「俺か」
ドルフは、焚き火を見つめながら、少し照れくさそうに笑った。
「田舎に、おふくろと妹がいてな。いつか、あいつらに、雨漏りのしない家を建ててやりたい。……それだけだ」
「ドルフらしいね」
ティナが、くすりと笑った。
「あたしは、いつか王都で、小さな薬屋を開きたいの。【手当て】で治せない傷も、薬なら治せるから」
「薬屋……」
ネルが、小さく呟いた。
「あたしも、店を持ちたいの。ばあちゃんの、仕立て屋。……今は人のものになってるけど、いつか、買い戻すの」
「えっ、そうなの!?」
ティナが、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、ネルちゃんが仕立て屋で、あたしが薬屋! 隣同士でお店出せたら、素敵だね!」
「……と、隣同士?」
「うん! 困ったときは、助け合えるし!」
ネルの狐耳が、ぴんと立った。
それから、ほんの少しだけ、口元をゆるめた。
「……悪く、ないわね」
尻尾が、焚き火の明かりの中で、ふわふわと揺れていた。
「で、リトは?」
カインが、俺のほうを見た。
四人の目が、一斉にこちらを向く。
「俺は……」
焚き火の炎が、ぱちりと爆ぜた。
「いろんな場所に、行ってみたいんだ。まだ見たことのない街とか、景色とか。……できるだけ、たくさん」
「なんだそれ」
カインが、拍子抜けしたように眉を上げた。
「欲がねえなあ。もっとこう、A級になりたいとか、金持ちになりたいとか、あるだろ」
「ちょっと、カイン」
ティナが、カインの脇腹を肘で小突いた。
「素敵じゃない。いろんな場所を見て回るの、あたしは好きだな」
「それはそれで夢があって、いいじゃねえか」
ドルフが、穏やかに笑った。
本当は、その「いろんな場所」の、ずっと先に。
誰も見たことのない、未開の地がある。
五歳のあの日、母さんの読み聞かせを聞きながら決めた、俺の夢。
でも、それは、今はまだ、口にしない。
ドルフは、大きな手で、焚き火に枯れ枝を一本くべた。
ぱち、と小さな火の粉が、夜空へ舞い上がっていく。
「焚き火ってのはな、一本の枝じゃすぐ消える。でも、何本も寄せ合えば、一晩中燃え続ける。……俺たちのパーティの名前は、そういう意味だ」
「焚き火の、輪」
ネルが、呟いた。
「そう。一人じゃできないことも、輪になれば、なんとかなる。旅だって、同じだ」
ドルフは、照れくさそうに笑った。
俺は、焚き火の炎を見つめた。
小さな火が、寄り集まって、夜の闇を照らしている。
(……俺たちの、名前と、少し似てるな)
『仄かな灯』。
暗いところなら、ちゃんと見える。小さくても、誰かの足元を照らせる灯。
隣を見ると、ネルも、同じことを考えていたらしい。
琥珀色の瞳に、焚き火の炎が、ゆらゆらと映り込んでいた。
夜空には、王都で見るよりも、ずっとたくさんの星が瞬いていた。
北の街道の夜は、少しだけ寒くて、少しだけ温かかった。




