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紅糸の初陣


「いくぞ、ネル」


「いつでも」


石切り場の底で、俺は足元の小石を拾い上げた。

十歩ほど離れた岩の上に、ネルが立っている。右手には、ナイフではなく、細身の剣。前腕ほどの長さの刃の縁が、朝の光を受けて、うっすらと青白く光っていた。


紅糸。

ばあちゃんの裁ち鋏から生まれた、ネルの新しい剣だ。


俺は、小石を山なりに放った。


ネルは、一歩も動かなかった。

琥珀色の瞳が、宙を舞う小石を、ふわりと眺める。二つ数えるほどの、ほんのわずかな間。


――ぴっ。


紅糸が、横に走った。

小石が、ネルの目の前で二つに割れて、ころんと地面に落ちる。


「……届いた」


ネルが、ぽつりと呟いた。


「今の、ナイフだったら、もう一歩踏み込まないと届かなかった」


「間合いが、だいぶ伸びたな」


「うん」


ネルの尻尾が、ぱたっと揺れた。

それから、もう一度。さらにもう一度。俺が投げる小石を、ネルは次々と断っていった。少しずつ距離を空けても、紅糸の刃は、ちゃんと小石に届いた。


最後に、ネルは石切り場の隅に転がる、大人の背丈ほどもある岩の前に立った。

石切り職人が、硬すぎて割れずに放っておいた岩だ。


「試してみる」


ネルは紅糸を構えて、岩の表面をじっと見つめた。

止まっている相手なら、三つ数えれば見える。琥珀色の瞳が、すっと細められる。


一閃。


音は、ほとんどしなかった。

ネルが刃を下ろしてから、一拍遅れて、岩がゆっくりと二つに分かれていった。ずしん、と重い音を立てて、左右に倒れる。


「……すごいな」


俺は思わず、断面に手を触れた。

鏡のように滑らかだった。ナイフで小石を割ったときよりも、ずっときれいだ。まるで、最初から二つの岩だったみたいに。


「ナイフのときより、ずっときれいに切れてる」


「星鉄だもん」


ネルは、得意げに胸を張った。

けれど、その目は、手の中の紅糸をじっと見つめていた。柄の、ばあちゃんの手の形にすり減った木を、親指でそっと撫でている。


「……ばあちゃんの鋏、ちゃんと、生きてる」


尻尾が、ぶんぶんと揺れていた。



◇


その日の昼、ギルドの掲示板の前に立った。

鉄のプレートを胸に下げて、初めて見る、Eランクの欄だった。


「これにしよう」


ネルが、一枚の依頼書を指さした。


『西の岩場に棲む、鎧蜥蜴の駆除。報酬:一匹につき銀貨一枚』


鎧蜥蜴は、全身を硬い鱗に覆われた、大きな蜥蜴だ。体は大型の犬ほど。鱗が鎧みたいに硬いせいで、並の剣では弾かれてしまう。Fランクだった頃、荷物持ちとして同行したパーティが、苦戦していたのをネルは見たことがあるらしい。


「ナイフのときは、懐に飛び込まないと、鱗の継ぎ目に刃が届かなかったの。でも、紅糸なら」


ネルが、腰の剣に手を置いた。


「試してみたいの」


「よし。行こう」



◇


王都の西の岩場は、ごつごつとした灰色の岩が、どこまでも続く荒れ地だった。

岩と岩の間を、乾いた風が吹き抜けていく。


先客がいた。

三人組の、見慣れない冒険者パーティだ。胸元には、俺たちと同じ鉄のプレート。同じ依頼を受けたEランクらしい。


「おい、あっちだ。岩陰に二匹いる」


細身の青年が、遠くの岩場を指さしていた。俺の目には、灰色の岩しか見えない。


「マジか。俺には全然見えねぇぞ」


「【鷹の目】をなめるなよ。三百歩先の鳥の羽の数まで見えるんだからな」


青年は得意げに笑った。

その横で、大柄な男が、自分の背丈ほどもある岩を、ひょいと持ち上げていた。


「じゃあ、こいつで追い出すか。せぇのっ!」


男が、岩を放り投げた。

岩は放物線を描いて、遠くの岩陰に落ちる。ずしん、という音とともに、灰色の影が二つ、慌てて這い出してきた。


「おー、さすが【怪力】」


「へへっ、任せとけ」


三人組は、手際よく鎧蜥蜴を追い込んでいく。

スキルを、当たり前のように使いこなしている。どこにでもいる、一人前の冒険者の姿だった。


「……便利そうね、ああいうの」


ネルが、ぼそりと呟いた。


「【綻び】だって、便利だろ」


「わかってるわよ。……ただ、ああやって、みんなの前で堂々と使えるのは、ちょっと、いいなって思っただけ」


ネルは、ふいっと顔を背けた。

俺は、何も言えなかった。俺だって、同じだったから。


「行こう。向こうの岩場なら、誰もいない」



◇


三人組から離れて、岩場の奥へと進む。

大きな岩をいくつか回り込むと、そこはもう、人の気配のない静かな窪地だった。


「……いた」


ネルの狐耳が、ぴくりと動いた。

窪地の真ん中の、平たい岩の上。三匹の鎧蜥蜴が、日向ぼっこをするように寝そべっていた。灰色の鱗が、陽の光を鈍く跳ね返している。


「三匹か」


「あたしが、二匹。あんたは、転ばせて」


「了解」


ここなら、誰も見ていない。

俺は、指先に泡を作った。


鎧蜥蜴の一匹が、こちらに気づいて頭をもたげた。

シャアッ、と威嚇の声を上げて、三匹が一斉に、岩の上から飛びかかってくる。


――ぽん、ぽん、ぽん。


俺は、蜥蜴たちの足元に、泡を三つ放った。

地面に落ちた泡が、ぬるりと弾けて広がる。


滑り泡(スリップバブル)。


勢いよく駆けてきた鎧蜥蜴たちが、そろって足を取られた。短い脚がばたばたと宙をかいて、腹を見せて、ごろんとひっくり返る。


「今!」


ネルが、跳んだ。


紅糸が、青白い弧を描く。

一匹目。ひっくり返った蜥蜴の、鱗の継ぎ目を、刃がすっと通り抜ける。

二匹目。起き上がろうとした蜥蜴の首元を、一歩手前から、紅糸が捉える。


ナイフなら、懐まで飛び込まなければ届かなかった距離。

今は、紅糸が、ちゃんと届いていた。


三匹目が、どうにか体勢を立て直して、ネルの背中へ飛びかかった。


「ネル!」


ネルは、振り返らなかった。

ただ、紅糸を握る手首を返して、背中越しに刃を走らせた。


――ぴっ。


三匹目の鎧蜥蜴が、ネルの背中に届く前に、地面に落ちた。

硬い鱗ごと、きれいに断たれていた。


「……ふう」


ネルが、紅糸を下ろして、小さく息を吐いた。

三匹とも、もう動かない。あっという間だった。


「すごいな、それ」


「でしょ」


ネルは、紅糸を目の前に掲げた。青白く光る刃の縁を、じっと見つめる。


「振ったとき、刃が、勝手に綻びのほうへ吸い込まれていく感じがするの。……ばあちゃんが、手を添えてくれてるみたい」


尻尾が、ゆっくりと揺れていた。



◇


鎧蜥蜴の素材をまとめて、帰り道。俺たちは、ガンツ親方の鍛冶屋に立ち寄った。


「親方! 紅糸、すごいの! 岩も、鎧蜥蜴も、すっと切れたの!」


店に飛び込むなり、ネルが興奮して報告した。

親方は、槌を置いて、ふんと鼻を鳴らした。けれど、その口元は、少しだけゆるんでいた。


「当たり前だ。誰が打ったと思ってる」


それから、親方は作業台の引き出しを開けて、一通の手紙を取り出した。

封蝋で、しっかりと閉じられている。


「そういや、お前ら。北の湖都ミルヴェールに行くことは、あるか」


「ミルヴェール?」


「湖のほとりの、温泉の湧く街だ。儂の古い知り合いが、そこで細工屋をやってる。ボルグって名の、偏屈なドワーフの爺さんだ」


親方は、手紙をネルの前に置いた。


「星鉄のことなら、儂よりあいつのほうが詳しい。……もしいつか、紅糸の片割れを打ちたくなったら、こいつを持って訪ねろ」


「片割れ……?」


ネルが、手紙と紅糸を見比べた。



「紅糸は、一本で終わる剣じゃない。いつかもう一本あれば、二本で一揃いになる。……まあ、星鉄が手に入れば、の話だがな」


親方は、それ以上は言わずに、また槌を手に取った。

ネルは、手紙をそっと胸元の革袋にしまい込んだ。大事そうに、紅い糸の髪紐の隣に。



◇


ギルドに戻ると、受付のミリアさんが、ぱっと顔を上げた。


「リトさん、ネルさん! お帰りなさい!」


鎧蜥蜴の素材を渡すと、ミリアさんは目を丸くした。


「三匹も!? 鱗が硬くて、Eランクのみなさんは一匹でも苦戦するのに……」


「ネルの、新しい剣のおかげです」


「すごいです、ネルさん!」


ミリアさんに褒められて、ネルは「べ、別に」と言いながら、尻尾をぶんぶん振っていた。


報酬を受け取ったあと、ミリアさんが、少しだけ声を落とした。


「あの、お二人。ちょうどいいお話があるんです」


「話?」


「北の湖都ミルヴェールから、異変の報告が届いていて」


ミリアさんは、手元に紙も持たずに、すらすらと話し始めた。


「十日ほど前から、湖のほとりの温泉が、次々と冷たくなっているそうです。それと、湖の底から、これまで見たことのない魔物が上がってくるようになった、と。漁師の舟が、三艘ひっくり返されています。幸い、怪我人は軽傷が四名だけ」


「……ミリアさん、報告書、見ないで言えるんですか?」


俺が思わず聞くと、ミリアさんは、照れくさそうに笑った。


「あ、私、【記帳】のスキル持ちなんです。一度書いた記録は、全部覚えてるので」


なるほど。

受付の仕事には、これ以上ないくらいぴったりのスキルだ。


「それで、ミルヴェールへ向かう商隊の、護衛の募集が出てるんです。Eランクの方も受けられます。道中の魔物を追い払うくらいで、危険は少ないと思います」


ミリアさんは、そこで、にこりと笑った。


「お二人、受けてみませんか? ……ミルヴェール、温泉、ありますよ」


ネルの狐耳が、ぴんっと立った。


「……温泉」


「目的、そっちじゃないからな」


「わ、わかってるわよ!」


ネルが、真っ赤になって俺を睨んだ。

けれど、すぐにその目は、遠くを見るように宙をさまよった。


「……でも、温泉」


尻尾が、期待に満ちて、ゆらゆらと揺れている。


湖の異変。

親方の手紙。

そして、温泉。


俺は、小さく笑った。


「受けます。その依頼」


窓の外では、北へ向かう風が、王都の空を静かに渡っていた。



ネル「ミルヴェール、温泉、温泉、温泉……」

リト「依頼だからな。護衛だからな」

ネル「わかってるってば! ……リト、温泉卵って知ってる?」

リト「話、聞いてた?」


次回から、湖都ミルヴェールへの旅が始まります。

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