初めての稽古と小さな灯り
それから、五年。
俺は毎日欠かさず、泡をいじり続けた。
膜の厚みを、髪の毛一本ぶん薄くする。硬さを、指先の感覚ひとつで変える。浮かべておける数を、十から五十へ、五十から百へ。
誰に見せるわけでもない、地味で、終わりの見えない鍛錬。
そして、十歳を迎えた日。
俺の日常に、ひとつの大きな変化が訪れた。
「よしっ! 今日からリトにも身体を鍛えてもらうぞ! 男なら、自分の身くらい自分で守れなきゃな!」
庭先で、父さんが嬉しそうに木剣を突き出してきた。
朝の狩りから戻ったばかりなのか、日焼けした首筋に、まだ汗が光っている。
(……剣、かぁ)
正直に言えば、あまり気が進まなかった。
S級を目指すなら、身体を鍛えておいて損はない。それはわかっている。
でも、この世界には、化け物みたいな剣士がゴロゴロいるらしい。
前世でデスクワーク漬けだった俺が、今さら剣で一番になれるとは、到底思えなかった。
それに――剣を振っている間は、泡の鍛錬ができない。
(……まあ、断れる空気じゃないよな)
「ほら、まずは構えてみろ」
「……こう?」
溜息を噛み殺し、渡された木剣を渋々構える。
重い。手のひらに、ずしりと木の重みが沈む。
早く終わらないかな、と、適当に体重を乗せたのだが――。
「お……?」
父さんの目が、わずかに丸くなった。
「なんだ、案外サマになってるじゃないか。重心がブレてない。おいサラ、見たか今の一歩! 筋が良いぞ!」
「ふふ、さすがリトね」
軒下の椅子に腰かけた母さんが、穏やかに微笑んでいる。
(……泡の鍛錬のせい、かな)
五年間、指先ひとつに意識を集め続けてきた。
そのせいか、身体のどこに力が入っていて、どこが抜けているのか、なんとなくわかってしまう。
本人はやる気など微塵もないのに、教えられた動きに、身体のほうが素直についていってしまうのだ。
最強の天才……とまでは到底いかない。
けれど、地道に続ければ『そこそこ腕の立つ剣士』くらいにはなってしまいそうな、妙に質の良い器用さがあった。
「よし、次はこれを受けてみろ!」
「へっ――」
父さんが、木剣を軽く振るった。
その、瞬間。
――ぞくっ、と背筋を冷たいものが駆け抜けた。
風を切る音すら、しなかった。
冗談めかした笑顔の奥で、父さんの瞳が一瞬だけ、獲物を捉えた巨大な肉食獣のように鋭く光った気がした。
(……な、なんだ今の……!?)
反射的に身体を捻り、木剣でなんとか受け止める。
ガンッ、と重い衝撃が腕を駆け上がり、手のひらがじんと痺れた。
木剣を取り落としそうになりながら、顔を上げる。
父さんはもう、いつもの人懐っこい顔で、「おお、止めたか! えらいぞ!」と笑っていた。
(……今のが、ただの狩人の剣?)
ふと、五歳の夜を思い出す。
『S級冒険者に会ったこと、ある?』
そう聞いたとき、髪を拭く手を止めた父さんの、あの一瞬の間。
(父さんって、本当は……)
冷や汗を拭いながら、俺はその考えを、最後まで形にできなかった。
◇
午後からは、母さんによる『基礎魔術』の指導に切り替わった。
剣術でヘトヘトになった俺は、居間のテーブルに突っ伏したまま、母さんが並べていく小さな石を眺めていた。
赤、青、白、緑、茶、黄、そして透明なものと、黒いもの。八つの魔石だ。
「魔法っていうのはね、体内の魔力を、属性に合わせて変換する技術なの。まずは、リトがどの属性に向いているか、ひとつずつ確かめてみましょうか」
「……どうやって?」
「こうやって」
母さんは、赤い魔石の上に、そっと指先を添えた。
そして、ほとんど息を吐くのと変わらない声で、呟く。
「【プチフレイム】」
――ふわり。
母さんの指先に、拳ほどの火の玉が浮かんだ。
揺らがない。
風が吹き込んでも、火の粉ひとつ散らさない。
橙色の完璧な球が、まるでガラス細工のように、空中に静止していた。
(……え)
ただの、初歩の魔法だ。
村の子供だって使える、一番簡単な火の魔法のはずだ。
なのに、目が離せなかった。
魔力が指先に集まってから火に変わるまでの流れに、ほんのわずかな淀みもない。
五年間、泡の膜ばかり見つめてきた俺には、わかってしまう。
これは、とんでもなく、精密だ。
「適性のある属性の石に魔力を込めると、こうやって石が光るの。さあ、リトもやってみて」
母さんは、何でもないように火を消した。
俺は、ごくりと唾を飲み込んでから、一つひとつの魔石に指を置き、魔力を流し込んでいった。
火、水、氷、風、土、雷、光、闇――。
「……あら?」
母さんが、少し驚いたように目を丸くした。
「火と、水と、氷……。光り方は少し弱いけれど――リト、あなた『トリプル適性』だわ」
この世界において、魔法の適性は原則として一つ――『シングル』だ。
二つの『ダブル』ですら稀で、三つの『トリプル』となれば、国じゅうを探しても片手で数えるほどしかいない。
……と、ここまでは凄そうな話なのだが。
問題は、その『出力』だった。
「【プチフレイム】」
――ぽっ。
俺の指先に灯ったのは、息を吹きかければ一瞬で消えてしまいそうな、本当に小さな種火だった。
母さんの火球の、何十分の一だろう。
続けて試した【プチアクア】は指先を湿らせる程度。【プチフロスト】に至っては、爪の先にうっすら霜が降りただけだった。
(……小さすぎるだろ)
普通の人が使うプチ魔法なら、最初から拳ほど、慣れてくれば頭ほどの大きさの火球や水球を生み出せるという。
対して俺のは、指先でちょろちょろと灯るだけ。同じプチ魔法と呼ぶのもおこがましいくらい、威力がなさすぎた。
トリプル適性という希少性こそあれど、この程度では、戦いには到底使えない。
周りから見れば、『珍しいだけのハズレ』『ただの器用貧乏』。そんな評価に落ち着くのが関の山だろう。
「ふふ、でも、使える属性が多いのは素敵なことよ。暮らしの中でも、きっと色々と役に立つわ」
母さんは優しく微笑んで、俺の頭を撫でてくれた。
俺は「あはは……」と苦笑いを返したが、胸の中では、至って前向きだった。
(まあ、今はこんなにショボくても……泡だって、五年いじり続けたら、ここまで来たんだ)
せっかく手に入れた魔法だ。
これからは泡だけじゃなく、この初歩魔法の鍛錬も、日課に組み込んでいこう。
◇
その夜。
自室の机に向かって、俺は昼間の復習をしていた。
指先に、ぽっ、と小さな種火を灯す。
相変わらず、頼りない火だ。
机の上には、さっきまでの泡の鍛錬で浮かべたままの、小さな泡がひとつ、ゆらゆらと漂っている。
(……火も、泡くらい思い通りになればいいのにな)
ぼんやりと、そんなことを考えた。
ランプを消した暗い部屋の中で。
指先の小さな種火と、宙に浮かぶ小さな泡が、並んで揺れていた。




