足場は、泡で
宙に吊るされたシェイラを、女王の顔中の目が、じっと見つめていた。
裂けた口のようなものが、ゆっくりと開いていく。
急ぐ様子は、なかった。
まるで、捕らえた獲物を、どこから食べようかと、品定めしているように。
「……奇種」
糸に縛られたまま、シェイラが、低く呟いた。
紫の瞳が、女王を、まっすぐに見据えている。
「ただの女王じゃない。……ランクはAでも、中身は、Sに近い」
その声に、焦りの色が混じっていた。
初めて聞く、シェイラの、そんな声だった。
それから、シェイラは、ゆっくりと、こちらへ視線を落とした。
根元のくぼみに追い詰められた、俺たちを。
「……リト」
「シェイラさん!」
「逃げて。四人を、連れて」
静かな、けれど、はっきりとした声だった。
「沢まで戻れば、本隊がいる。……私は、いい」
――私は、いい。
その言葉に、胸の奥が、かっと熱くなった。
石切り場で、この人は言った。
もう、誰も、置いていきたくない、と。
昔、仲間がみんな帰ってこなかった、と。
自分だけが、生きて戻った、と。
その人が、今。
自分を置いて、逃げろと言っている。
「置いていけるわけ、ないでしょう」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「あなたが言ったんですよ。もう、誰も、置いていきたくないって」
シェイラの瞳が、わずかに、見開かれた。
◇
とはいえ。
どうやって、助ける。
俺は、足元を見下ろした。
根元のくぼみの周りは、女王が撒き散らした糸で、真っ白に覆われていた。
粘りつく、太い糸。
その隙間には、毒の雨が溜まった、どす黒い水たまり。
一歩でも踏み出せば、足を絡め取られるか、毒に焼かれるか、どちらかだ。
そして、シェイラが吊るされているのは、巣の高いところ。
大人が何人も肩車をしたって、届かない高さだ。
「リト」
ネルが、ナイフを握りしめたまま、俺の隣に立った。
「あの糸、あたしなら、断てる。二つ数えれば、綻び、見える」
「ああ」
「でも、届かない」
ネルの声が、悔しそうに震えていた。
目の前にあるのに。
断てるのに。
そこまで、行けない。
(……地面が使えないなら)
頭の中で、何かが、ぴん、と弾けた。
(地面じゃないところを、歩けばいい)
――五歳の、夏の終わり。
自室の床に座り込んで、ひたすら泡を作り続けていた、あの日。
内側からぎゅっと押し広げて、ぴんと張った膜。
指でちょんと突いても、破れずに、ぽよん、と弾んだ、小さな泡。
(……あれを、もっと硬く。もっと大きく)
指で突いても、割れないなら。
足で踏んでも、割れないんじゃないか。
俺は、足元の糸の上に、手をかざした。
泡を、一つ。
両手でようやく抱えられるほどの大きさに。
膜を、厚く。内側の圧を、ぎりぎりまで高く。
ぴんと張りつめた、硬い泡。
それを、糸の地面の、すぐ上の宙に、そっと浮かべる。
(……乗れるか?)
片足を、乗せてみた。
泡が、ぐにゅりと、たわむ。
――割れない。
体重を、かけた。
泡が、さらに沈む。
それでも、割れない。
俺の体が、糸の地面から浮いたまま、泡の上に、乗っていた。
「リト、それ……」
ネルが、目を丸くしていた。
けれど、泡は、ゆっくりと、沈み続けていた。
膜が、限界まで引き伸ばされていく。
長くは、もたない。
(だったら――)
もう片方の足の先に、二つ目の泡を作る。
一つ目が割れるより先に、二つ目に、乗り移る。
ぱちん、と。
足元で、一つ目の泡が弾けた。
けれど、俺の体は、もう、二つ目の泡の上にあった。
(踏んだ瞬間に、次を作り続ければいい)
足場が、もたないなら。
もつ間に、次の足場を作ればいい。
俺は、ネルを振り返った。
「ネル。俺が、道を作る」
「道?」
「泡の、階段だ。ネルの足元から、シェイラさんのところまで。乗れるか?」
ネルは、一瞬だけ、俺の足元の泡を見つめた。
それから、にっと、口の端を持ち上げた。
「乗ればいいのね」
◇
俺は、根元のくぼみに立ったまま、両手を、前へかざした。
ネルの足元に、一つ。
その斜め上に、二つ目。
さらにその上に、三つ目。
宙に、透明な泡が、一つ、また一つと浮かんでいく。
シェイラが吊るされた、巣の高みへ向かって。
まっすぐに伸びる、透明な階段。
「――行け、ネル!」
ネルが、跳んだ。
一つ目の泡を、踏む。
ぐにゅり、と泡がたわんで――その反動で、ネルの小さな体が、ふわりと持ち上がる。
二つ目。
三つ目。
ネルが踏んだ泡が、背後で、ぱちん、ぱちん、と弾けていく。
そのたびに、俺は、ネルの行く先に、新しい泡を作り続けた。
(遅れるな。一つでも遅れたら、ネルが落ちる)
ネルの足が、どこへ向かうか。
次に、どこを踏むか。
その一歩先に、泡を置く。
十年間、泡を思い通りの場所に浮かべ続けてきた。
その全部を、今、ネルの足元に注ぎ込む。
ネルは、一度も、足元を見なかった。
ただ、まっすぐに、シェイラだけを見上げて、駆け上がっていく。
俺の泡が、必ずそこにあると、信じているみたいに。
「――――ッ!!」
女王が、ネルに気づいた。
顔中の目が、一斉に、ぎょろりと動く。
骨ばった長い腕が、泡の階段を駆け上がるネルへと、振り上げられた。
(――させるか!)
俺は、右手の指先に、もう一つ、泡を作った。
今度は、硬い泡じゃない。
中に、【プチアクア】の水を、ひとしずく。
そして、【プチフレイム】の種火を、ひとつ。
狙うのは――女王の、顔。
腹じゃない。
毒が詰まっているのは、蜘蛛の体の、腹のほうだ。
顔なら、弾けても、毒は降らない。
指先で、泡を、弾いた。
透明な泡が、空を切って、女王の顔へと吸い込まれていく。
びっしりと並んだ、赤い目の群れの、真ん中へ。
――ドォンッ!!
白い蒸気が、女王の顔面で、炸裂した。
腹の底を殴りつけるような、重い衝撃音。
熱風が、巣の糸を、大きく揺らした。
「――――――ッッ!!!」
女王が、のけぞった。
蒸気の向こうで、顔に並んでいた赤い目が、いくつも、いくつも、焼けて潰れていくのが見えた。
振り上げていた長い腕が、宙をかきむしるように暴れる。
ネルへの一撃が、大きく、逸れた。
「――今だ、ネル!」
ネルは、もう、シェイラのすぐ下まで来ていた。
最後の泡を、強く踏み込んで。
小さな体が、宙へ、高く跳ね上がる。
シェイラを縛りつける、白い糸。
琥珀色の瞳が、その糸の、一点を捉える。
「一、二――!」
ナイフが、走った。
ぶつり、と。
シェイラの背中を縛っていた糸が、ほどけた。
肩を、腕を、曲刀ごと絡め取っていた糸が、するすると解けて、宙に散っていく。
シェイラの体が、落ちた。
けれど、それは、ほんの一瞬だった。
シェイラは、宙で、くるりと身を翻した。
その足元に――俺は、最後の泡を、作っていた。
すとん、と。
シェイラが、透明な泡の上に、着地した。
足音は、しなかった。
ネルも、その隣の泡に、ふわりと降り立つ。
二人の体重を受けた泡が、ぐにゅりとたわんで、それでも、割れなかった。
◇
「……リト」
泡の上に立ったまま、シェイラが、俺を見下ろした。
紫の瞳が、足元の、透明な泡を見つめる。
それから、焼けて蒸気を上げる、女王の顔を見る。
最後に、もう一度、俺を見た。
「それ、何」
「泡です」
それ以外に、答えようがなかった。
シェイラは、しばらく黙っていた。
何か言いたげに、唇が、ほんの少しだけ開いて。
それから、閉じた。
「……そう」
その口元が、ほんのかすかに、ゆるんだように見えた。
けれど、のんびりしている暇はなかった。
蒸気の向こうで、女王が、怒り狂ったように叫んでいる。
潰れた目の周りで、残った赤い目が、ぎらぎらと燃えていた。
顔の目は、半分近く潰した。
それでも、蜘蛛の体には、まだ、数えきれない目が残っている。
そして、あの、光る文様の走る糸の鎧は――傷ひとつ、ついていなかった。
「シェイラさん」
俺は、女王の鎧を見上げながら、言った。
「あの鎧、凍らせます」
シェイラが、こちらを見た。
「凍った糸は、ガラスみたいに、脆くなるんです。沢の毒牙蜘蛛の糸も、そうでした。あの鎧も、糸でできてるなら」
「……刃が、通る」
「はい」
シェイラの紫の瞳が、すっと細められた。
さっき、繭を吊るす糸が、白い氷の柱に変わったのを、この人は見ている。
「……時間は」
「三十」
俺は、指を三本立てて、ゼロの形を作ってみせた。
シェイラは、ほんの一瞬だけ、俺の指を見つめた。
それから、腰の曲刀に、手をかけた。
「……稼ぐ」
「あたしも」
ネルが、ナイフを構えて、シェイラの隣に並んだ。
狐耳を、ぴんと立てて。
「三十くらい、稼いだことあるもん」
ネルは、ちらりと俺のほうを見て、得意げに笑った。
あの夜、沢で。
毒牙蜘蛛を相手に、たった一人で、三十を稼いでくれた、あの笑顔だった。
◇
同じ頃。
東の森の、正面の入り口。
討伐隊の陣は、混乱の渦の中にあった。
「――来るぞ! また来る!」
森の奥から、黒い波のように、毒牙蜘蛛の群れが押し寄せてくる。
十。二十。それ以上。
巣から溢れ出した眷属たちが、雪崩を打って、陣に襲いかかっていた。
「くそっ、数が多すぎる!」
「毒に気をつけろ! 体液を浴びるな!」
Aランクのパーティが、前線で必死に食い止めている。
それでも、蜘蛛は木の上から、糸を伝って、次々と陣の中へ降りてくる。
「――うわあっ!」
悲鳴が上がった。
後詰めに回っていた『銀の猟犬』の、弓使いの男だった。
頭上から降ってきた毒牙蜘蛛に押し倒され、地面に転がっている。
蜘蛛の牙が、その喉元へと、振り下ろされる――。
――キィンッ!
白銀の閃きが、走った。
毒牙蜘蛛の体が、空中で、二つに分かれて吹き飛んでいく。
弓使いの前に、一人の少年が立っていた。
白銀の鎧。陽の光を集めたような金髪。
長剣の刃に、薄く風の魔力を纏わせている。
「下がっていろ」
レオンハルトだった。
「お、おう……っ」
弓使いが、這うようにして後ろへ下がる。
その間にも、新たな毒牙蜘蛛が、二匹、三匹と、レオンハルトへ飛びかかっていた。
レオンハルトは、退かなかった。
一歩、踏み込む。
長剣が、弧を描く。
風を纏った斬撃が、一匹目の脚をまとめて断ち、返す刃で、二匹目の胴を薙ぐ。
三匹目の牙を、半身でかわして――その頭を、真上から叩き斬った。
速い。
そして、重い。
Eランクの少年の剣とは、到底思えなかった。
「くっ……まだ来るか」
レオンハルトは、荒い息をつきながら、森の奥を睨みつけた。
その青い瞳には、恐怖ではなく、燃えるような光が宿っていた。
(――あいつは、今、どこにいる)
チビ種火。
討伐の朝、陣のどこにも姿が見えなかった、あの少年。
レオンハルトは、その疑問を振り払うように、また、剣を振るった。
陣の後方で、ギルドマスターが、腕を組んだまま、その背中を見つめていた。
「……剣聖、か」
低い呟きが、喧騒の中に、静かに溶けていった。
◇
巣の中。
俺は、根元のくぼみに足を踏ん張って、両手を胸の前にかざしていた。
指先から、泡を、一つ。
けれど、今度の泡は、これまでのどれとも違った。
手のひらに乗るほどの小さな泡じゃない。
両腕で、ようやく抱えられるほど。
今まで作った中で、一番、大きな泡。
その中に、【プチアクア】の水を、何十も、何十も、注ぎ込んでいく。
――あの鎧を、丸ごと、凍らせるために。
泡の階段の上で、シェイラが、曲刀を構えていた。
その隣で、ネルが、ナイフを逆手に、目を細めていた。
二人の背中の向こうで、女王が、潰れた目の痛みに狂ったように、八本の脚を振り上げている。
(……頼む)
【プチフロスト】の冷気を、ゆっくりと、流し込み始める。
三十を、数え始める。
(……一)




