↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/100

無音の約束


石切り場の裏道を抜けて王都の東門をくぐった頃には、もう昼を過ぎていた。


足が重い。一歩踏み出すたびに、膝が笑う。

頭の芯にはまだ鈍い痛みが残っていて、視界の端がときどきぐらりと揺れた。隣を歩くネルも同じで、目元を何度もこすりながら、ふらふらと俺の外套の裾を掴んで歩いている。


「……リト」


「……ん」


「……あたし、今、立ったまま寝られる気がする」


「……俺も」


それきり、二人とも何も喋らなかった。喋る気力すら、残っていなかった。


眠り羊亭の扉を押し開けると、厨房から女将さんがひょいと顔を出した。そして、俺たちの姿を見るなり目を丸くした。


「ちょっと、あんたたち! どこほっつき歩いてたんだい、そんな泥だらけで!」


無理もなかった。外套も靴も、髪の毛まで、泥と糸のかけらと、何だかよくわからない汚れでひどい有様だった。


「……ちょっと、薬草を、探しに」


「薬草を探して、なんでそんなことになるんだい!」


「転びました。二人で」


「転んだわ。二人で」


女将さんはしばらく呆れたように俺たちを見比べていたが、やがて大きな溜息をついて、厨房へ引っ込んでいった。戻ってきたときには、その手に湯気の立つ大きな椀が二つ乗っていた。


「ほら。食べてから寝な。顔が死んでるよ」


何も聞かずに、麦粥を押しつけてくれる。俺たちはその場で椀を空にして、それぞれの部屋に倒れ込んだ。


硬いベッドに顔を埋めた瞬間、意識がふっと途切れた。




◇◆◇



目が覚めたのは、翌朝だった。


ほとんど丸一日、眠っていたらしい。体はまだあちこちが軋んでいたけれど、頭の痛みはだいぶ引いていた。


「……リト。起きてる?」


扉の向こうから、ネルの声がした。いつもの遠慮のない叩き方じゃない、控えめな小さな声だった。


「起きてる」


「ギルド、行く?」


「行くか。いつも通りに」


いつも通りに。それが一番大事だった。

昨日、俺たちはどこにもいなかった。ただ薬草を探しに行って、転んで、泥だらけで帰ってきて、寝ていただけ。今日はいつものように、ギルドへ依頼を探しに行く。それだけだ。



◇


ギルド本部のホールは、朝から異様なほど沸き立っていた。


「聞いたか!? アラクネ・クイーンが、討たれたってよ!」


「やったのは、『無音』のシェイラだ! S級の!」


「森の奥から、捕まってた『鋼の誓い』の四人を、全員連れて戻ってきたんだと! 一人も欠けずに!」


あちこちで歓声と乾杯の声が上がっていて、朝だというのに酒の杯を掲げている者までいる。王都のすぐそばに巣を張っていたAランクの化け物が討たれたのだから、冒険者たちが浮かれるのも無理はなかった。


「しかしよ、シェイラは『手を借りてある』って言ってたんだろ?」


「ああ。どこの誰かは、結局、言わなかったらしい」


「どこかの街の凄腕だろ。A級か、それ以上の。……一度でいいから、顔を拝んでみてぇもんだな」


「謎の協力者、か。かっけぇなあ」


俺とネルは、その噂話の横を黙って通り過ぎた。掲示板の前に立って、Fランクの欄の依頼書をいつものように眺める。

ネルの狐耳は、噂話のほうへぴくぴくと向いていた。尻尾は――膨らまないように、ネルが後ろ手にぎゅっと押さえ込んでいた。


(……練習の成果、出てるな)


心の中で、少しだけ笑った。


「おおっ! 来たぞ、剣聖様だ!」


ホールの入口が、ひときわ大きく沸いた。

白銀の鎧に、陽の光を集めたような金髪。レオンハルトがホールに入ってきたところだった。その鎧にはいくつもの傷が刻まれていて、腕には包帯も巻かれている。


「森の外で、毒牙蜘蛛の群れを食い止めたんだってな!」


「何匹斬ったんだ!? 十か!? 二十か!?」


「『銀の猟犬』の弓使いを、助けたって聞いたぞ!」


冒険者たちがレオンハルトを取り囲んで、口々に褒めそやしている。その輪の中に、受付からミリアさんが歩み出てきた。手には、新しい冒険者証が乗った小さな盆。


「レオンハルト・フォン・ヴァイスベルクさん。先日の討伐での働きにより――本日付で、Dランクに昇格となります」


わあっ、と、ホールが割れんばかりの拍手に包まれた。

レオンハルトは新しいプレートを受け取りながら、軽く頭を下げただけだった。笑ってはいない。けれど、その青い瞳には、確かな手応えのようなものが宿っていた。



◇


拍手と歓声が少し落ち着いた頃。


「リトさん、ネルさん」


小さな声に呼ばれて振り返ると、ミリアさんが受付の端から、こっそりと手招きしていた。


「どうしたんですか、ミリアさん」


「ちょっと、こちらへ」


カウンターの前に立つと、ミリアさんは盆の上に二枚のプレートを並べた。鈍い灰色に光る、鉄のプレートだった。


「お二人とも――本日付で、Eランクに昇格です」


「え?」


ネルの狐耳が、ぴんと立った。


「Fランクの依頼を、ずっと真面目に、こつこつこなしてくださったので。採取も、駆除も、捕獲も。一度も、投げ出さずに」


ミリアさんはそう言って、にこりと笑った。まるで自分のことのように、嬉しそうな顔だった。


「……あたしたちが、E」


ネルが、震える指で鉄のプレートを手に取った。胸元に下げていた銅色のプレートと、見比べる。

くすんだ銅色から、灰色の鉄へ。ほんの少しの、色の違い。


「おい、聞いたか! チビ種火と荷物持ちの狐が、Eだってよ!」


ホールのどこかから、からかう声が飛んだ。


「ハズレコンビが、Eか! 世も末だな!」


「まあ、剣聖様はDだけどな! 差は縮まらねぇな、ハハッ!」


どっと笑い声が上がる。いつもの、ホールの空気だった。


誰も、知らない。

アラクネ・クイーンの巣で、凍った鎧を内側から砕いたのが誰なのか。女王の背中の綻びを、涙をにじませながら見つけたのが誰なのか。


(……それでいい)


俺は、鉄のプレートをそっと胸元に下げた。ずしりと、ほんの少しだけ、銅より重かった。


隣で、ネルが俯いていた。笑い声に、言い返そうともしない。

でも、俺は見ていた。その背中で、赤茶の尻尾が押さえ込もうとする手をすり抜けて、ぱたぱたと小さく揺れているのを。


カウンターの向こうで、ミリアさんが、俺たちだけに見えるように小さく親指を立ててくれていた。



◇


「おい」


依頼書を持って受付から離れようとしたとき、背後から低い声がかかった。

振り返ると、レオンハルトが立っていた。胸元には、Dランクの真新しいプレートが光っている。


「討伐の日」


レオンハルトは、まっすぐに俺を見ていた。


「お前、どこにいた」


「宿で、寝てました」


俺は、できるだけ平然とした顔で答えた。嘘じゃない。半分くらいは。


「前の日に、薬草探しで転んで、疲れてて。丸一日、寝てました」


「……」


レオンハルトは、何も言わなかった。

青い瞳が、俺の顔をじっと見つめている。それから、俺の胸元の真新しい鉄のプレートに、ちらりと目を落とした。


「……そうか」


それだけ言うと、レオンハルトは背を向けた。数歩歩いて、振り返らないまま、ぽつりと言葉を落とす。


「まだ、答えは聞いてないからな」


白銀の背中が、人混みの中へ消えていった。俺はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。



◇


その様子を、二階の回廊から見下ろしている者がいた。


岩を削り出したような、強面の大男。ギルドマスターの太い指には、二枚の紙が挟まれていた。


一枚は、シェイラから提出された、アラクネ・クイーン討伐の報告書。

『討伐者:シェイラ』

その下の『協力者』の欄だけが、空白のまま残されている。


もう一枚は、受付の記録だった。

討伐の当日。Fランクパーティ『仄(ほの)かな灯(ともしび)』――依頼の受注、なし。


ギルドマスターは、二枚の紙をしばらく見比べていた。それから、ホールの片隅で新しい鉄のプレートを胸に下げた、黒髪の少年に目をやる。


「……そうか」


低い呟きは、誰の耳にも届かなかった。

ギルドマスターは、二枚の紙をそっと机の引き出しの奥へしまい込んだ。



◇


その夜。


眠り羊亭の部屋で、ベッドに寝転がって天井を眺めていると、窓がこん、こん、と小さく鳴った。


「……?」


起き上がって窓を開ける。誰もいない。

そう思って顔を引っ込めかけたとき。


「上」


すぐ頭の上から、静かな声が降ってきた。

見上げると、宿の屋根の縁から、銀色の髪がさらりと垂れ下がっていた。紫の瞳が、逆さまに俺を覗き込んでいる。


「シェイラさん」


「来て。狐の子も」


隣の窓が、勢いよく開いた。ネルが、狐耳をぴんと立てて身を乗り出していた。


「聞こえてたわよ、全部」



◇


宿の屋根の上は、思っていたよりずっと広かった。


眼下には、王都の夜が広がっている。下層区のごちゃごちゃとした屋根の連なり。その向こうに中層区の灯り。さらにその向こうに、月明かりに白く浮かび上がる二重の城壁。


シェイラは屋根の棟に腰かけて、膝の上に見慣れた紙袋を乗せていた。


「……座って」


言われるまま、俺とネルはシェイラの両隣に腰を下ろした。シェイラが紙袋から焼き菓子を三つ取り出して、一つをネルに、一つを俺に、最後の一つを自分の手に乗せる。


「いいの?」


ネルが焼き菓子を受け取りながら、ちらりとシェイラを見上げた。


「うん。三人分、買った」


「並んだの?」


「並んだ」


S級冒険者が、三人分の焼き菓子のために菓子屋の列に並んでいる姿を想像して、俺は思わず小さく吹き出しそうになった。


三人で、黙って焼き菓子をかじった。さく、さく、と小さな音が、夜の屋根の上にぽつぽつと落ちていく。


「……ん。美味しいね」


シェイラが、ほんの少しだけやわらかい声で言った。


「美味しい」


ネルが、ぽつりと答えた。もう、毒が入っていないかと疑う顔はしていない。尻尾が、屋根の上でゆらゆらと揺れていた。


しばらく、誰も何も言わなかった。夜風が、三人の髪を静かに揺らしていく。


「……約束」


不意に、シェイラが口を開いた。紫の瞳は、王都の夜景を見つめたままだった。


「君たちのことは、誰にも言わない。巣の中で見たことも。泡のことも。狐の子の目のことも。……ずっと」


「はい」


「ギルドマスターにも」


シェイラは、ほんの少しだけ首を傾げた。


「あの人、たぶん、何か気づいてる。でも、私からは、言わない」


その言葉に、背筋が少しだけ冷えた。けれどシェイラの横顔は静かで、約束をただ確かめているだけのようだった。


「ありがとうございます」


俺がそう言うと、シェイラは小さく首を横に振った。


「お礼を言うのは、私」


それから、少しだけ黙り込んだ。焼き菓子の最後のひとかけらを、指先でくるくると転がしている。何かを言おうか言うまいか、迷っているように見えた。


やがて、シェイラはぽつりと言った。


「……オーウェルと、サラ」


心臓が、跳ねた。


「……え」


「知ってる」


紫の瞳が、ゆっくりと俺のほうを向いた。

月明かりの中で、その瞳がほんのかすかに揺れていた。


「……父さんと、母さんを?」


声が、かすれた。


「父さんと母さんを、知ってるんですか!? なんで――いつ――父さんは、昔、何を――」


「……本人に、聞いて」


シェイラは、静かにそう言った。


その言葉に、俺は何も言えなくなった。


――本人に聞け。


ドワーフのガンツ親方。父さんのナイフを手にして、遠い昔を懐かしむような顔をしたあの人も、同じことを言った。


(……なんで、みんな)


父さんのことを知っている人は、みんな口をつぐむ。

知っているのに、教えてくれない。まるで、何かを守っているみたいに。


シェイラはそれ以上何も言わず、最後のひとかけらを口に入れて、静かに立ち上がった。


「……またね」


いつもの「また来る」とは、少しだけ違う言葉だった。

シェイラは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


「リト。……ネル」


「――っ!?」


ネルの狐耳が、ぴんと立った。

初めてだった。この人が「狐の子」じゃなく、ネルの名前を呼んだのは。


「な、名前……っ」


ネルが何か言い返すより早く。

銀の髪が、夜風にふわりと揺れて。

瞬きを、ひとつ。

その間に、シェイラの姿は屋根の上から消えていた。



◇


屋根の上に、俺とネルだけが残された。


「ずるいわよ、あの人」


ネルが膝を抱えて、ぼそりと呟いた。狐耳の先が、月明かりの下でもわかるくらい赤くなっている。


「最後にだけ、名前で呼ぶなんて」


尻尾が、屋根の上でぱたぱたと揺れていた。本人は、気づいていないみたいだった。


それから、ネルはふと真顔に戻って、俺の顔を覗き込んだ。


「リト。大丈夫?」


「ああ」


大丈夫じゃなかった。でも、何が大丈夫じゃないのかも、うまく言葉にできなかった。


「あんたの父さん、ほんとに、何者なんだろうね」


「さあな」


いつか、ちゃんと聞かなきゃいけない。手紙じゃなくて、顔を見て。本人に。


俺は、夜風に冷えた指先をぼんやりと見下ろした。


あの巣の中で、何度も「あと少し」に追い詰められた。

女王が氷の中でもがき始めたときも。シェイラが糸に吊るされたときも。三十を数え終わるまで、俺は何もできなかった。


(……三十は、長すぎる)


もっと速く。もっと短く。

あの人たちを、待たせないで済むように。


「ネル」


「ん?」


「明日から、また稽古しよう。石切り場で」


ネルはきょとんとした顔で俺を見た。それから、にっと口の端を持ち上げた。


「当たり前でしょ。Eランクなんだから」


ネルが、胸元の鉄のプレートを指先でちょんと弾いた。小さな、澄んだ音がした。


王都の夜空で、月が静かに、俺たちを見下ろしていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。