泡を出すだけのハズレスキル
赤ん坊の身体というのは、驚くほどに不自由だった。
頭は重く、視界は油絵のようにぼやけ、自分の腕ひとつ思い通りに持ち上がらない。
三十年を生きたはずの意識だけが、小さく無力な肉体の檻に、ぽつんと置き去りにされている。
それでも一年も経てば、少しずつ、この世界のことがわかってくる。
俺の名前は、リト。
そして――。
「ほらほらー、リト! こっちだぞー! たっちしてみろー!」
床の上で両手を広げ、日焼けした顔をくしゃくしゃにして叫んでいるのが、父さんのオーウェル。
短く刈った茶髪に、大雑把で人懐っこい笑顔。服の上からでもわかる、無駄のない分厚い身体。
近くの森で獲物を狩って暮らしている、この村の狩人だ。
……のはずなのだが、今は床に這いつくばって、息子相手に「たっち! たっち!」と連呼している、ただの親バカでしかない。
「ちょっと、あなた。まだ骨も柔らかい時期なんですから、あんまり無理をさせないでちょうだい」
呆れたような、それでいて笑いを堪えきれない声で注意するのが、母さんのサラ。
艶やかな黒髪を後ろで緩く結んだ、落ち着いた物腰の美しい人だ。村では怪我の手当てや薬の調合で頼りにされていて、その手つきには、いつも一切の淀みがない。
俺の黒髪と、丸みのある目元は、完全にこの母さん譲りだった。
「……あー、ば」
俺は両手と膝で、ペタペタと床を這った。
ようやく父さんの太い脚にたどり着き、しがみつく。
「おおおっ! 触った! 俺の足に触ったぞサラ!」
太い腕が、俺の身体を軽々と宙へ持ち上げた。
「ははっ! えらいぞリト! さすが俺とサラの子だ!」
「もう……大げさなんですから」
母さんが目を細めて、俺の頬を指の背でそっと撫でる。
くすぐったくて、身をよじる。父さんが、また笑う。
前世の俺は、まだ若いうちに、両親を事故で亡くしている。
誰かに抱き上げられる感触も、名前を呼ばれて振り向く相手がいることも、とうの昔に忘れていた。
だから、この二人が当たり前のようにくれるものが――ときどき、胸の奥が軋むほど、眩しかった。
そんな我が家に、ちょっとした行事がやってきたのは、俺が一歳の誕生日を迎えてすぐのことだった。
◇
「……ふむ。鑑定結果が出ましたよ」
街から出張でやってきた鑑定士の男が、羊皮紙に浮かび上がった文字を見つめて、首をひねった。
この世界では、満一歳を迎えた子供に『スキル鑑定』を行う風習がある。
生涯でどんな才能を授かったのかを確かめる、人生最初の節目だ。
母さんの腕に抱かれたまま、俺は息を詰めて、鑑定士の口元を見つめていた。
(剣か、魔法か。……前世の記憶持ちなんだ。少しくらい、期待したっていいよな)
「……【泡生成】、ですか。長く鑑定士をやっておりますが、見たことも聞いたこともないスキルですね。ユニークスキルで間違いないでしょう」
ユニークスキル。
その響きに、胸が一瞬だけ跳ねる。
だが、鑑定士は言葉を切ると、気まずそうに俺の顔へ視線を落とした。
「ですが……おそらくは文字通り、泡を生み出すだけの能力かと。不躾ながら、少々残念な結果と言わざるを得ません」
痛々しいものでも見るような目だった。
(……泡?)
泡。
風呂場の、石鹸の、あの泡。
異世界に生まれ変わって、授かった力が――泡を、出すだけ。
(……いや、ハズレじゃん)
剣でも魔法でもない。戦えるはずもない。
周りの期待からすれば、大外れもいいところだ。
部屋の空気が、しん、と静まり返る。
だが。
俺の頭の上に落ちてきたのは、失望の溜息ではなかった。
「ははっ! 残念も何もあるかよ! 見たことも聞いたこともないスキル、面白いじゃねぇか!」
父さんが、腹の底から笑い飛ばした。
大きな手が伸びてきて、俺の頭をわしわしと撫で回す。
「そうね。スキルが何であろうと、リトはリトだもの。無理に危ない真似なんてしなくていいわ。なりたいものになって、やりたいことをすればいい。元気に育ってくれれば、それだけでいいのよ」
母さんが、俺を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
鑑定士が、ぽかんと口を開けている。
期待外れだと悔しがることもない。失望して、冷たい目を向けることもない。
二人は本当に、心の底から、どうでもいいと思っているのだ。
俺が、何を授かったかなんて。
気づけば、俺は母さんの服の胸元を、小さな両手で、ぎゅっと握りしめていた。
喉の奥から、勝手に声が漏れる。
ふぇ、と情けない泣き声になって、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「あらあら、どうしたの。びっくりしちゃった?」
母さんが、慌てて俺を揺する。
違う。
泣いているのは、赤ん坊だからじゃない。
それを伝える言葉を、今の俺は、まだ持っていなかった。
(スキルなんて、なんだっていい。この家と、二人の笑った顔を守れるくらい――強くなってやる)
◇
その夜。
ベビーベッドの中で一人になった俺は、昼間の鑑定士の言葉を思い出しながら、そっと指先に意識を向けてみた。
ぬるり、とした感覚。
身体の奥にある何かが、血の流れに乗って、指先へと集まっていく。
――ぽんっ。
拍子抜けするほど、可愛らしい音。
指先から生まれたのは、七色に光る、小さな泡だった。
かすかな空気の流れに揺られて、ゆらゆらと部屋を漂い――パチン、と呆気なく弾けて消える。
ほんの数秒。
文字通り、ただのシャボン玉だ。
(……これが、俺のスキル)
それでも、前世では決してありえなかった『魔法』を、初めてこの身で感じた瞬間だった。
俺はしばらく、泡が消えた暗がりを、じっと見つめていた。
破れやすくて、軽くて、何の役にも立たない、小さな泡。
十四年後、それが巨大な熊の喉の奥で弾けることになるなんて――この時の俺は、まだ知る由もなかった。




