未開の地と、泡の境界
五歳になった年の、ある夜のことだ。
「――雲を突き抜けるほど大きな木々が、どこまでも続く森。その上には、空に浮かぶ島々。島と島の間を、山ほどもある巨きな獣が、ゆっくりと泳ぐように渡っていく――」
ランプの灯りの下で、母さんが古い本を読んでくれていた。
俺の家は、アトリアス王国の最南端にある『コルー村』の、一番外れ。森と山に囲まれた、小さな開拓村だ。
夜になれば、聞こえるのは虫の声と、遠くの獣の遠吠えくらい。
だからこそ、母さんが読んでくれる本の中の世界は、いつも眩しかった。
「……それ、本当にあるの?」
布団から顔だけ出して尋ねると、母さんは小さく笑った。
「あるかもしれないし、ないかもしれない。これはね、『未開の地』のお話なの」
「みかいのち?」
「そう。この世界にはね、まだ誰も足を踏み入れたことのない、とても広い場所があるの。見たこともない森や、空に浮かぶ島や、誰も名前を知らない生き物がいるんですって」
母さんが、本のページをめくる。
色褪せた挿絵の中で、雲を穿つ巨木が、空へ向かって伸びていた。
「でも、とても危ない場所だから、誰でも行けるわけじゃないの。国が許しているのは、冒険者の中でも一番上――『S級冒険者』だけ」
「S級……」
その響きを、口の中で転がしてみる。
前世の俺は、三十年を、ただ無難に消化して終わった。
冷たい部屋と、終電と、天井の染み。その繰り返し。
世界の果てなんて、画面の向こうにしかなかった。
でも、この世界には――本当に、あるのかもしれない。
誰も見たことのない景色が。
「S級になったら、ここに行けるの?」
「ええ。S級になれば、ね」
「じゃあ、なる」
気づけば、口からそう出ていた。
母さんが、少しだけ目を丸くする。
「S級冒険者になって、未開の地に行く。見たことないもの、全部見る」
「……ふふ。大きな夢ね」
母さんは、俺の額にかかった前髪を、そっと指で払ってくれた。
そのとき、寝室の戸口から、のっそりと大きな影が顔を出した。
「おう、まだ起きてたのか、リト」
「父さん!」
風呂上がりらしい父さんが、髪を乱暴に拭きながら、ベッドの縁にどかりと腰を下ろす。
俺は、布団から身を乗り出した。
「ねえ、父さん。父さんは、S級冒険者に会ったこと、ある?」
ほんの一瞬。
父さんの、髪を拭く手が止まった。
母さんが、本を閉じる。
二人の視線が、ちらりと交わった――ような気がした。
「……さあな!」
次の瞬間には、父さんはいつもの調子で、豪快に笑っていた。
「ははっ! 父さんはただの狩人だからな。S級なんてお偉いさんとは、縁がねぇよ」
「そっかぁ……」
「ほら、リト。もう寝る時間よ」
母さんが、布団を肩まで引き上げてくれる。
父さんの大きな手が、頭をぐしゃぐしゃと撫でていった。
ランプの灯りが、ふっと落とされる。
(……今の、間は何だったんだろ)
少しだけ引っかかった。
けれど、瞼はもう重たくて、その疑問は、眠気の底へとゆっくり沈んでいった。
◇
S級冒険者になる。
そう決めたからといって、五歳の子供にできることは多くない。
剣を振るには身体が小さすぎるし、魔法の適性を調べるのは、もっと大きくなってからだと言われている。
だから俺にできるのは、ひとつだけだった。
「……ぬうっ」
昼下がりの自室。
床に座り込んで、俺は右手の人差し指を、じっと見つめていた。
一歳の鑑定で告げられたユニークスキル、【泡生成】。
あの夜、初めて泡を出してから、俺は毎日欠かさず、この力をいじくり回してきた。
この世界の魔法使いは、とにかく魔力の量と威力にこだわるらしい。
火を大きく燃やし、水を大量にぶつける。基本は、力押しだ。
でも、泡しか出せない俺に、押すような力はない。
だったら、考え方を変えるしかなかった。
(前世の泡は、水と石鹸の膜だった。でも、このスキルの泡は違う。魔力そのものを、薄い膜にして固めてる)
ぽん、と指先から泡がひとつ生まれる。
(だったら、いじれるのは魔力の密度と、膜の張り具合と、それから厚みだ)
前世で、暇つぶしに眺めていたショート動画。
シャボン玉の膜の厚さで色が変わるとか、表面張力がどうとか。あのときは聞き流していた雑学が、今になって、妙に役に立つ。
俺は体内の魔力を、細い針のように研ぎ澄ませていった。
息を吹きかけただけで破れる、薄い薄い膜。
逆に、内側からぎゅっと押し広げて、指で突いても弾むほど、ぴんと張った膜。
米粒ほどの泡を、いくつも、いくつも。
割らずに、空中にそっと止めておく。
周りから見れば、五歳の子供がシャボン玉で遊んでいるだけだろう。
実際、父さんが部屋を覗いたときも、「お、リトは泡が好きだなぁ!」と目尻を下げただけだった。
でも、俺は遊んでいるつもりはなかった。
(ただの泡だ。破れやすくて、軽くて、何もできない)
それは、わかってる。
(――だけど、『境界』を作る能力だと考えたら、どうだ?)
泡の膜は、内と外を分ける壁だ。
中に何かを閉じ込めることもできるし、外から何かを遮ることもできる。
壁の厚さも、硬さも、大きさも、全部、俺の思い通りに決められる。
そう考えたら――このハズレスキルにだって、まだ誰も知らない使い道があるんじゃないか。
ぽん、ぽん、ぽん。
指先から、米粒ほどの泡が、次々と生まれていく。
十個。二十個。三十個。
それぞれに、違う厚みを持たせて。違う硬さを持たせて。
窓から差し込む午後の日差しが、静止した泡の群れを透かして、床の上に小さな虹をいくつも散らした。
まるで、部屋の中に、星を浮かべたみたいだった。
(……よし)
五歳の、夏の終わり。
目をつぶっていても、思った通りの泡を、思った通りの場所に浮かべられるようになった日。
俺は、ランプの下で見た、あの挿絵を思い出していた。
雲を穿つ巨木。空に浮かぶ島々。まだ誰も見たことのない世界。
(待ってろよ、未開の地)
指先で、一番小さな泡を、ちょんと突く。
ぴんと張った膜は、破れることなく、ぽよん、と弾んだ。




