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ばあちゃんの裁ち鋏


祭りが終わって、数日が経った。


石切り場の底は、朝の光を受けて白く光っていた。崖の湧き水が池に落ちる、ちょろちょろという音だけが聞こえる。


俺は、指先に小さな泡を浮かべていた。

中には、【プチアクア】の水がひとしずく。そこへ【プチフロスト】の冷気を、少しずつ流し込んでいく。


(……もう少し、速く)


冷気を、ほんのわずかに強める。

その瞬間、泡の中の水が、ぱきん、と白く凍りついた。


「……また、か」


ただの氷の粒になった泡を、俺は溜息まじりに見下ろした。

急げば、凍る。慎重にやれば、三十かかる。その間のちょうどいいところが、どうしても掴めない。この数日、朝から晩まで試し続けて、二十八まで縮めるのがやっとだった。


(たった、二つか)


それでも、ゼロよりはましだ。そう思うことにした。


少し離れた岩の上では、ネルがナイフを手に、跳ねる小石を断っていた。

ぴっ、と刃が走るたびに、宙を舞う小石が二つに割れて落ちていく。目を酷使したあの夜から数日。ネルの目は、すっかり元に戻ったらしい。


けれど、ネルはふと手を止めて、自分のナイフをじっと見つめた。


「どうした?」


「ん……」


ネルは、ナイフを光にかざした。手のひらに収まるくらいの、短い刃。


「やっぱり、短いのよね、これ」


「短い?」


「女王のとき。綻びは見えてるのに、懐まで飛び込まないと届かなかった。あと少し長かったら、あんたもシェイラさんも、あんなに危ない目に遭わなくて済んだかもしれない」


ネルは、唇を小さく噛んだ。


「……新しいの、欲しいかも」



◇


その日の昼過ぎ、二人で下層区のガンツ親方の鍛冶屋を訪ねた。


かん、かん、と槌の音が響く薄暗い店の奥。炉の赤い火に照らされて、ずんぐりとしたドワーフの老人が鉄を打っていた。


「おう。狐の嬢ちゃんと、ナイフの坊主か」


親方は槌を置いて、汗を拭った。


「今日は何だ。布の覆いが擦り切れでもしたか」


「ううん。あたしの、ナイフのことで」


ネルは、腰のナイフを鞘ごと外して、作業台の上に置いた。


「これだと、短いの。もう少し長い刃が、欲しくて」


親方は、黙ってナイフを手に取った。鞘から抜いて、刃を炉の明かりにかざす。太い指で、刃の腹をゆっくりと撫でた。


「……こいつも、儂が打ったもんだ」


「え?」


「ばあさんに頼まれてな。孫娘の護身用に、ってよ」


ネルの狐耳が、ぴくりと動いた。


「剣なら、打ってやれる。鋼も、売ってやれる。普通の剣を一本打つくらい、わけはない」


親方は、そこで言葉を切って、ネルの顔をじっと見た。


「だがな、嬢ちゃん。お前は、力で叩き斬るんじゃないだろう。綻びの線に沿って、刃を通してる。……違うか」


ネルが、息を呑んだ。俺も、思わず親方の顔を見た。


「ば、ばあちゃんから、聞いたの?」


「聞かんでもわかる。お前がばらした毛皮を、何枚か見たことがある。傷ひとつない。あんな剥ぎ方ができるやつは、そうはおらん」


親方は、ナイフの刃をもう一度光にかざした。


「そういう使い方をするなら、ただの鋼じゃ合わん。同じ鋼で打つのが、一番いい」


「同じ、鋼?」


「こいつは、星鉄だ」


親方の声が、少しだけ低くなった。


「空から落ちてきた鉄だと、言い伝えのある鋼でな。硬くて、しなやかで、髪の毛一本でも、すっと断てる。……今じゃ、どこを探しても、まず手に入らん」


「そんなに、珍しいの?」


「ああ。昔、ばあさんが、どこからか鉱石を持ち込んできてな。どこで手に入れたのかは、とうとう言わなかった。その鉱石で、このナイフと、ほかにもいくつか打ってやったんだ」


ほかにも、いくつか。


その言葉に、ネルの動きが止まった。

琥珀色の瞳が、大きく見開かれる。


ネルは、背負っていた荷袋を下ろすと、そのいちばん奥に手を差し入れた。

取り出したのは、古びた布にくるまれた、細長いもの。


ネルが、震える指で布をほどいていく。

現れたのは、一本の大きな裁ち鋏だった。持ち手は使い込まれて黒ずみ、刃には細かな傷がいくつも走っている。それでも、刃の縁だけは、店の薄暗がりの中で、ほのかに青白く光っていた。


「……これ、も?」


ネルの声が、小さく震えていた。


親方は、しばらく黙って、その鋏を見つめていた。

それから、ごつごつとした手で、そっと鋏を受け取った。まるで、壊れものに触れるように。


「……ああ」


低い、かすれた声だった。


「そいつも、星鉄だ。儂が打った中で、一番いい出来の鋏だ」


親方は、鋏の刃を、指でゆっくりとなぞった。


「四十年近く、布だけを断ち続けてきた刃だ。……ばあさんは、店を手放すときも、これだけは売らなかったんだな」


「……売れるわけ、ないじゃない」


ネルが、ぽつりと言った。


「店を取られたときも、これだけは、あたしが持って出たの。ばあちゃんの、宝物だったから」



◇


親方は、鋏とナイフを作業台の上に並べた。


「全部を星鉄で打つには、足りん。だが、刃だけなら足りる」


太い指が、二つの刃を指す。


「刃には、ばあさんの鋏とナイフの星鉄を使う。体には、儂の鋼を合わせて打つ。ナイフより長く、普通の剣よりは短い。お前の前腕くらいの長さの、細身の剣になる」


ネルが、ごくりと唾を飲んだ。


「ただし」


親方は、ネルの目をまっすぐに見た。


「打ち直せば、こいつはもう鋏じゃなくなる。二度と、布は切れん」


ネルの手が、ぎゅっと握りしめられた。

狐耳が、ゆっくりと伏せられていく。


俺は、何も言えなかった。

これは、ネルが決めることだ。


ネルは、作業台の上の鋏を、じっと見つめていた。


しゃき、しゃき、と。

ネルの耳には、きっと、あの音が聞こえているのだろう。小さな仕立て屋の店の奥で、ばあちゃんが布を裁つ音。丸まった背中。皺だらけの手。その手の中で、静かに動く、この鋏。


「……ばあちゃんね」


ネルが、ぽつりと言った。


「この鋏で布を裁ちながら、いつも言ってたの。綻びは、見つけたらすぐに繕いな、って」


「ああ」


親方が、短く応えた。


「儂も、何度も聞かされた」


それから、親方は鋏を見下ろしたまま、低く言った。


「だがな、嬢ちゃん。繕うには、まず断たなきゃならん」


ネルが、顔を上げた。


「ほつれた布を繕うときも、まず傷んだところを断つ。断って、それから繕う。ばあさんは、その鋏で、何十年もそうしてきた」


親方の声は、静かだった。


「お前も、そうやって生きていくんだろう。断つべきものを断って、守りたいものを繕う。……そのための刃なら、ばあさんも文句は言わんさ」


ネルは、しばらく何も言わなかった。

やがて、ゆっくりと手を伸ばして、鋏の持ち手にそっと触れた。黒ずんだ持ち手は、ばあちゃんの手の形に、少しだけすり減っていた。


「……形が、変わっても」


ネルの声は、もう震えていなかった。


「ばあちゃんの宝物なのは、変わらないもん」


狐耳が、ぴんと立った。


「お願い、親方。打って」


親方は、にやりと口の端を持ち上げた。


「おう。任せとけ」



◇


ネルは、懐から布袋を取り出して、作業台の上に置いた。

中身は、毎朝指を折って数えていた、なけなしの銀貨だった。


「これで、足りる?」


親方は、布袋の口を開けて、中を覗き込んだ。それから、銀貨を三枚だけつまみ上げて、残りを袋ごとネルのほうへ押し返した。


「材料は持ち込みだ。手間賃だけでいい」


「で、でも、それじゃ――」


「いいんだ」


親方は、ぶっきらぼうに手を振った。


「ばあさんには、さんざん世話になったからな。……ほら、しまえ。銅貨一枚だって、無駄にできんのだろう」


ネルの目が、まんまるに見開かれた。

それは、ネルの口癖だった。そして、たぶん、ばあちゃんの口癖でもあったのだ。


ネルは何か言い返そうとして、言葉に詰まった。それから、深く、深く頭を下げた。


「……ありがとう、ございます」



◇


その夜、親方は炉に火を入れた。


ふいごが鳴るたびに、炉の火が赤から橙へ、橙から白へと色を変えていく。その真ん中で、ばあちゃんの鋏とナイフが、真っ赤に焼けていた。


かん。


最初の一打ちが、狭い鍛冶場に響いた。


かん、かん、かん。

親方の槌が振り下ろされるたびに、火花が散る。真っ赤な鋼の塊が、少しずつ、少しずつ形を変えていく。鋏の形が崩れ、ナイフの形が崩れ、二つの星鉄が一つに溶け合っていく。


俺とネルは、鍛冶場の隅に並んで座って、それを黙って見守っていた。


ネルは、一度も目を逸らさなかった。

火花が散るたびに、琥珀色の瞳が赤く照らされる。膝の上で握りしめた両手が、ときどき小さく震えていた。


俺は、何も言わなかった。

ただ、ネルの隣に座っていた。


夜が更けても、槌の音は止まなかった。


やがて、親方が槌を置いた。額の汗を拭いながら、こちらを振り返る。


「今日は、ここまでだ。仕上げには、まだかかる」


親方は、炉の火を見つめたまま言った。


「三日後に、来い」




◇◆◇



三日後の朝。


鍛冶屋の扉を開けると、親方が作業台の前で、腕を組んで待っていた。

台の上には、細長い何かが、白い布にくるまれて置かれている。


「来たか」


親方は、何も言わずに布の端をつまんだ。


「見てみろ」


布が、ゆっくりとほどかれていく。


現れたのは、一本の剣だった。


前腕ほどの長さの、細身の刃。ほんのわずかに、ゆるやかな反りがある。かつての鋏の刃の名残だった。

刃の縁は、星鉄でできていた。窓から差し込む朝の光を受けて、うっすらと青白く光っている。まるで、夜空の星をひとすじ、刃の上に流したようだった。

柄には、黒ずんだ木がはめ込まれていた。ネルが、はっとして、それを指さす。


「これ……」


「鋏の持ち手を、削って使った」


親方が、ぶっきらぼうに言った。


「ばあさんの手が、毎日握ってたところだ。捨てるには、惜しくてな」


ネルは、震える手で、剣の柄を握った。

ばあちゃんの手の形にすり減った木が、ネルの手のひらに、すっと吸いつくように収まった。


「……軽い」


ネルが、小さく呟いた。

それから、剣を目の前に掲げて、刃の縁をじっと見つめる。琥珀色の瞳が、青白い光を映していた。


「手に、なじむ。……ずっと前から、持ってたみたい」


「当たり前だ」


親方が、鼻を鳴らした。


「お前の手の大きさも、振り方も、ばあさんから散々聞かされてたからな」


ネルの肩が、ぴくりと震えた。

狐耳が、ゆっくりと伏せられていく。俯いたネルの顔は、赤茶の前髪に隠れて見えなかった。

俺は、何も言わずに、ネルの隣に立っていた。


しばらくして、親方が、ぽつりと言った。


「名前を、つけてやれ」


ネルが、顔を上げた。


「剣には、名前がいる。お前が呼んでやらなきゃ、ただの鉄のままだ」


ネルは、しばらく黙って剣を見つめていた。

それから、空いているほうの手で、そっと自分の髪に触れた。後ろでひとつにまとめた赤茶の髪。それを結んでいる、紅い糸の髪紐。


ばあちゃんの鋏が、何十年も断ち続けてきた、糸。

綻びを見る目に、見えている、糸。

そして、祭りの夜、花火の光の中で、きらりと光った紅い糸。


「……紅糸」


ネルが、小さな声で言った。


「紅糸。……この子の名前は、紅糸」


親方が、満足そうに頷いた。


「いい名だ」


窓から差し込む朝の光の中で、紅糸の刃の縁が、星のように、青白く光っていた。




ネル「……ばあちゃんの鋏、紅糸になっちゃった」

リト「後悔してるか?」

ネル「するわけないでしょ。ばあちゃん、きっと『やっと使ってくれたね』って笑ってるわよ」

リト「そっか」

ネル「……それより、紅糸の切れ味、試したいんだけど」

リト「なんで俺を見ながら言うんだよ」

ネル「冗談よ。……たぶん」


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

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