女王の目覚め
数えきれない赤い目が、暗がりの中で、こちらを向いていた。
ゆっくりと。
巣の奥で、何かが、動き出す。
糸の天幕が、大きくたわんだ。
白い柱のような大木が、ぎし、と軋む。
――音は、まだ、ない。
【静寂】の中で、ただ、巣全体が、声もなく揺れていた。
暗がりの奥から、まず、脚が現れた。
一本。
太い。大人の胴回りほどもある。
黒紫の甲殻に覆われ、関節ごとに、針のような剛毛が逆立っている。
その脚が、糸の上に、ずしりと置かれた。
二本目。三本目。四本目。
八本の脚が、巣の糸を踏みしめて、その巨体を、暗がりから引きずり出していく。
家ほども、あった。
黒紫の、巨大な蜘蛛の体。
背中には、血を塗りつけたような赤い斑紋が、いくつも浮かんでいる。
その全身を、真っ白な糸が、鎧のように幾重にも覆っていた。
糸の表面を、うっすらと光る文様が、脈打つように走っている。
そして、その頭の位置から。
人の形をした、何かが、生えていた。
真っ白な肌の、女の上半身のようなもの。
けれど、人らしさは、どこにもなかった。
骨ばった長い腕。関節が、ありえない方向に曲がっている。
長い髪のように垂れ下がっているのは、髪ではなく、糸だった。
そして――顔。
本来、目と鼻と口があるはずの場所に。
びっしりと。
赤い目が、並んでいた。
大きいもの。小さいもの。
数えきれないほどの目が、ばらばらに瞬いて、ばらばらに、こちらを見ていた。
(……っ)
胃の底から、冷たいものがせり上がってくる。
見てはいけないものを、見ている気がした。
――アラクネ・クイーン。
隣で、ネルの尻尾が、根元から逆立っていた。
声が出ないのに、ネルの唇が、引きつったように、何かを形作る。
たぶん、悲鳴だった。
◇
シェイラが、すっと、立ち上がった。
細い指が、空中で、何かをほどくように動く。
――その瞬間。
音が、戻ってきた。
「――――――ッッ!!」
耳を裂くような、甲高い叫びが、巣じゅうに響き渡った。
女王の、顔中の目の下で、裂けた口のようなものが開いている。
金属を擦り合わせたような、ガラスを引っ掻いたような、生き物の声とは思えない音。
それに重なるように、巣全体が、ぎし、ぎし、と悲鳴を上げる。
無数の脚が、糸を叩く音。
どこかで、何かが、ぼとぼとと落ちる音。
「……っ、う……!」
ネルが、両手で狐耳を押さえて、うずくまった。
音のない世界から、一気に、轟音の中へ放り込まれたのだ。
狐の耳には、きつすぎる。
「……もう、隠れる意味、ない」
シェイラの声が、すぐ近くで聞こえた。
【静寂】を、解いたのだ。
久しぶりに聞く、その静かな声。
「二人は、あの四人を守って。……下がって」
初めて、声で、はっきりと告げられた指示だった。
紫の瞳は、まっすぐに女王を見据えている。
その横顔には、いつもの無表情の奥に、張りつめたものが走っていた。
「……っ、わかりました!」
俺は、うずくまるネルの腕を引いて、立たせた。
大木の根元のくぼみ。
助け出した『鋼の誓い』の四人が、並んで横たわっている場所へ。
「ネル、大丈夫か」
「へ、平気……っ。耳が、びっくりしただけ……!」
ネルは、ぶんぶんと頭を振って、腰のナイフを抜いた。
尻尾は、まだ逆立ったままだった。
◇
シェイラが、消えた。
いや、消えたんじゃない。
速すぎて、目で追えなかっただけだ。
気づいたときには、彼女は、女王の巨体のすぐ懐にいた。
糸の上を、足音ひとつ立てずに――今度は、【静寂】がないのに――駆け抜けて。
居合が、走る。
――ギィィィンッ!!
甲高い金属音が、巣じゅうに響いた。
火花が、散った。
(……え?)
女王の、糸の鎧。
光る文様の走る、その表面に、シェイラの曲刀が、弾かれていた。
刃は、糸の表面を、滑るようにして逸らされていた。
傷ひとつ、ついていない。
「……硬い」
シェイラが、低く呟いた。
弾かれた勢いを殺さずに、くるりと宙で身を翻して、女王の脚の上に着地する。
そのまま、二撃目。三撃目。
曲刀が、目にも留まらない速さで、鎧のあちこちを打つ。
そのたびに、火花が散り、刃が、ぬるりと滑らされる。
(嘘だろ……)
毒牙蜘蛛を、瞬きひとつで断った刃が。
Cランクの魔物を、音もなく真っ二つにした、S級の居合が。
通らない。
「――――ッ!!」
女王が、叫んだ。
人の形をした上半身が、ぐりん、と首を回す。
顔中の目が、一斉に、足元のシェイラを捉えた。
骨ばった長い腕が、振り下ろされる。
同時に、蜘蛛の前脚が、横薙ぎに。
シェイラは、跳んだ。
腕を、紙一重でかわし、前脚を、曲刀の峰で受け流す。
女王の脚が、糸の柱をなぎ倒し、白い大木の幹が、めきめきと音を立てて裂けた。
(……あれを、受け流したのか)
一撃でも食らえば、人間なんて、ひとたまりもない。
それを、シェイラは、まるで舞うように捌いていく。
けれど――攻めきれていない。
刃が、通らないのだ。
◇
女王の腹が、ぐぐっと、膨らんだ。
(……まずい)
あの夜の、毒牙蜘蛛と同じ動きだ。
いや、比べものにならない大きさの――。
――ブシャアアッ!!
女王の腹の先から、紫がかった霧が、噴水のように噴き出した。
霧は、巣の上空で広がり、雨のように、ばらばらと降り注いでくる。
霧の粒が触れた糸が、じゅう、と音を立てて黒く焦げた。
地面の苔が、見る見るうちに、どす黒く変色していく。
毒の、雨だ。
それが、巣じゅうに――俺たちのいる根元のくぼみのほうにまで、流れてくる。
「――っ、伏せて!」
俺は、ネルを引き寄せて、四人の上に覆いかぶさるように身を伏せた。
間に合わない――。
ごう、と。
風が、吹いた。
巣の中を、強い風が、一直線に駆け抜けた。
降り注ぐ紫の霧が、風に押し流されて、俺たちのいる方向から、大きく逸らされていく。
霧は、巣の反対側へと吹き飛ばされ、そこで、むなしく糸を焦がした。
顔を上げると。
女王の脚の上で、シェイラが、片手をこちらにかざしていた。
風の魔法だ。
俺たちを、毒の雨から守るために。
その、ほんの一瞬。
シェイラの意識が、俺たちのほうへ向いた、その隙に。
女王の長い腕が、シェイラの体を、横から薙ぎ払った。
「――ッ!」
シェイラの体が、宙を舞う。
けれど、空中で身をひねって、白い柱の幹に、ふわりと着地した。
傷は、ないように見えた。
けれど、その紫の瞳が、ほんのわずかに、細められていた。
(……守ってるから、攻めきれないんだ)
ふと、石切り場の言葉がよみがえる。
――私は、強すぎる。守りたいものまで、壊してしまう。
逆だ。
今、あの人は、守りたいものがあるから、全力を出せないでいる。
俺たちと、四人が、すぐそこにいるから。
◇
ぶちり、ぶちり、と。
何かが裂ける音が、巣のあちこちから響き始めた。
見上げると、巣の天井のあちこちに、白い袋のようなものがぶら下がっていた。
その袋が、内側から、次々と裂けていく。
中から、黒い影が、ぞろぞろと這い出してきた。
黒紫の甲殻。赤い斑紋。八本の脚。
毒牙蜘蛛だった。
一匹、二匹じゃない。
十。二十。それ以上。
(……卵、だったのか)
這い出した毒牙蜘蛛の群れは、糸を伝って、巣の外へと散らばっていく。
その多くが、森の、正面の方角へ――討伐隊の本隊が陣を張っている方角へと、雪崩のように駆け下りていった。
(本隊のほうへ……!)
けれど、全部じゃなかった。
そのうちの何匹かが、八つの赤い目をぎょろりとこちらへ向けて、根元のくぼみへと、まっすぐに這い寄ってくる。
横たわる、四人のほうへ。
「――ネル!」
「わかってる!」
俺は、父さんのナイフを、布の覆いごと引き抜いた。
ネルが、ばあちゃんのナイフを、逆手に構える。
一匹目が、糸の上から、飛びかかってきた。
俺は、半身で牙をかわし、父さんに叩き込まれた動きで、その脚の付け根にナイフを突き立てた。
硬い。
業物の刃でも、甲殻を貫ききれない。
それでも、脚を一本、使えなくした。
転がった毒牙蜘蛛の前に、ネルが滑り込む。
「……一、二――」
琥珀色の瞳が、もがく蜘蛛の体の、一点を捉える。
「――三!」
ネルのナイフが、すっと走った。
毒牙蜘蛛の体が、ふたつに分かれて、動かなくなる。
断ち口から滲んだ毒は、地面に吸い込まれていくだけで、四人のほうへは飛ばなかった。
ネルが、断つ方向を、ちゃんと選んでいたのだ。
「……っ、次!」
二匹目。三匹目。
俺が脚を止めて、ネルが断つ。
二人で、必死に食い止める。
けれど、数が多い。
ネルの瞳が、また、目の奥の痛みに細められていく。
(泡を使えば――)
一瞬、そう思った。
でも、ここで水蒸気爆発を使えば、毒牙蜘蛛の毒が、すぐ後ろの四人に降りかかる。
フロストバブルは、作るのに三十かかる。
今は、そんな時間はない。
(……剣で、凌ぐしかない)
父さん。
五年間、嫌々振ってきた剣が、今、こんなところで役に立つなんて。
◇
女王が、叫んだ。
「――――――ッッ!!」
人の形をした上半身が、両腕を大きく広げる。
その指先から、そして蜘蛛の体の腹の先から、白い糸が、四方八方へ撒き散らされた。
雨のように。
網のように。
糸が、巣じゅうの地面に降り積もっていく。
粘りつく白い糸と、毒の雨で焼けただれた、どす黒い水たまり。
足の踏み場が、みるみるうちに、なくなっていく。
(……地面が、使えない)
俺たちのいる根元のくぼみも、周りを、粘つく糸に囲まれていった。
四人を抱えて、ここから動くこともできない。
そして――。
女王の、顔中の目が。
一斉に、こちらを向いた。
シェイラではなく。
根元のくぼみに追い詰められた、俺たちと、四人のほうを。
蜘蛛の前脚が、高々と振り上げられる。
大人の胴回りほどもある、黒紫の脚。
その先が、俺たちの頭上へ、まっすぐに――。
(――避けられない)
ネルが、四人の前に、両腕を広げて立ちはだかった。
俺も、ナイフを構えて、その隣に並ぶ。
受け止められるはずがない。
わかっていても、動けなかった。
振り下ろされる。
――ガギィィンッ!!
衝撃が、来なかった。
目の前に、銀色の髪が、揺れていた。
シェイラだった。
いつの間にか、俺たちの真上に跳び込んで、曲刀で、女王の前脚を受け止めていた。
刃と甲殻が噛み合い、火花が散る。
細い腕が、家ほどもある巨体の一撃を、正面から支えている。
「……下がって、って、言った」
静かな声だった。
けれど、その腕は、かすかに震えていた。
「シェイラさん……!」
シェイラは、前脚を、曲刀で押し返した。
女王の脚が、ぐらりと揺らぐ。
その、瞬間だった。
シェイラの、背後で。
女王の、もう一本の腕が、音もなく動いていた。
骨ばった指先から、白い糸が、ばっと放たれる。
糸は、宙で網のように広がって――。
シェイラの背中を、絡め取った。
「――っ」
背中から。
肩から。
曲刀を握る腕ごと。
粘つく白い糸が、シェイラの体に、幾重にも巻きついていく。
女王の腕が、ぐい、と糸を引いた。
シェイラの体が、宙に引き上げられる。
曲刀が、手から離れることはなかった。
けれど、その腕は、もう、振るえなかった。
「シェイラさんッ!!」
宙吊りにされたシェイラの、紫の瞳が。
いつもの無表情に、初めて、焦りの色を浮かべていた。
「……っ」
女王の顔中の目が、一斉に、ぎょろりと動く。
宙に吊るされた、動けないシェイラを、捉える。
裂けた口のようなものが、ゆっくりと、開いていく。
――あの人は、俺たちを守ったせいで、捕まったんだ。
糸と毒に覆われた地面の上で。
俺は、ナイフを握りしめたまま、宙吊りのシェイラを見上げていた。




