凍てつく鎧と、無音の一閃
両腕で抱えるほどの泡が、俺の胸の前で、静かに浮かんでいた。
中には、【プチアクア】の水が、なみなみと満たされている。
そこへ、【プチフロスト】の冷気を、少しずつ、少しずつ。
今までのどの泡よりも、大きい。
今までのどの泡よりも、重い。
揺らさないように、保っているだけで、腕が震えそうになる。
その向こうで、シェイラが、動いた。
泡の足場は、もう要らなかった。
巣に張り巡らされた、ぴんと張りつめた太い糸。
シェイラは、その上に、ふわりと飛び乗った。
細い糸の上に、まるで地面のように立って――そのまま、糸から糸へと、駆けていく。
(……糸の上を、走ってる)
足音は、しない。
【静寂】は、もう解けているのに。
それでも、シェイラの動きには、音がなかった。
女王の正面に、シェイラが立ちはだかる。
「――――ッ!!」
女王が、叫んだ。
焼けて潰れた顔の目の、その周りで、残った目が、ぎらぎらとシェイラを捉える。
長い腕が、振り下ろされた。
シェイラは、紙一重でかわす。
蜘蛛の前脚が、横薙ぎに。
曲刀の峰で、受け流す。
刃は、通らない。
それでも、シェイラは、引かなかった。
女王の正面で、腕を弾き、脚を逸らし、糸から糸へと跳び移りながら。
ひたすらに、女王の注意を、自分一人に引きつけ続けていた。
「リト、来る!」
ネルの声が、すぐ横から飛んだ。
見上げると、女王の腹の先から、白い糸の塊が、こちらへ向かって撃ち出されていた。
投げ網のように広がりながら、根元のくぼみへ――俺と、横たわる四人のほうへ。
ネルが、前に出た。
ナイフを、構える。
琥珀色の瞳が、ふわりと、どこにも焦点を合わせずに、飛んでくる糸の網を眺める。
二つ数えるほどの、ほんのわずかな間。
――ぴっ。
ナイフが、宙を走った。
糸の網が、ネルの目の前で、ばらばらにほどけた。
ほどけた糸は、ネルの肩をかすめて、地面に落ちていく。
「次!」
二つ目の網。
残っていた毒牙蜘蛛が、横から吐きつけてくる糸。
ネルは、俺の前から一歩も動かずに、飛んでくる糸を、次々と空中で断っていった。
石切り場で、跳ねる小石を割り続けた、あの稽古のとおりに。
(……十)
額から、汗が、だらだらと流れ落ちていく。
頭の芯が、じんじんと痛む。
四つの泡を同時に冷やしたときの、何倍も重い。
それでも、泡は、揺らさなかった。
◇
「リト」
糸を断ちながら、ネルが、低い声で言った。
その瞳が、女王の巨体を、じっと見つめている。
「毒。あそこに、溜まってる」
「どこだ」
「お腹の、一番大きな赤い模様の、すぐ下。あそこだけ、糸の流れが、変なの。膨らんでて、ぱんぱんに張ってる」
綻びを見る目。
ネルには、女王の体の中で、何かが溜まっている場所が、見えているのだ。
(……毒袋)
あれを凍らせずに、女王を爆ぜさせたら。
あの夜の毒牙蜘蛛とは、比べものにならない量の毒が、巣じゅうに降り注ぐ。
俺たちにも。
後ろで横たわる、四人にも。
(凍らせるのは、鎧だけじゃない。……毒袋まで、全部だ)
俺は、泡に流し込む冷気を、ほんの少しだけ、強めた。
揺らさないように。
慎重に。
(……二十)
「――――――ッッ!!」
女王が、叫んだ。
シェイラの曲刀が、女王の前脚を、大きく弾いていた。
その反動で、女王の巨体が、わずかに、のけぞる。
シェイラが、糸の上で、ちらりと、こちらを振り返った。
紫の瞳が、一瞬だけ、俺を見る。
――まだ?
俺は、歯を食いしばったまま、小さく頷いた。
泡の中の水が、しんと、静まり返っていく。
凍るべき温度を、とうに越えて。
それでも、凍らずに。
両腕の中で、冷たい重みが、ただ、じっと、その時を待っている。
(……あと、少し)
シェイラが、女王の真正面に、跳んだ。
曲刀の峰で、女王の顔を、思いきり打ち据える。
女王の巨体が、大きく、仰け反った。
背中が。
光る文様の走る、糸の鎧に覆われた背中が。
こちらに、無防備に、さらけ出される。
(……三十)
俺は、両腕の泡を、押し出した。
大きな、透明な泡が、宙を滑っていく。
ゆっくりと。
けれど、まっすぐに。
仰け反った女王の、背中へ。
――ぱちん。
弾けた。
音は、小さかった。
けれど――。
白が、走った。
弾けた水が、糸の鎧に触れた瞬間。
霜が、炎のように、燃え広がった。
背中から、肩へ。
肩から、八本の脚へ。
脚の付け根から、関節の一つひとつへ。
腹へ。
一番大きな赤い模様へ。
その下の、ぱんぱんに張った、毒の袋へ。
光る文様が、白い霜に、塗り潰されていく。
黒紫の甲殻が、見る見るうちに、真っ白に凍りついていく。
振り上げかけた脚が、宙で、固まった。
長い腕が、伸ばしたまま、止まった。
人の形をした上半身の、潰れた顔の上にまで、霜が這い上がっていく。
家ほどもある、巨大な女王が。
巣の真ん中で。
一瞬で、真っ白な、氷の像に変わっていた。
きらきらと。
細かな霜の粒が、宙に舞い散る。
青白く滲む巣の光の中で、それは、まるで、白い雪の中に立つ、巨大な彫刻のようだった。
「…………」
糸の上で、シェイラが、凍りついた女王を見上げていた。
その紫の瞳が、また、大きく見開かれていた。
◇
けれど。
――ぴし。
女王の、凍った鎧の奥で、何かが、軋んだ。
――ぴし、ぴし。
凍りついた脚の付け根が、わずかに、震えている。
霜の下で、何かが、動こうとしている。
(……まだ、生きてる)
当たり前だ。
相手は、Sに近い化け物だ。
凍らせただけで、終わるはずがない。
氷の中で、女王は、もがき始めていた。
「――ネル!」
「わかってる!」
ネルが、凍った女王の巨体を、見上げた。
琥珀色の瞳が、細められる。
針に糸を通すときのような、張りつめた集中の目。
止まっている相手なら、見える。
でも――。
(格上ほど、綻びは、細い)
ネルの瞳が、凍った鎧の上を、さまよう。
見えない。
いつもなら、三つ数えれば見えるはずの糸が。
まだ、見えない。
ネルの眉が、きつく寄せられる。
目の奥の痛みに、ナイフを握る手が、震えている。
「どこ……っ」
――ぴし、ぴし、ぴし。
氷の軋む音が、大きくなっていく。
女王の脚が、霜を散らしながら、ほんのわずかに、動いた。
「見えない、見えない、見えない……っ!」
ネルの瞳から、涙がにじんでいた。
痛みで。
それでも、ネルは、目を逸らさなかった。
いつもの倍は、かかっただろうか。
「――――あった」
小さな、小さな声だった。
「そこ! 背中の、真ん中! 鎧の継ぎ目の、一番下!」
ネルのナイフの切っ先が、凍った女王の背中の、一点を指す。
俺には、何も見えなかった。
真っ白な氷の、どこにでもある、継ぎ目の一つにしか見えなかった。
けれど。
「……わかった」
糸の上で、シェイラが、呟いた。
ネルの指した一点を、紫の瞳が、まっすぐに捉えていた。
シェイラが、糸を蹴った。
居合が、走る。
――バキィィィンッ!!
凍った鎧に、刃が、通った。
さっきまで、何度斬りつけても弾かれていた、あの鎧に。
ネルが示した継ぎ目の、一番下から。
真っ白な氷の鎧に、深い、深い、亀裂が走った。
けれど、それでも――女王は、止まらなかった。
亀裂の奥で、凍りかけた肉が、まだ、蠢いている。
軋む音が、さらに、大きくなる。
(……届いてない。刃が、芯まで)
氷の鎧は、割れた。
でも、その下の体は、まだ、生きている。
(――だったら)
俺は、右手の指先に、泡を作った。
◇
今度の泡は、凍らせるための泡じゃない。
両手でようやく包めるほどの大きさ。
その中に、【プチアクア】の水を、ありったけ。
指先に、【プチフレイム】の種火を、魔力を注ぎ泡の中へ送り込む。
そして、その種火の一つひとつを、髪の毛ほどの薄い膜で、もう一枚、包む。
――十歳のあの日、森の中で、バイソンボアの口の中で遅れて弾けた、あの泡。
――村を出た日、街道で、熊の喉の奥で弾けた、あの泡。
膜の厚みで、弾ける時間を、決める。
亀裂の奥の、さらに奥。
女王の体の、芯まで、届いてから。
(……弾けろ)
指先で、泡を、弾いた。
透明な泡が、宙を走った。
シェイラが刻んだ、亀裂の中へ。
するりと、吸い込まれていく。
凍った鎧の隙間を抜けて。
さらに奥へ。
もっと奥へ――。
一拍。
息を、ひとつ呑むほどの、間。
――――ドゴォォォォンッッ!!!
女王の体の、内側で。
白い蒸気が、爆ぜた。
腹の底を、殴りつけられたようだった。
いや、殴りつけられたのは、腹じゃない。
巣全体だった。
足元の地面が、揺れた。
白い柱のような大木が、根元から、めきめきと軋んだ。
巣じゅうに張り巡らされた糸が、一斉に、大きく波打った。
凍った鎧の、亀裂という亀裂から。
白い蒸気が、噴き出した。
背中から。
脚の付け根から。
関節の、一つひとつの隙間から。
まるで、凍りついた火山が、内側から噴火したように。
そして――。
ばきん、と。
女王の、真っ白な氷の鎧が。
内側から、砕け散った。
ガラスが割れるように。
光る文様ごと、無数の白い破片になって、宙に弾け飛んでいく。
朝の光を受けて、きらきらと、雪のように降り注いでいく。
女王の巨体が、大きく、仰け反った。
叫び声は、なかった。
もう、叫ぶことさえ、できないようだった。
八本の脚が、宙で、硬直したまま。
砕けた鎧の下の体が、蒸気を上げながら、その場に、縫いとめられたように、動きを止めていた。
毒は――。
降らなかった。
凍りついた毒の袋は、白い氷のまま、蒸気の中で、ひび一つ入っていなかった。
(……やった、か?)
膝が、がくりと落ちた。
両手を地面について、肩で、荒い息をつく。
頭の芯が、焼けるように痛い。
視界の端が、ぐらぐらと揺れている。
十歳の、あの日。
庭の空中で、小さく弾けた、初めての水蒸気爆発。
あの日は、それだけで、膝が笑った。
今は――。
家ほどもある、Sに近い化け物の鎧を、内側から、砕いていた。
◇
シェイラが、糸の上で、静かに立っていた。
紫の瞳が、動きを止めた女王を、見据えている。
細い指が、空中で、何かをほどくように、ゆっくりと動いた。
――世界から、音が、消えた。
【静寂】。
女王の軋む音も。
砕けた氷の破片が、地面に落ちる音も。
俺の荒い息も。
ネルの鼓動も。
全部、消えた。
音のない世界で。
銀の髪が、ふわりと、揺れた。
シェイラが、糸を蹴った。
――何も、見えなかった。
抜いた瞬間も。
振った瞬間も。
何ひとつ、目に映らなかった。
ただ、気づいたときには。
シェイラは、女王の、背後に立っていた。
曲刀は、もう、鞘に収まっていた。
そして。
女王の巨体が。
音もなく。
ゆっくりと。
二つに、分かれていった。
人の形をした上半身から、蜘蛛の体の、尾の先まで。
一本の、まっすぐな線に沿って。
音のない世界の中で、崩れ落ちていく、白い巨体。
それは、まるで――。
たった一筆で描かれた、静かな絵のようだった。
◇
音が、戻ってきた。
最初に聞こえたのは、鳥の声だった。
ちちち、と。
どこか遠くで、小さな鳥が、鳴いていた。
それから、風が、葉を揺らす音。
白い霜の破片が、まだ、きらきらと降り注ぐ、かすかな音。
巣の中には、もう、何も動くものはなかった。
「…………」
ネルが、ぺたりと、地面に座り込んだ。
目元を両手で押さえて、肩で荒い息をついている。
狐耳も、尻尾も、力なく、垂れ下がっていた。
でも、その口元は、笑っていた。
シェイラが、ゆっくりと、こちらへ歩いてきた。
糸の上から、すとん、と地面に降りて。
根元のくぼみの前で、立ち止まる。
紫の瞳が、俺を見下ろしていた。
泡の階段。
女王の顔で弾けた、水蒸気爆発。
家ほどの巨体を、一瞬で凍らせた、白い霜。
鎧の奥で弾けた、時限の爆発。
この人は、全部、見ていた。
すぐそばで。
自分の目で。
「……やっぱり」
シェイラが、静かに言った。
「君たち、だった」
俺は、汗だくのまま、地面に両手をついたまま、顔を上げた。
何か、言い返そうとした。
でも、もう、ごまかす気力なんて、どこにも残っていなかった。
だから、力なく、笑うしかなかった。
「……道案内、です」
シェイラの紫の瞳が、ほんの少しだけ、細められた。
「嘘」
いつもの、即答だった。
「……でも、いい」
その口元が、ほんのかすかに、ゆるんでいた。
初めて見る、ちゃんとした、笑顔に近いものだった。
「ぷっ」
ネルが、吹き出した。
目元を押さえたまま、肩を震わせて、笑っていた。
つられて、俺も笑った。
シェイラは、笑わなかった。
でも、その目は、確かに、笑っていた。
白い霜の破片が、まだ、きらきらと、三人の上に降り注いでいた。
「……あとは、私が運ぶ」
シェイラが、根元のくぼみに横たわる、四人を見下ろした。
「この四人を、本隊のところまで。……二人は、帰って。来た道から」
それが、約束だった。
巣の中で見たことは、誰にも言わない。
全部、シェイラがやったことにする。
俺たちは、ここには、いなかったことにする。
「はい」
俺は、ふらつく足で、どうにか立ち上がった。
ネルの腕を引いて、立たせる。
ネルは、目をごしごしと擦りながら、それでも、自分の足で立った。
「……リト」
背を向けかけた俺を、シェイラが、呼び止めた。
振り返る。
シェイラは、何かを言いかけて――少しだけ、迷うように、口をつぐんだ。
それから、ぽつりと言った。
「……ありがとう」
小さな、小さな声だった。
【静寂】の中じゃないのに。
風の音に、かき消されてしまいそうなくらい。
俺は、何も言えずに、ただ、頷いた。
隣で、ネルの尻尾が、ほんの少しだけ、揺れていた。
ネル「……読んでくれて、ありがと」
リト「ネル、今日は素直だな」
ネル「うっさい。……あのさ、ページの下の☆☆☆☆☆、押してくれると、喜ぶらしいの。作者が」
シェイラ「……☆、ちょうだい」
ネル「あんたはいつも急に出てくるのやめなさいよ!」
シェイラ「……ブックマークも、して。……そしたら、続き、もっと読める」




