無音の約束
石切り場の裏道を抜けて王都の東門をくぐった頃には、もう昼を過ぎていた。
足が重い。一歩踏み出すたびに、膝が笑う。
頭の芯にはまだ鈍い痛みが残っていて、視界の端がときどきぐらりと揺れた。隣を歩くネルも同じで、目元を何度もこすりながら、ふらふらと俺の外套の裾を掴んで歩いている。
「……リト」
「……ん」
「……あたし、今、立ったまま寝られる気がする」
「……俺も」
それきり、二人とも何も喋らなかった。喋る気力すら、残っていなかった。
眠り羊亭の扉を押し開けると、厨房から女将さんがひょいと顔を出した。そして、俺たちの姿を見るなり目を丸くした。
「ちょっと、あんたたち! どこほっつき歩いてたんだい、そんな泥だらけで!」
無理もなかった。外套も靴も、髪の毛まで、泥と糸のかけらと、何だかよくわからない汚れでひどい有様だった。
「……ちょっと、薬草を、探しに」
「薬草を探して、なんでそんなことになるんだい!」
「転びました。二人で」
「転んだわ。二人で」
女将さんはしばらく呆れたように俺たちを見比べていたが、やがて大きな溜息をついて、厨房へ引っ込んでいった。戻ってきたときには、その手に湯気の立つ大きな椀が二つ乗っていた。
「ほら。食べてから寝な。顔が死んでるよ」
何も聞かずに、麦粥を押しつけてくれる。俺たちはその場で椀を空にして、それぞれの部屋に倒れ込んだ。
硬いベッドに顔を埋めた瞬間、意識がふっと途切れた。
◇◆◇
目が覚めたのは、翌朝だった。
ほとんど丸一日、眠っていたらしい。体はまだあちこちが軋んでいたけれど、頭の痛みはだいぶ引いていた。
「……リト。起きてる?」
扉の向こうから、ネルの声がした。いつもの遠慮のない叩き方じゃない、控えめな小さな声だった。
「起きてる」
「ギルド、行く?」
「行くか。いつも通りに」
いつも通りに。それが一番大事だった。
昨日、俺たちはどこにもいなかった。ただ薬草を探しに行って、転んで、泥だらけで帰ってきて、寝ていただけ。今日はいつものように、ギルドへ依頼を探しに行く。それだけだ。
◇
ギルド本部のホールは、朝から異様なほど沸き立っていた。
「聞いたか!? アラクネ・クイーンが、討たれたってよ!」
「やったのは、『無音』のシェイラだ! S級の!」
「森の奥から、捕まってた『鋼の誓い』の四人を、全員連れて戻ってきたんだと! 一人も欠けずに!」
あちこちで歓声と乾杯の声が上がっていて、朝だというのに酒の杯を掲げている者までいる。王都のすぐそばに巣を張っていたAランクの化け物が討たれたのだから、冒険者たちが浮かれるのも無理はなかった。
「しかしよ、シェイラは『手を借りてある』って言ってたんだろ?」
「ああ。どこの誰かは、結局、言わなかったらしい」
「どこかの街の凄腕だろ。A級か、それ以上の。……一度でいいから、顔を拝んでみてぇもんだな」
「謎の協力者、か。かっけぇなあ」
俺とネルは、その噂話の横を黙って通り過ぎた。掲示板の前に立って、Fランクの欄の依頼書をいつものように眺める。
ネルの狐耳は、噂話のほうへぴくぴくと向いていた。尻尾は――膨らまないように、ネルが後ろ手にぎゅっと押さえ込んでいた。
(……練習の成果、出てるな)
心の中で、少しだけ笑った。
「おおっ! 来たぞ、剣聖様だ!」
ホールの入口が、ひときわ大きく沸いた。
白銀の鎧に、陽の光を集めたような金髪。レオンハルトがホールに入ってきたところだった。その鎧にはいくつもの傷が刻まれていて、腕には包帯も巻かれている。
「森の外で、毒牙蜘蛛の群れを食い止めたんだってな!」
「何匹斬ったんだ!? 十か!? 二十か!?」
「『銀の猟犬』の弓使いを、助けたって聞いたぞ!」
冒険者たちがレオンハルトを取り囲んで、口々に褒めそやしている。その輪の中に、受付からミリアさんが歩み出てきた。手には、新しい冒険者証が乗った小さな盆。
「レオンハルト・フォン・ヴァイスベルクさん。先日の討伐での働きにより――本日付で、Dランクに昇格となります」
わあっ、と、ホールが割れんばかりの拍手に包まれた。
レオンハルトは新しいプレートを受け取りながら、軽く頭を下げただけだった。笑ってはいない。けれど、その青い瞳には、確かな手応えのようなものが宿っていた。
◇
拍手と歓声が少し落ち着いた頃。
「リトさん、ネルさん」
小さな声に呼ばれて振り返ると、ミリアさんが受付の端から、こっそりと手招きしていた。
「どうしたんですか、ミリアさん」
「ちょっと、こちらへ」
カウンターの前に立つと、ミリアさんは盆の上に二枚のプレートを並べた。鈍い灰色に光る、鉄のプレートだった。
「お二人とも――本日付で、Eランクに昇格です」
「え?」
ネルの狐耳が、ぴんと立った。
「Fランクの依頼を、ずっと真面目に、こつこつこなしてくださったので。採取も、駆除も、捕獲も。一度も、投げ出さずに」
ミリアさんはそう言って、にこりと笑った。まるで自分のことのように、嬉しそうな顔だった。
「……あたしたちが、E」
ネルが、震える指で鉄のプレートを手に取った。胸元に下げていた銅色のプレートと、見比べる。
くすんだ銅色から、灰色の鉄へ。ほんの少しの、色の違い。
「おい、聞いたか! チビ種火と荷物持ちの狐が、Eだってよ!」
ホールのどこかから、からかう声が飛んだ。
「ハズレコンビが、Eか! 世も末だな!」
「まあ、剣聖様はDだけどな! 差は縮まらねぇな、ハハッ!」
どっと笑い声が上がる。いつもの、ホールの空気だった。
誰も、知らない。
アラクネ・クイーンの巣で、凍った鎧を内側から砕いたのが誰なのか。女王の背中の綻びを、涙をにじませながら見つけたのが誰なのか。
(……それでいい)
俺は、鉄のプレートをそっと胸元に下げた。ずしりと、ほんの少しだけ、銅より重かった。
隣で、ネルが俯いていた。笑い声に、言い返そうともしない。
でも、俺は見ていた。その背中で、赤茶の尻尾が押さえ込もうとする手をすり抜けて、ぱたぱたと小さく揺れているのを。
カウンターの向こうで、ミリアさんが、俺たちだけに見えるように小さく親指を立ててくれていた。
◇
「おい」
依頼書を持って受付から離れようとしたとき、背後から低い声がかかった。
振り返ると、レオンハルトが立っていた。胸元には、Dランクの真新しいプレートが光っている。
「討伐の日」
レオンハルトは、まっすぐに俺を見ていた。
「お前、どこにいた」
「宿で、寝てました」
俺は、できるだけ平然とした顔で答えた。嘘じゃない。半分くらいは。
「前の日に、薬草探しで転んで、疲れてて。丸一日、寝てました」
「……」
レオンハルトは、何も言わなかった。
青い瞳が、俺の顔をじっと見つめている。それから、俺の胸元の真新しい鉄のプレートに、ちらりと目を落とした。
「……そうか」
それだけ言うと、レオンハルトは背を向けた。数歩歩いて、振り返らないまま、ぽつりと言葉を落とす。
「まだ、答えは聞いてないからな」
白銀の背中が、人混みの中へ消えていった。俺はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
◇
その様子を、二階の回廊から見下ろしている者がいた。
岩を削り出したような、強面の大男。ギルドマスターの太い指には、二枚の紙が挟まれていた。
一枚は、シェイラから提出された、アラクネ・クイーン討伐の報告書。
『討伐者:シェイラ』
その下の『協力者』の欄だけが、空白のまま残されている。
もう一枚は、受付の記録だった。
討伐の当日。Fランクパーティ『仄かな灯』――依頼の受注、なし。
ギルドマスターは、二枚の紙をしばらく見比べていた。それから、ホールの片隅で新しい鉄のプレートを胸に下げた、黒髪の少年に目をやる。
「……そうか」
低い呟きは、誰の耳にも届かなかった。
ギルドマスターは、二枚の紙をそっと机の引き出しの奥へしまい込んだ。
◇
その夜。
眠り羊亭の部屋で、ベッドに寝転がって天井を眺めていると、窓がこん、こん、と小さく鳴った。
「……?」
起き上がって窓を開ける。誰もいない。
そう思って顔を引っ込めかけたとき。
「上」
すぐ頭の上から、静かな声が降ってきた。
見上げると、宿の屋根の縁から、銀色の髪がさらりと垂れ下がっていた。紫の瞳が、逆さまに俺を覗き込んでいる。
「シェイラさん」
「来て。狐の子も」
隣の窓が、勢いよく開いた。ネルが、狐耳をぴんと立てて身を乗り出していた。
「聞こえてたわよ、全部」
◇
宿の屋根の上は、思っていたよりずっと広かった。
眼下には、王都の夜が広がっている。下層区のごちゃごちゃとした屋根の連なり。その向こうに中層区の灯り。さらにその向こうに、月明かりに白く浮かび上がる二重の城壁。
シェイラは屋根の棟に腰かけて、膝の上に見慣れた紙袋を乗せていた。
「……座って」
言われるまま、俺とネルはシェイラの両隣に腰を下ろした。シェイラが紙袋から焼き菓子を三つ取り出して、一つをネルに、一つを俺に、最後の一つを自分の手に乗せる。
「いいの?」
ネルが焼き菓子を受け取りながら、ちらりとシェイラを見上げた。
「うん。三人分、買った」
「並んだの?」
「並んだ」
S級冒険者が、三人分の焼き菓子のために菓子屋の列に並んでいる姿を想像して、俺は思わず小さく吹き出しそうになった。
三人で、黙って焼き菓子をかじった。さく、さく、と小さな音が、夜の屋根の上にぽつぽつと落ちていく。
「……ん。美味しいね」
シェイラが、ほんの少しだけやわらかい声で言った。
「美味しい」
ネルが、ぽつりと答えた。もう、毒が入っていないかと疑う顔はしていない。尻尾が、屋根の上でゆらゆらと揺れていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。夜風が、三人の髪を静かに揺らしていく。
「……約束」
不意に、シェイラが口を開いた。紫の瞳は、王都の夜景を見つめたままだった。
「君たちのことは、誰にも言わない。巣の中で見たことも。泡のことも。狐の子の目のことも。……ずっと」
「はい」
「ギルドマスターにも」
シェイラは、ほんの少しだけ首を傾げた。
「あの人、たぶん、何か気づいてる。でも、私からは、言わない」
その言葉に、背筋が少しだけ冷えた。けれどシェイラの横顔は静かで、約束をただ確かめているだけのようだった。
「ありがとうございます」
俺がそう言うと、シェイラは小さく首を横に振った。
「お礼を言うのは、私」
それから、少しだけ黙り込んだ。焼き菓子の最後のひとかけらを、指先でくるくると転がしている。何かを言おうか言うまいか、迷っているように見えた。
やがて、シェイラはぽつりと言った。
「……オーウェルと、サラ」
心臓が、跳ねた。
「……え」
「知ってる」
紫の瞳が、ゆっくりと俺のほうを向いた。
月明かりの中で、その瞳がほんのかすかに揺れていた。
「……父さんと、母さんを?」
声が、かすれた。
「父さんと母さんを、知ってるんですか!? なんで――いつ――父さんは、昔、何を――」
「……本人に、聞いて」
シェイラは、静かにそう言った。
その言葉に、俺は何も言えなくなった。
――本人に聞け。
ドワーフのガンツ親方。父さんのナイフを手にして、遠い昔を懐かしむような顔をしたあの人も、同じことを言った。
(……なんで、みんな)
父さんのことを知っている人は、みんな口をつぐむ。
知っているのに、教えてくれない。まるで、何かを守っているみたいに。
シェイラはそれ以上何も言わず、最後のひとかけらを口に入れて、静かに立ち上がった。
「……またね」
いつもの「また来る」とは、少しだけ違う言葉だった。
シェイラは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「リト。……ネル」
「――っ!?」
ネルの狐耳が、ぴんと立った。
初めてだった。この人が「狐の子」じゃなく、ネルの名前を呼んだのは。
「な、名前……っ」
ネルが何か言い返すより早く。
銀の髪が、夜風にふわりと揺れて。
瞬きを、ひとつ。
その間に、シェイラの姿は屋根の上から消えていた。
◇
屋根の上に、俺とネルだけが残された。
「ずるいわよ、あの人」
ネルが膝を抱えて、ぼそりと呟いた。狐耳の先が、月明かりの下でもわかるくらい赤くなっている。
「最後にだけ、名前で呼ぶなんて」
尻尾が、屋根の上でぱたぱたと揺れていた。本人は、気づいていないみたいだった。
それから、ネルはふと真顔に戻って、俺の顔を覗き込んだ。
「リト。大丈夫?」
「ああ」
大丈夫じゃなかった。でも、何が大丈夫じゃないのかも、うまく言葉にできなかった。
「あんたの父さん、ほんとに、何者なんだろうね」
「さあな」
いつか、ちゃんと聞かなきゃいけない。手紙じゃなくて、顔を見て。本人に。
俺は、夜風に冷えた指先をぼんやりと見下ろした。
あの巣の中で、何度も「あと少し」に追い詰められた。
女王が氷の中でもがき始めたときも。シェイラが糸に吊るされたときも。三十を数え終わるまで、俺は何もできなかった。
(……三十は、長すぎる)
もっと速く。もっと短く。
あの人たちを、待たせないで済むように。
「ネル」
「ん?」
「明日から、また稽古しよう。石切り場で」
ネルはきょとんとした顔で俺を見た。それから、にっと口の端を持ち上げた。
「当たり前でしょ。Eランクなんだから」
ネルが、胸元の鉄のプレートを指先でちょんと弾いた。小さな、澄んだ音がした。
王都の夜空で、月が静かに、俺たちを見下ろしていた。




