プロローグ
泡の中に、水滴をひとつ。
種火をひとつ。
指先に浮かんだそれは、目を凝らさなければ見えないほど小さな、透明なシャボン玉だった。
子供が遊びで飛ばすのと、何も変わらない。
――目の前に、立ち上がれば大人の倍はあろうかという、熊の魔物がいなければ。
「グオォォォンッ!!」
人気のない街道に、咆哮が響き渡る。
真っ赤に血走った目。剥き出しになった、太く鋭い牙。丸太のような前足が振りかぶられ、獣臭い風が頬を叩いた。
足がすくんでもおかしくない距離だった。
けれど、俺の心臓は、驚くほど静かに脈を打っていた。
(膜の厚みは――すれ違ってから、一拍)
一歩、踏み込む。
巨体が迫る。
大きく開かれた顎の奥へ、指先の泡を、ぽん、と弾いた。
熊が、俺の脇をすり抜けていく。
一。
――ボォンッ!!
くぐもった炸裂音が、熊の体内で弾けた。
勢いのまま背後へ抜けた巨体の、口と耳から、白い蒸気が噴き上がる。
熊は一度も振り返ることなく、地面へどうっと突っ伏して――それきり、二度と動かなかった。
街道に、静けさが戻る。
鳥の声が、遠くで聞こえた。
「……よし」
指先に残った湿り気を、軽く振って払う。
誰にも見られていない。
それを確かめてから、俺はようやく、肺の奥から息を吐き出した。
【泡生成】。
ただ泡を出すだけの、ハズレスキル。
――そう告げられたのは、十四年前のことだ。
そして、そのさらに少し前。
俺は、まったく別の世界で、三十年の人生を終えている。
◇
泥のように重い眠りだった。
連日の残業、溜まりに溜まった書類、終電の匂い。
特にこれといった取り柄もなく、強いて言えば人より少し綺麗好きなくらいの、どこにでもいる三十歳。
彼女もいないし、劇的なドラマもない。仕事にはそれなりのやり甲斐があって、不満ばかりの人生でもなかった。
ただ――その夜、狭いアパートのベッドに潜り込んだとき、ふと天井を見上げて思ったのだ。
(俺の人生、このまま終わっていくのかなぁ……)
そんな取り留めのない思考を最後に、意識を手放すように眠りに落ちた。
それが、前世の俺の、最後の記憶になった。
「―――、―――――?」
耳に届いたのは、聞き覚えのない言葉だった。
低く、くぐもって響く、見知らぬ言語。
まぶたが、恐ろしく重い。身体も、頭も、指先ひとつまともに動かない。
全身を包み込む、ぬるくて湿った妙な空気。
「―――! ―――――!」
擦りガラス越しのような、ぼやけた視界。
その中に、ぬっと二つの影が差し込んできた。
男と、女だ。
男の方は、濃い日焼けと頑丈そうな顎が印象的な、いかつい顔立ち。
女の方は、艶やかな黒髪を後ろで緩く結んだ、吸い込まれそうな優しい目元の人だった。
(誰だ……? 病院……?)
男が、豪快に目元を崩して笑った。
大きな手が伸びてきて、俺の身体を、ひょいと持ち上げる。
――軽い。
信じられないほど、自分の身体が軽い。
視線を落とすと、そこにあったのは、シワシワで小さく、赤らんだ――『赤ん坊の手』だった。
(……は?)
声を出そうとした口から漏れたのは、情けなく引きつった泣き声だけだった。
「おぎゃあ……っ」
女が、愛おしそうに俺を抱き寄せ、頬をすり寄せてくる。
とくん、とくん、と。
押し当てられた胸の奥から、自分のものではない心臓の音が伝わってきた。
嗅いだこともない、木と、干し草と、乳の匂い。
夢じゃない。
(俺……生まれ変わった、のか……?)
平坦な三十年が終わり、唐突に突きつけられた、二度目の生。
新しい両親の腕の中で、俺はただ呆然と、見知らぬ木の天井を見上げていた。
テンプレを書きたくて。書きたくて。




