北へ
出発の前日は、朝から慌ただしかった。
眠り羊亭の部屋で、荷袋に荷物を詰めていく。着替えが二着、毛布、火打ち石、干し肉、水袋。父さんのナイフは、ネルが縫ってくれた布の覆いごと腰に下げた。
王都に来たときと、ほとんど変わらない荷物だった。それでも、荷袋の口を縛り終えたとき、少しだけ胸の奥がそわそわした。
「リト、まだ?」
扉の向こうから、ネルの声がした。
開けると、ネルが新しい籠を背負って立っていた。腰には紅糸。赤茶の髪は、紅い糸の髪紐で後ろにまとめてある。
「挨拶回り、行くんでしょ。早くしないと、日が暮れるわよ」
「わかってる」
階段を下りると、厨房から女将さんがひょいと顔を出した。
「おや、あんたたち。いよいよ明日かい」
「はい。しばらく、留守にします」
「そうかい。部屋は空けとくよ。帰ってきたら、またおいで」
女将さんは、それだけ言って厨房へ引っ込んだ。
戻ってきたときには、その手に、布でくるんだ包みが二つ乗っていた。
「明日の朝の分だよ。道中で食べな」
包みを開けると、ふっくらとした焼き饅頭が、いくつも並んでいた。焼き目まできれいに揃っていて、まだほんのりと温かい。
「わあ……」
ネルの尻尾が、ぶんっと大きく揺れた。
「い、いいの? お代は……」
「いらないよ。うちの麦粥を、毎朝おいしそうに食べてくれたお礼さ」
女将さんは、ネルの頭をわしわしと撫でた。
ネルは何か言い返そうとして、結局、真っ赤になって俯いただけだった。
◇
ギルド本部の受付で、ミリアさんはいつものように、明るい笑顔で迎えてくれた。
「明日、出発ですね! 護衛の依頼、手続きはもう済んでますよ」
「ありがとうございます、ミリアさん」
「それと、これを」
ミリアさんは、カウンターの下から、封をした一通の手紙を取り出した。
「ミルヴェールのギルド支部への、紹介状です。王都のギルドから来た冒険者だって、向こうの受付にちゃんと伝わるように」
「わざわざ、ありがとうございます」
「いえいえ。お二人に勧めたのは、私ですから」
ミリアさんは、にこりと笑った。それから、少しだけ声を落とす。
「……でも、無理はしないでくださいね。湖の魔物の件は、向こうの冒険者さんたちに任せていいんですから。お二人は、護衛のお仕事だけ」
「はい」
「それと」
ミリアさんの目が、いたずらっぽく細められた。
「帰ってきたら、温泉の感想、聞かせてくださいね。私、まだ行ったことないんです」
「任せて!」
ネルが、即座に答えた。
狐耳が、ぴんと立っていた。
「ネル、目的は――」
「わかってるわよ!」
◇
ガンツ親方の鍛冶屋は、今日も槌の音が響いていた。
「親方」
声をかけると、親方は振り返りもせずに、片手を上げた。
「おう。明日だったな」
ネルが、腰の紅糸を、そっと鞘から抜いて掲げてみせた。
青白い刃の縁が、炉の火を映して、星のように光る。
親方は、ちらりとそれを見た。
それから、黙って一度だけ頷いた。
それだけだった。
でも、それで十分だった。ネルは紅糸を鞘に戻して、深く頭を下げた。
「行ってきます」
「おう。ボルグの爺さんに、よろしく言っとけ」
かん、と。
親方の槌が、また鉄を打ち始めた。
◇
夕暮れ。眠り羊亭へ戻ると、宿の前に、白銀の鎧が立っていた。
「レオンハルト?」
レオンハルトは、腕を組んで、宿の壁にもたれかかっていた。
胸元には、Dランクのプレート。鎧の傷は、もうきれいに磨き直されている。
「……北へ行くそうだな」
「耳が早いな」
「ギルドで聞いた」
レオンハルトは、壁から背を離して、まっすぐに俺を見た。
青い瞳が、夕日を映して、少しだけ赤く光っている。
「まだ、答えは聞いてない」
「……ああ」
「戻ってきたら、今度こそ聞かせてもらうからな。お前が、何を隠してるのか」
「戻ってきたらな」
レオンハルトは、ふん、と鼻を鳴らした。
それから、背を向けて歩き出す。数歩進んで、振り返らないまま、ぽつりと言った。
「……死ぬなよ、チビ種火」
白銀の背中が、夕暮れの路地に消えていった。
「……あいつ、素直じゃないわね」
ネルが、呆れたように呟いた。
「ネルに言われたくないと思うぞ」
「なっ……! う、うっさい!」
◇◆◇
翌朝。夜明け前の北門。
門の前の広場には、荷馬車が何台も並んでいた。荷台には、麦の袋や、布の束や、樽がぎっしりと積まれている。馬たちが白い息を吐きながら、出発を待っていた。
「おお!? お前、あのときの雑用の坊主じゃねぇか!」
先頭の荷馬車の脇から、恰幅のいい男が、大きな声を上げて歩み寄ってきた。
見覚えのある顔だった。故郷の村を出て、交易町ルクスから王都まで、俺を雑用として商隊に乗せてくれた、あの商隊長だ。
「お久しぶりです」
「いやあ、まさか護衛に雇ったのが坊主だったとはな! 雑用から護衛たぁ、出世したもんだ!」
商隊長は、俺の背中をばしばしと叩いて、豪快に笑った。
「お、そっちの狐の嬢ちゃんは、相棒か?」
「ネルよ。よろしく」
「おう、よろしくな!」
そのとき、荷馬車の陰から、三人組の冒険者がこちらへ歩いてきた。
「お、あんたらも護衛か! よろしくな!」
細身の青年が、人懐っこく手を上げた。その後ろに、大柄な男と、小柄な女の子が続いている。
(……あ)
見覚えがあった。
数日前、西の岩場で見かけた、あのEランクの三人組だ。遠くの鎧蜥蜴を見つけていた青年と、大岩を軽々と放り投げていた男。
細身の青年は、ネルの腰の紅糸に目を留めると、ぱちぱちと瞬きをした。
「ん? 狐の獣人で、細い剣……もしかして、ギルドで噂になってた、鎧蜥蜴を三匹狩った狐の嬢ちゃんか!?」
「……噂になってるの?」
「なってるなってる! Eランクに上がったばっかの狐の嬢ちゃんが、三匹も仕留めたってな!」
青年が、目を丸くして身を乗り出してくる。
「俺たちなんか、三人がかりで二匹がやっとだったのに!」
「よろしく頼むぜ。北の街道は、狼が多いからな。人手は多いほうがいい」
大柄な男が、にかっと笑った。
「……よ、よろしく」
ネルが、少しだけ照れたように答えた。
ギルドのホールでは笑われてばかりだった『荷物持ちの狐』が、今は、仲間として声をかけられている。ネルの尻尾が、こっそりと揺れていた。
「よーし、全員そろったな! 出発するぞ!」
商隊長の声が、夜明け前の広場に響いた。
◇
荷馬車が、ゆっくりと動き出した。
北門をくぐる。
振り返ると、朝焼けに染まりはじめた王都の城壁が、少しずつ遠ざかっていくのが見えた。
ネルが、俺の隣で、黙って王都を見つめていた。
生まれ育った街。ばあちゃんの店がある街。笑われて、蔑まれて、それでも銅貨を一枚ずつ数えて生きてきた街。
「……ちゃんと帰ってくるからね」
ネルが、ぽつりと言った。
「温泉の感想、ミリアさんに話さなきゃだし。……それに、ばあちゃんの店も。いつか、堂々と買い戻すんだから」
「ああ」
それきり、ネルは前を向いた。
紅い糸の髪紐が、朝の風に、ふわりと揺れていた。
俺も、前を向いた。
村を出た日は、一人だった。
父さんのナイフを腰に下げて、熊を引きずって、汗だくで街道を歩いた。
王都では、ネルに出会った。
銅貨三枚で、壊れた荷袋を直してもらって。名前で呼ぶのはタダにしてもらって。半分こを覚えた。
シェイラに出会った。
焼き菓子を取り合って、付きまとわれて、取引をして。音のない巣の中で、一緒に戦った。
笑われながら。
隠しながら。
それでも、ここまで来た。
目立ちたくない。
でも、世界は見てみたい。
その矛盾を抱えたまま、俺たちは、次の街へ向かう。
北の空の、ずっと向こう。
湖都ミルヴェールの方角で、朝の雲が、白く光っていた。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
第三章「蜘蛛の女王と、無音の剣」は、これで完結です。
次回から、第四章。湖都ミルヴェールでの冒険が始まります。
ネル「温泉!」
リト「依頼だからな」
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